(4)「カタストロフ」としての明治維新
★カタストロフとしての明治維新
江戸時代のカタストロフとしての明治維新は、慶応3年12月9日の「王政復古」の宣言から始まり、明治2年の「版籍奉還」、明治4年の「御親兵組織」と「廃藩置県」、明治6年の「征韓論」による政変、そして明治10年の「西南の役」までの10年の歳月をかけてほぼ終了した。この間の経過の概略を見る。
●版籍奉還
慶応3(1867)年12月9日の王政復古によって成立した新政府は、「公議政体論」を指導理念とした。つまり江戸時代の封建諸侯は、それぞれの領有権を尊重され、一部の公卿と雄藩の代表者が議事所で会議し、国家の最高意思を決定する体制である。この段階では、公議政体派も討幕派も共に天皇親政の形式は考えていなかった。
明治2(1866)年6月17日、旧藩主は幕府にならい朝廷に封土の返還を奏請し、これらの藩主は藩知事に任命され、旧藩の政務はそのまま継続された。つまり版籍奉還により、全国の土地人民はすべて朝廷に帰属し、封建大名は藩知事、大名の家臣たちは中央政府から任命された地方官僚になったが、実態は江戸時代の組織がそのまま残された。
●廃藩置県と中央政府組織の確立
明治4(1868)年になって、明治政府の中央・地方の組織がようやく確立した。
まず中央政府の組織は、7月29日に太政官の官制を改め、正院(=従来の太政官)、左院(=立法官)、右院(=各省)の3院とした。各省を太政官の分官たることに定めて、国政をすべて太政官に集中統一したことから、中央集権の実があがることになった。
太政大臣・三条実美、左大臣は空位、右大臣・岩倉具視、参議・西郷隆盛、木戸孝允、板垣退助、大隈重信(明治6年に、後藤象二郎、大木喬任、江藤新平、大久保利通、福島種臣)が任命された。
同年7月14日、廃藩置県の詔を宣し、藩知事を免官とした。ここに鎌倉幕府以来700年余にわたる封建制度が廃止され、中央集権の制度が始まった。10月に、府県官制が定められて、知事(後に県令と改称)・参事を置いた。諸県を廃合して3府72県とし、11年7月に郡区町村編成法などが制定されて地方自治が許された。
蝦夷地は北海道となり、琉球は琉球藩として王政のまま残された。
このように明治4年の官制改革によって大宝令以来の新しい官僚機構が整備された。そしてそれが良い意味でも悪い意味でも、日本の歴史に大きな影響力を与えるようになった。その概要を見る。
●軍官僚機構
戦前に「天皇大権」の下に日本をミスリードした最大の責任は、天皇に直属した軍官僚機構にある。その最初の基礎が、明治4-5年にかけて作られた。
幕府を倒し統一国家を作ろうとした明治政府は、驚くべきことに権力の基礎としての固有の軍隊を持っていなかった。幕末から戊辰戦争にかけて朝廷の立場にたって戦ったのは、薩摩・長州・土佐などの西南諸藩の軍隊であって天皇に直属したものではなかった。
明治元(1868)年4月に陸軍編成法が作られて、各藩から1万石に対して3人の割合で中央に兵士を出させる法律が制定された。しかし新政府にはそれを強制する力も財力もなく、翌年2月には廃止された。
それどころか戊辰戦争において、東北諸藩を平定した藩兵たちは各藩に帰り、新政府に対して不満を持った敵対勢力に転化する恐れが出てきていた。
この中でいち早く徴兵制による中央常備軍の建設を意図したのは、長州藩の大村益次郎であった。大村は、明治元年2月に軍防事務局判事加勢に任じられてから、明治2年9月に京都で刺客に襲われるまでの2年間、新政府の軍事面の実質的な主宰者として、中央直属部隊の創出に努めた。
