(3)「尊王」の思想
★「尊王」思想―孔子と孟子がなぜ尊王に結びついたか?
●国粋思想の原典となった孔子と孟子
更に、江戸時代から明治以降にかけての国粋思想の連続性の問題を考えてみると、思想的には意外にその間が連続している。つまり勤皇派も佐幕派も、意外にそれほど違わない同じ思想的基盤の上で争われていることに驚かされる。
江戸幕府の開祖・徳川家康は、儒教に非常な関心を持っていた。それを継いで、3代将軍家光は、寛永7(1630)年、林羅山に対し江戸忍岡に邸宅を与えて、儒教の学校を開設させた。その後、この学校は湯島に移り、幕府の大学として200年にわたって文教の中心となった。これが昌平黌(しょうへいこう)である。
その後、国学が起こり「儒教」とは異なる考え方が出てきたし、儒学の中もいろいろな分派が登場してきた。しかし儒教思想そのものは、江戸時代を通じて立場や身分を越えて日本人の中に根を下ろした。
そして、その基本的な思想は明治以降、昭和に到るまで我々の考え方、生き方に影響を及ぼしてきており、日本人の思想は儒教思想と分離することはほとんどが不可能なほど一体化しているといえる。
江戸時代に幕府の官学であった林家の朱子学(「宋学」)に対して、特に荻生徂徠などの「古学」、つまり「儒教原理主義」というような一派が尊王や王政復古の思想に結びついていった。
例えば、日本の尊王思想の流れを明らかにすべく、水戸の徳川光圀によって始められた「大日本史」の編纂は、清の朱子学者・朱舜水を招聘して行われた。この大日本史の編纂を通じて形成され、その後に全国の勤王派の思想の拠り所の一つとなった「水戸学」は、荻生徂徠、熊沢蕃山などの儒学の流れを汲むものであった。
また長州の勤皇派の元祖ともいえる吉田松陰は、安政元(1854)年にペリー来航の際、渡米に失敗して長州の野山獄に囚われた時、2度と出獄できない獄中で囚人を集めて勉強会を始めたが、そのテーマは、なんと儒教の聖典の「孟子」であった。
その流れを受けて、元治元(1864)年の長州の奇兵隊の勉強会では、「孟子」の輪読が行われている。
更に、幕末に徳川慶喜の家臣として渡仏し、帰国後に第一銀行の創設から始まり、明治から昭和にかけて、いわば日本資本主義を作り上げていった渋沢栄一が、生涯を通じて思想的な拠り所にしたものは、孔子の「論語」であった。彼の行動がいかに「論語」と関わってきたかを、大著「実験論語」に著わし、更に84歳という高齢になってから「論語講義」という大著に纏めている。つまり渋沢の思想は、ヨーロッパの経済思想ではなく儒教の原理思想であったといえる。
つまり江戸時代を支えた思想、なかでも孔子・孟子の儒教的思想の原典に遡った原理主義は、明治政府を作った勤皇派の思想に意外に大きな影響を及ぼしている。
これは一体どうしたことであろうか?
●「儒教原理主義」と「勤皇思想」の結びつきは何か?
