(2)アメリカの日本占領(その2)
●日本防衛
▲占領下の日本防衛
アメリカの日本占領政策は、大きな矛盾を含んでいた。それは日本を軍事的に解体して非武装にすれば、当然、占領中の日本の安全保障はアメリカ軍の責任になる。
日本の占領期間が、当初、アメリカ政府が考えていたように短期であれば問題なかったが、その期間は予想以上に長期化してしまった。
そのためアメリカ政府の中にも、日本を完全に非武装化したことを後悔し、日本の再軍備を行い、米軍の負担を軽減すべきとする議論が強くなり始めた。
一方、日本から国としての戦力や交戦権を奪った日本国憲法「第9条」は、アメリカ自身が日本に押し付けたものである。ところが困ったことに、戦前の軍部による圧政にこりた日本国民は、アメリカ軍が与えた平和憲法を気に入ってしまった。
これは明らかにアメリカ政府の誤算であった。日本防衛は、アメリカにとって、今や重荷になってきていた。
日本占領の任にあたった第8軍の司令官・アイケルバーガーは、既に1948年に「我々には、日本を守る力はない」とはっきり述べていた。更に、1950年の朝鮮戦争に在日米軍の主力が朝鮮半島に出動すると、残りの在日米軍では、もはや自分たちの家族すら守りきれなってしまったことを真剣に心配していた。
1949年2月には、陸軍長官ロイヤルは、アメリカの防衛線を沖縄、アラスカ、台湾に設定して、在日米軍は引き上げを考慮すべきであるとして、日本放棄をはっきりと提言していた。
ところが朝鮮戦争がこのような状況を一変させ、日本をアメリカの極東戦略における重要な拠点に変えた。朝鮮戦争の開戦の年、マッカーサー元帥は日本国民への年頭メッセージの中で、日本国憲法第9条は自衛権を排除するものではないことをはじめて明言した。
マッカーサーは、日本国憲法を日本に押し付けた最高責任者であり、彼のノートには、「国権の発動たる戦争は放棄する。・・自衛のためでさえ・・」と明記し、側近のホイットニー准将に「日本を戦争できぬだけでなく、自衛さえも出来ぬようにせよ」と命令した当事者である。(西鋭夫「国敗れてマッカーサー」中央公論社、225頁)
そのマッカーサー司令官が、朝鮮戦争の開戦(6月25日)とともに、吉田茂首相あての書簡(7月8日)を通じて、7万5千人の国家警察予備隊の創設と海上保安庁に8000人の増員を指令した。
警察予備隊75,000人は米軍の4個師団であり、朝鮮戦争勃発時に日本本土に駐留していた米陸軍兵力に相当する。つまり日本の占領軍の役割を占領地の治安の維持と考えると、米軍のその役割をすっかり警察予備隊に移管できる規模の兵力?の創設を日本に指令したわけである。
従来、日本海軍の復活に対しては、そのいかなる動きにもGHQは反対であった。しかし、1946年6月12日に、朝鮮からのコレラ菌をもった密入国者の上陸を防ぐため、運輸省の管轄の下に、不法入国船舶監視本部を発足させ、それが1948年5月1日に海上保安庁となった。職員数は8156人で、運輸省の下にあるとはいえ、職員の殆どは旧海軍の軍人であった。
朝鮮戦争において、海上保安庁は米軍の元山上陸に対する助力要請を受けた。そこで吉田首相の決断で、掃海艇20隻、巡視船4隻,掃海母艦1隻の計25隻、1200人の「日本特別掃海隊」が秘密裡に結成されて、掃海作業に従事した。
1隻が蝕雷して1人の犠牲者を出した。つまり講和条約の発効時に、既に日本は警察予備隊という陸上兵力11万人、海上警備隊員6000人の兵力を持っていた。
更に朝鮮戦争の交戦地域にマッカーサーの命令で出動し、戦死者まで出していた。
1951年9月8日、講和条約が調印された。この条約の1項に、日本が国連との間に有効な安全保障協定が締結されるまで、米軍などに基地の継続使用を考慮するとする条文があった。
その間の安全保障のために、講和条約が締結された日に、アメリカとの間で、日米安全保障条約が調印された。
この条約は、基本的には、米軍の日本駐留を認める代わりに、アメリカは日本を守る、とするものであるが、アメリカの日本防衛義務を明記したものではない。
逆に日本で内乱が起こった場合には、日本政府の要請でこれに米軍が介入できるとする、など、きわめて不平等性の強いものであり、問題として残された。
▲講和会議以降の日本防衛
アメリカによる日本の軍事力増強の要求は、講和会議の直後から始まった。
1952年初頭、GHQは、吉田首相の代理・辰巳栄一元陸軍中将(=吉田が駐英大使のときの駐在武官、防衛問題に関する吉田の相談役)に対して、日本の本土防衛には10個師団、32万5千人が必要であり、アメリカ軍の早期撤退のためにも、これを数年以内に達成する事を要求した。
これを吉田首相が拒否し、結局、吉田首相とリッジウェイ総司令官との間で、さしあたり11万人、翌年13万人で話がついた。しかし1953年10月の池田・ロバートソン会談(池田勇人自由党政調会長、ロバートソン米国務次官補)において、アメリカは、再び、MSA(日米相互防衛援助協定・1953)による援助の見返りとして10個師団、32万5千人を要求、これに対して日本側は陸上部隊18万人体制を出して認められた。
1950年代を通じてアメリカは,常に日本の陸上兵力として30万人以上を要求してきた。これは日本の当時の保有兵力の約3倍である。
児島襄氏は、彼の大著「講和条約―戦後日米関係の起点」の中で、日本はアメリカに4回降伏したと書いている。それは(1)敗戦=軍事的降伏、(2)戦争裁判=法的降伏、(3)日本国憲法=行政的降伏、(4)対日講和条約=国際的降伏。(第3巻、680頁)
つまり講和条約につづき締結された「日米安全保障条約」とこれに付随する「行政協定」によるアメリカ軍の日本駐留は、新しいアメリカによる日本占領の始まりであった。それは講和条約を遵守して戦前の軍国日本の復活を監視すると同時に、日本をアメリカの本土防衛のための防波堤とするための戦略的手段であった。
これに対して講和会議以降、日本側からも新しい動きが出てきた。
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