アラキ ラボ
彷徨える国と人々
Home > 彷徨える国と人々1  <<  30  31  32  >> 
  前ページ次ページ
  (2)日ソ中立条約とは何であったのか?

●アメリカによって作り出された「北方領土問題」
 ソ日不可侵条約の締結交渉は、1940年1月にモスクワで開かれた。日本側の代表は外務大臣・松岡洋右、ソ連側の代表はモロトフ外相であった。その前年の1939年9月に英仏はドイツに宣戦を布告しており、第2次世界大戦が勃発していた。
 ソ連は8月にドイツと「独ソ不可侵条約」を締結していたが、早晩、ヨーロッパにおいてソ連はドイツと交戦せざるを得なくなると考えていた。
 その際、アジアにおいて日本と交戦状態に入ると、ソ連はヨーロッパにおいてドイツ、アジアにおいて日本と戦うことになり、兵力を2分する両面作戦を余儀なくされる。それはソ連としては、どうしても避けたい。

 当面、ヨーロッパ戦線が風雲急を告げており、ソ連はドイツに宣戦布告するためには、日本と不可侵条約を締結しておく必要があった。
 一方の日本も太平洋戦争の開戦前夜にあり、南方戦線に軍を展開するためには、対ソ戦はしばらく凍結しておきたい。
 この日ソの利害が図らずも一致したのが、この日ソ不可侵条約の交渉であった。

 この不可侵条約の交渉にはスターリンも参加し、この条約交渉にあたってソ連側は、なんと南樺太と千島列島のソ連への返還を、条約締結の交換条件として持ち出した
 それは、太平洋への出口にあたる千島列島の軍事戦略的重要性にあった。しかしこの要求を日本側が受け入れることは不可能であり、そのために「不可侵条約」は、「中立条約」に変更された
 1941年4月13日に「日ソ中立条約」が締結された。この条約の有効期間は批准の日から5年とされ、その間、両国のいずれかが期間満了の1年前にこの条約の廃棄を通告しない限り、5年間、自動的に更新されるものとした。

 この日ソ条約の交渉過程を、アメリカは暗号解読により把握していた。(NHK日ソプロジェクト「これがソ連の対日外交だ 秘録・北方領土交渉」、日本放送協会出版会、8頁)
 そして1943年10月5日、ルーズベルト大統領は、2週間後にモスクワで開かれる米英ソ3国外相会談における戦後処理案として、千島列島のロシアへの引渡し案を提示した

 当時、アメリカは太平洋戦争の終結までには、後2年以上かかると見込んでいた。そして日本本土での戦争を考えると、アメリカ軍の犠牲者は100万人以上になると予測していた。アメリカとしては、そのような大きな犠牲はどうしても避けたい。
 ルーズベルト大統領は、この戦争を早期に終結させるためには、どうしてもソ連の対日参戦が不可欠であると考えた。
 そこでアメリカは、対日戦争へのソ連参戦の代償として千島列島の引渡しが必要と考えたのである

 43年10月の外相会議に始まった米英ソ3国によるこの戦後処理案は、11月のエジプトのカイロとテヘランにおける3国首脳会談で確認され、その場で、スターリンは対日参戦を決意したと見られている
 テヘラン会談から1年3ヶ月たった45年2月4日、米英ソの3首脳はソ連の黒海に面したヤルタで会談して、戦後処理案は「ヤルタ」秘密協定として文書化された

 ヤルタ秘密協定の内容で本項に関係するのは、次の事項である。
 (1) ソ連は、ドイツ降伏後、2ヶ月または3ヶ月後に日本に参戦すること、
 (2) 戦後、「樺太の南部および之に隣接する一切の島嶼は、『ソビエト』連邦に返還される」こと、
 (3) 「千島列島は『ソビエト』連邦に引き渡されること」である。