明治3(1870)年8月、欧米で軍事研究をした山県有朋と薩摩の西郷従道が帰国し、山県は兵部少輔、西郷は兵部大丞に任ぜられた。やがて兵部省の実権は山県の手に帰し、山県は徴兵制の採用を目指した。
そして明治4年2月、山県は薩摩・長州・土佐藩の兵を取り込み、3藩の兵による「御親兵」による約8千人の政府軍を作った。この御親兵による武力を背景にして、版籍奉還が達成できたわけである。
御親兵設置に続いて、全国の藩兵をしだいに整理し、東京、大阪、鎮西、東北に4鎮台を置き、明治5年に兵部省を陸・海軍の2省に分け、3月には「御親兵」を近衛と改称した。しかし木戸、大久保、山県などの中央政府の官僚と、近衛や鎮台兵の対立が深まり、次第に軍の統制が困難になってきていた。
このような状況を踏まえて、明治4(1871)年12月、兵部大輔・山県らは、国民皆兵による「徴兵制」を建議し、明治6年1月10日に徴兵令が発布された。
しかし当初の国民皆兵は、適齢者の8割以上が免役となるものであり、「国民皆兵」とは程遠いものであった。しかしこの徴兵令は、全国40万人の士族にとってその生活や特権を奪うものであり、このことが明治6年の征韓論政変に結びつき、更に明治6年から明治10年の西南の役に至る士族の反乱の原因となった。
●明治政府の最大の危機―征韓論政変
幕末から明治初年にかけて、版籍奉還に続く廃藩置県によって権力の座を失った旧藩主たち、また徴兵制によって職業を奪われた旧士族たち、明治維新に貢献した西南雄藩の覇権争い、更に藩内部における上・下武士間の葛藤など、明治維新をめぐる色々な問題は、明治4-6年ころにかけてピークに達していた。
この日本国内の不満や問題を、国際紛争にすり替えて明治国家を一つにまとめていこうという考え方が「征韓論」として現われたと考えられる。その意味から、幕末における「攘夷」思想の明治版が「征韓論」となったといえる。
征韓論をめぐり、明治政府の最上層部は立場が真二つに分かれ、新政府はここに最大の政治危機を迎えたといえる。
征韓論問題の経過を簡単に振り返ってみる。
まず、西郷隆盛が全権大使として訪韓したい旨の提案を太政官、参議の定例会議で提案したのは、明治6(1873)年6月12日のことであった。この日は、右大臣・岩倉は外遊中、外務卿・副島種臣は清国出張のため結論は出なかったが、西郷の意思は固く、8月17日の閣議で隆盛の遣韓使節が決定した。
ただしこのことの発表は、岩倉大使の帰朝後ということになった。
西郷を征韓論に走らせた大きな動機は、廃藩置県によって領地と権限を失った薩摩藩主・島津久光の大きな怒りを西郷が買ったことにあると思われている。
久光にすれば、自分の領地を犠牲にして、一身を省みず天下のために尽くしたと考えている。しかし西郷はそのことを忘却して、自分は明治国家の高位高官になったとして、久光は西郷を非常に憎んだといわれる。
このことから西郷は、非常に悩み、「暴殺」を覚悟の訪韓使節の志願に結びついていったと思われる。(浜田尚友「西郷隆盛のすべて」)
当時、世界を外遊中であった右大臣・岩倉具視の使節団は、9月13日に帰国した。西郷隆盛が使節として訪韓した場合、戦争に突入することが不可避と見た岩倉は、戦争を避け内治を優先させる立場から、どうしても西郷の訪韓を阻止しようと考えた。
この段階では、当初は征韓論の立場をとっていた木戸が反対の立場に変わり、三条は迷っていた。双方の策謀で10月に新しく大久保と副島が参議に加えられた。