これを知るには、中国四千年の歴史と思想が、江戸から明治の日本人にとっては人類普遍の思想の原点と考えられていたことを知る必要がある。
例えば司馬遷の「史記」見ると、中国の歴史は、三皇(包犧・女か・神農)、五帝(黄帝・せんぎょく・ていこく・堯・舜)という伝説上の皇帝から始まっている。最初の「三皇」は、半人・半獣の神話世界の帝王であるが、続く「五帝」のうち黄帝、尭帝、舜帝の3人の人王の時代には、理想的な徳治が行われたと考えられている。
たとえば孔子により作られたとする儒教の聖典「書経」では、五帝のうちの堯帝・舜帝から話を始められ、その治世は、儒家の理想とする徳の政治が行われた時代と考えられた。
書経の冒頭は、堯帝の徳を称える言葉から始まり、そこには「百姓昭明にして、万邦を協和す」と書かれている。この言葉はわが国の「昭和」の元号の基となったものであり、その時代が、堯帝の御世のように、人民がみな明るく、世界が平和であるようにとの祈りを込めてつけられたものである。
中国の最初の王国は、堯・舜帝に続く禹帝が治山・治水に成功して建国した「夏」という国である。この「夏」の王朝は、1970年に黄河流域の二里頭というところに大宮殿祉が発見されたことから、実在したといわれている。
この「夏」の国は、中国のみならず、日本においても人類普遍の理想国家の原点になっていた。山本七平氏によると、その理想国家である「夏」を慕う思想を「慕夏思想」と言ったといわれる。(「現人神の創作者たち」)。
中国において、五帝の時代は理想の徳治、儒教の「先王の道」が行われる理想の国であった。中国では、その後次々に王朝が変わっていった。しかし日本では建国の初代・神武天皇以来、連綿として万世一系の天皇による治世が続いており、このことから人類普遍の理想国家「夏」につながる真の理想王朝は、実は日本において実現したとする見解がでてきた。
その観点から、日本の南北朝時代の僧・中厳円月は、日本の初代の神武天皇は、呉の太伯の子孫であるとする「天皇中国人論」という尊王学説を唱えた。いまの右翼系の人々が聞いたら仰天するような思想である。
江戸時代の儒教でも、当時の官学の主流であった「朱子学」は中国製の儒学であるが、朱子学とは一線を画して、孔子や孟子が説いた「先王の道」こそ人類普遍の規範であり、それは日本で実現したとする国粋主義的儒学とでもいうべき「古学」が新しい思想として登場した。
この「儒教原理主義」ともいえる「古学」を唱えたのは、江戸時代前期の儒者・荻生徂徠(1666-1728)である。徂徠は、「孔子の道」を「先王の道」、そしてその「道」こそ「天下を安んずる道」として、朱子学、陽明学など、過去の儒学のすべてに反対して儒学の原点に回帰し、それを日本の皇祖・天神と結びつけた日本的儒学を確立した。そして、この思想が「勤皇思想」に見事に合致することになった。
「王政復古」と荻生徂徠の思想との関係は、山路愛山の流れを汲む民衆史家である白柳秀湖「明治大正国民史」(明治初編)に詳しく書かれている。
つまり勤皇派も佐幕派も、天皇の対する「尊王」という点で対立していたわけではなく、幕府が天皇から実行命令を出されている「攘夷」を無視していることを理由に、「倒幕」の大義として「尊王」という言葉が使われたに過ぎない。
★「尊王攘夷」は倒幕の手段に過ぎなかった
●公武合体論はすべて潰された
つまり「攘夷」も「尊王」もその大義が怪しいとすると、明治維新における「倒幕」の大義も怪しくなってくる。このことが表面化しかけたのは、幕府と朝廷による「公武合体」の動きが出てきたときである。
公武合体論は、幕府、長州藩、薩摩藩の上層部から出てきたが、すべて潰された。そのことは尊王攘夷をすすめたのが下級武士層であり、尊皇攘夷の真の目的は倒幕にあったことを示しているように思われる。
まず万延元(1860)年7月、幕府の久世・安藤政権は、連署により孝明天皇に奉答書を提出し、「公武一和」による体制の立て直しを図った。
その体制を作り出すために、孝明天皇の皇女和宮と第14代将軍・家茂の婚儀が行われた。その一方で幕府は大規模な経済改革・軍政改革に乗り出した。
この久世・安藤政権の経済政策は、開港以来進展しつつあった商品経済に対応できず、この政策に不満をもつ幕府の中堅官僚の反撃を受けて失敗した。
文久元(1861)年5月には、長州の長井雅楽による公武合体論が出された。この案は、朝廷が征夷大将軍である幕府に対して積極的な開国政策を命令し、「皇国」を世界・五大州に雄飛させるという積極的なものであった。長井は5月に、この案を朝廷に提案し、朝廷から幕府へ周旋するよう内命を得た。
更にこの案により幕府の老中・久世、安藤の諒解を得て、翌文久2年には、この公武合体案は成功するかに見えた。しかしこの案はその後、長州の尊攘派の激しい攻撃に曝され、安藤は文久2年1月、坂下門外で水戸藩士に襲われた。そしてこれを契機に安藤は失脚して、この案は流れた。
薩摩藩でも、島津久光が幕政改革を前提とした三策からなる公武合体案を打ち出した。その第一は、将軍が大名をつれて上洛し、国家治平の作を立て国是とする、第二に沿海五大藩主(薩・長・土・仙台・加賀)を五大老として国政に参与させ、攘夷実行のための武備を充実させる。第三に一橋慶喜に将軍を補佐せしめ、松平慶永を大老にする、以上の三策の内からの選択を勅使・大原重徳をたてて幕府に迫り、幕府は島津久光の推す第三の策をとった。
これらの幕府や雄藩の上層部からの幕政改革を前提とした公武合体論は、これら雄藩の下級藩士を中心にした討幕派の台頭に圧倒され始める。それは大体、慶応2(1866)年と見られるが、図らずもこの年に、公武合体派のトップである孝明天皇と将軍・家茂の2人が突然、亡くなる。それはいかにも不自然な死であり、現在に到るまで暗殺説が流れる所以である。
●「王政復古」とは何であったのか?