 この(3)の千島条項は、明らかに「領土不拡大」の原則をうたう「カイロ宣言」に抵触するものであった。

 このヤルタ協定を巡り、その後の世界情勢は目まぐるしく動いた。
 45年4月12日にルーズベルトが急死し、副大統領のトルーマンが大統領に昇格した。米ソ間の信頼関係は、ルーズベルトの死により失われ、戦後の米ソの冷戦構造は、その時点から始まった。

 5月2日にベルリンが陥落し、5月7日にナチス・ドイツが無条件降伏した。ヤルタ協定によると、7月から8月初めにソ連は日本に対して参戦することになる。つまりソ連参戦の時点から、日本降伏までの僅かな時間のうちに米ソのどちらが日本降伏への決定的なダメージを与えるかが、戦後における日本の支配権に大きな影響力をもつことが明確となった。

 そこでソ連は一刻も早く日本に宣戦布告をして、できるだけ占領地域を拡大しようとした。またアメリカは、核爆弾の開発を急ぎ、これにより、日本降伏の決定要因にしようと謀った。
 
●ソ連を仲介とした日本の和平工作とその失敗
 歴史的に見ると、敗戦直前の日本の軍事的被害を必要以上に大きくしたのは、この米ソの軍事的カケヒキであったといえる。
 そのようなことを全く知らない日本は、44年9月頃からソ連を仲介とした和平工作を検討し始めた。

 9月5日の第11回最高戦争指導会議において、杉山陸相が初めて和平問題を口にし、そのなかで独ソ和平工作をあげた。陸軍では、これより前から松岡前外相を日ソ関係の打開のためにモスクワへ派遣すべきとする話が出ていた。
 重光外相も8月末に在京のスターマー独大使と協議して、大島大使を通じて、ヒットラー総統の意向を打診し、その一方で佐藤大使の顧問の名義で特使をモスクワへ派遣し、ソ連首脳部に対し独ソ和平工作、さらに日本の対ソ諸施策を進めようとしていた。(外務省編「終戦史録 1」、241−243頁)

 しかしこの日本の和平工作は、43年10月の外相会議から始まった米英ソ3国によるこの戦後処理案のテンポと、余りにもずれていた
 44年9月12日の最高戦争指導会議記録における、「対ソ施策に関連する帝国の対ソ譲歩の限度腹案」を見ると、基本的には「南樺太及び北千島の譲渡を除き、ソ連側の要求を承認」する立場をとっている。
 そして最後に、「ソ連の対日態度悪化し、帝国がソ連の対日戦を回避せんとする場合、ソ連要求を全面的に承認し差し支えなし」とした。(外務省編「前掲書」252頁)

 結果的には、この最後に揚げられた最悪の道筋をたどることになった。東久邇宮「私の記録」によると、ソ連へ送る特使として、久原房之助、広田弘毅が案としてあがり、南樺太のソ連への返還を考えていたようである。(外務省編「前掲書」255-6頁)

 ところが事態は、もはやソ連が日本の特使を受け入れる状況ではなくなっていた。
 45年4月5日、ソ連は中立条約の不延長を通告した。このことにより中立条約は、46年には自動延長されないことが明確化した。
 つまり1年以内にソ連は日本に宣戦布告することが可能となったわけである。
 そこで7月13日に、日本は近衛文麿を特使としてソ連に派遣することを申し入れたが、ソ連はそれを拒否した。(18日)
 日本はそのことを知らないが、アメリカはヤルタ協定により、ソ連が7-8月に日本に宣戦布告することを既に知っている

 アメリカとしては、ソ連の宣戦布告の前に日本を降伏へ導く決定的なダメージを与える必要があった。そこで8月6日、広島に原爆が投下された。その2日後の8月8日に、ソ連は日本に宣戦を布告した。そこでさらにアメリカは、その翌日の8月9日に長崎へ原爆を投下した。
 そして8月14日、日本はポツダム宣言を受諾し太平洋戦争は終結した、はずであった。

 ところが「北方領土」を生み出すことになる日ソ戦争は、なんと終戦の日である8月15日から始まったのである。






 
Home > 彷徨える国と人々1  <<  30  31  32  >> 
  前ページ次ページ