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彷徨える国と人々
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  (3)日ソ戦争と「北方領土」の誕生

●分割されかかった日本列島
 1945年8月15日の日本降伏の日、トルーマンはスターリンに対し、日本降伏後に連合国側に所属することになる地域の草案(=「一般命令第1号」)を送付した。
 そこではソ連の占領地域は、満州と北緯38度以北の朝鮮となっており、千島は含まれていなかった。ヤルタの秘密協定は、トルーマンにより完全に無視される事態が起こっていた。

 このようなアメリカの対応を予想していたソ連は、8月16日、直ちにトルーマン宛に密書を送り、「一般命令第1号」を次のように修正することを要求するとともに、千島列島に対する軍事侵攻に乗り出した
 (1) 日本軍がソ連軍に明け渡す区域に千島列島全土を含めること。
   これはヤルタ会談における3カ国の決定により、ソ連の所有に移管
   されるべきである。
 (2) 日本軍がソ連軍に明け渡す地域には北海道の半分を含むこと。
   北海道の南北に2分する境界線は、東岸の釧路から西岸の留萌
   までを通る線とする。なおこの両市は北半分にはいるものとする。

 ここでソ連は当然の要求として千島列島の領有をあげたのみか、「ささやかな要求」?として北海道の占領を持ち出した
 ソ連の戦史研究所所長・ボルゴドノフ大将によると、終戦直前にスターリンは、極東軍のワシレフスキー総司令官に対して、サハリン南部から北海道に3個師団の上陸部隊を出せるように準備指令を出した、といわれる。

 この北海道の北半分を要求するスターリン書簡は、8月16日にホワイトハウスに届き、これに対するトルーマンの回答が直ちに出された。
 その内容は、千島列島のすべてをソ連極東軍に引き渡すように「一般命令第1号」を修正するとともに、アメリカ政府は千島列島の中央の島に、軍事及び商業目的に使用できる水陸両用の航空基地の権利を望む、としていた。
 さらに、日本固有の全島の日本軍は、マッカーサー元帥に降伏するものとした。

 このトルーマンの回答に対して、スターリンは8月22日付けの書簡を出した。
 そこではアメリカは、日本軍がソ連軍に明け渡す地域として北海道北半分を要望したものを拒否したと考えるとし、ソ連も千島列島にアメリカの航空基地を作る要求を拒否した。

 その直後に北海道に対するソ連の侵攻作戦は中止されたが、千島列島に対する侵攻作戦は8月18日から日本が降伏文書に調印する前日の9月1日まで展開され、「北方領土」はソ連軍の侵攻と占領の形式を経て作り出された。      (NHK日ソプロジェクト「前掲書」66-81頁)

●ソ連の千島列島侵攻作戦
 8月15日、ソ連極東軍総司令官ヴァシレフスキー元帥は、対日侵攻作戦の命令を出した。そこには千島列島最北端の「占守島及び幌筵島、ついで温弥古丹島に上陸作戦を行い、8月25日までに北千島を占領せよ」と記されていた。
 つまり日ソ戦争は日本の「終戦」の日から開始されたのである。

 ソ連が日本の終戦の日から千島列島の軍事攻撃を開始したことは、ソ連がアメリカに対して千島列島の領有権を主張するために、どうしても戦争による軍事的占領の形式が必要であったことを示している。

 千島列島の最北端に位置する占守島は、わずか13kmの占守海峡を挟んで、カムチャッカ半島のロバトカ岬と対峙している。
 戦争末期の千島列島は、札幌に司令部のある第5方面軍の兵力5万4千が展開していた。そして北千島には第91師団を主力とする2万6千の兵力が配置され、北千島守備軍の司令部は隣の幌筵島・柏原にあった。

 千島守備軍は、既に8月18日に停戦を発令しており、武器引渡しの準備をしていた。そこへ17日の夜10時ころからソ連軍の砲撃が始まり、占守島の竹田浜一帯にソ連軍が上陸して大激戦になった。
 占守島には、当時の日本軍には珍しくソ連軍に備えて第11戦車連隊が配備されていた。ここをソ連軍は輸送船と上陸用舟艇30隻、護衛艦艇24隻の大船団で攻撃し、沖縄戦、硫黄島に並ぶといわれるほどの大激戦になったことはあまり知られていない。

 「ソ連軍事百科事典」(1986年版)によると、「千島作戦」は、8月18日から9月1日にかけて行なわれた。最初の占守島の被害は日ソ共に激甚であり、ソ連軍は上陸兵1万2千のうち3千人以上の死傷者を出し、日本軍も700人以上の死傷者を出したといわれる。
  (恵谷治「北方領土の地政学」カッパブックス、48-57頁)

 トルーマンが、アメリカの航空基地として要求した「中部群島のひとつ」の島は得撫島と考えられるが、ここにソ連軍が上陸したのは択捉島より遅く、8月29日のことであった。
 南千島の留別上陸は8月28日、択捉島の中心地の紗那が占領されたのは9月1日ないし3日、国後島の中心部の古釜布にソ連軍が上陸したのが9月1日、色丹島が9月1日、歯舞群島の多楽島(9月2日)、志発島(9月3日)といわれる。

 ソ連の対日侵攻作戦は8月末まで続いた。そして8月31日に、グネチコ司令官と得撫島の仁保旅団長の会見が行なわれ、得撫(うるぷ)島守備隊の武装解除が行なわれた。
 ソビエト上陸司令官グネチコ少将は、この8月31日22時をもって戦闘行為の終了を発表し、9月2日、日本政府は戦闘行為の終了を宣言した。






 
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