慶応3(1867)年10月14日、第15代将軍・徳川慶喜は、朝廷に政権と位記の返上を申し出た。いわゆる「大政奉還」である。慶喜は、「大政」を奉還しても、諸侯会議における実権を握ることはできるので、実質的な権力の維持はできると考えていたと思われる。
当時、大政奉還後には、天皇の下で諸侯会議が実権を持つことになると考えられていた。その考え方は、この「諸侯会議」を、欧米の議会制度論を真似た公議政体論に比肩するものであるが、実際に、そこで構想されていた政体は、従来の幕府中心を朝廷中心に置き換えた封建連邦以外のなにものでもなかった。
慶喜は大政奉還により名目的な実権を朝廷に返すとしても、「議事院」における実権を握ることにより、倒幕派の名目を失わせることを狙ったと考えられる。
朝廷は、12月9日に、幕府を廃止し、神武天皇の創業時に戻して日本の政治を始める旨の「王政復古」の大号令を出した。しかし江戸時代の全国の藩とそこで生活する武士階級から生活権の全てを取上げ、新しい中央集権的な国家組織を作出すことは大変なことである。そのため、実際には明治2年6月の「藩籍奉還」、明治4年11月の「廃藩置県」、明治6年の征韓論を契機にした新政府内の政変、明治10年の西南の役などをへて、ようやく明治日本の国家組織の形が出来上がっていった。
「王政復古」から始まるカタストロフとしての明治維新により、江戸時代の幕府を頂点とする「封建制」の国家組織は、明治の天皇を頂点とした中央集権的な「郡県制」の国家組織に置き換えられていった。
日本の天皇を頂点にした統一国家への移行は、中国における秦の始皇帝による周の封建制から郡県制への移行に匹敵する大きな歴史的な改革になった。
中国において「封建」という言葉は、孔子によって編纂された「春秋左伝」の「親戚を封建し、以って周を藩屏す」という文から取られたといわれる。ここでの「封」とは、土を盛り上げて、国の境界の標とすること、「建」とは、国を建てることを意味する。中国では、秦の始皇帝が周王朝を滅ぼして、天下を統一した時に「封建制」が廃止されて「郡県制」が施行された。そのことから「封建制」は、「郡県制」に対する制度と考えられている。
「郡県制」における郡県の長官は、世襲的な貴族ではなく、中央から派遣される官僚である。この官僚は皇帝による直接統治の代行者として派遣されるものであり、その地位は世襲ではない。従ってそこでは、皇帝による中央の権力の支配が強くなる。日本では、維新後の間もない明治2(1869)年5月、後の議会に当たる「公議所」において、日本の国体を「封建」にすべきか「郡県」にすべきか、論議が行われた。
当然、各藩の武士階級は「郡県」に反対して、議論は相半ばした。つまり江戸時代の支配階級であった「武士階級」にとって、明治維新はまさにカタストロフであり、新しい時代の国家官僚が編成されるまでには、なお10年の歳月が必要になった。
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