10月14日、遣韓使問題の歴史的会議が開かれた。この席で岩倉、大久保は遣韓使の延期を主張し、西郷達と鋭く対立した。翌15日の第2回会議には、西郷は所論が言い尽くしたとして欠席。西郷を支持する板垣、副島と大久保の議論に終始した。17日には、大久保は参議辞職、位階返上の表を提出、木戸も辞表提出。
10月17日の会議には、西郷は出席したが、岩倉、大久保、大隈、大木、木戸が欠席。17日夜に、三条は西郷を自宅に招き夜明けまで談合したが、逆に西郷に説得されてしまった。
10月18日、太政大臣・三条実美は自宅で卒倒、人事不省に陥った。この日、三条は上奏直裁を仰ぐことになっていた。それが三条の急病のため、23日に右大臣・岩倉が太政大臣代理として天皇に反対意見の奏上し、24日に岩倉の意見書が天皇により嘉納された。
明治6(1873)年10月24日、征韓論に敗れたことから明治政府の中枢を占めていた高級官僚である薩摩の西郷隆盛、土佐の板垣退助、後藤象二郎、佐賀の副島種臣、江藤新平など5参議をはじめ多くの賛同者が一斉に下野するという大事件になった。しかも波紋は、それら高級官僚に留まらなかった。
近衛隊では「凡そ百余人の士官」が辞職して、「近衛の仕官之が為に幾んど空し。陸軍卿山県有朋旨を奉し、更に近衛を編成す」(田中惣五郎「近代日本官僚史」)といわれるほどの大騒動となった。
これら明治政府と袂を分かった官僚たちは3つの道をとった。
第一は武力による反乱である。それは明治7-10年にかけて頻発した。明治7年には、1月に右大臣・岩倉具視が襲撃された。2月には、江藤新平の佐賀の乱が起こった。明治9年10月には前原一成の萩の乱がおこった。そして最大の反乱が明治10年2月、西郷隆盛による西南の役となった。
第二は、新政府に対する思想的批判の形をとり、明治7年1月の民選議員設立運動となった。この運動には、江藤新平も加わったが、土佐の板垣退助、後藤象二郎、佐賀の副島種臣などが運動に参加し、更に、その後の自由民権運動に繋がっていく。
第三が、征韓論とは直接関係しないが、その前に下野した井上馨、渋沢栄一の路線で、新興資本と絡んで政府の殖産興業政策を民間で実現する推進力となった。
明治6(1873)年10月25日、右大臣・岩倉具視、参議・内務卿・大久保利通を中軸とした「内治派」新内閣ができた。特にここで注目されるのは、空位になっていた左大臣のポストに、旧薩摩藩主・島津久光が内閣顧問として就任したことである。西郷に征韓論を急がせる原因になった旧藩主に対して、同じ旧薩摩藩出身である大久保の配慮が読み取られる。
西郷が下野した翌7年1月14日、右大臣・岩倉具視は自宅への帰途、赤坂・食違いで土佐の征韓派の刺客に襲撃された。一命は取り留めたが、それを契機に権勢は衰えていった。
更に、西南の役の翌明治11年5月14日、参議・内務卿・大久保利通は、登庁の途中、赤坂紀尾井町において刺客・石川県士族・島田一郎たちに襲撃され暗殺された。刺客は西南の役に西郷軍に参加しようとして果たせなかった士族たちであった。大久保の死後、明治の新政府は、「大久保内閣」の閣僚であった山県有朋、伊藤博文など長州閥の勢力が優勢となった。
そして西南戦争で初期の陸軍に力をもっていた西郷軍が滅ぼされて以降、特に陸軍の軍官僚の上層部はほとんど長州で占められるようになっていった。
日本の軍部における長州閥の勢力は、伊藤博文、山県有朋などの元勲政治により昭和の戦前期まで影響を及ぼし、更に軍部と結びついた「新官僚」として東条内閣の商工大臣・岸信介とその実弟・佐藤栄作を通じて戦後の日本政治にまで大きな影響を及ぼした。その原点は、明治6年の政府組織改革にある。
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