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日本人と死後世界
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1.仏教における浄土への転生
2.日本人の死後世界

3.来世への生き方
(1)弥勒下生
(2)高野聖とその浄土
(3)生者の浄土と霊場巡礼
(4)観音信仰 -六道の衆生をたすける
(5)熊野信仰
(6)霊地巡礼の拡大

4.死後の祭られ方
5.日本における死後世界の探求
6.日本人の霊魂のゆくえ
7.あとがき -このテーマを選んだ理由
 
  3.来世への生き方

 人間として生まれた以上、最後に死ぬことはやむをえない。しかし、その死を迎えるにあたり受け身で仏のご来迎を待つよりも、修行によって自分自身が仏と一体化し、さらに、十万億土という遠い極楽世界へ行くよりも、遠い未来であってもこの世の浄土に転生したいという願いが、平安末期頃から現われ始めた。

 このような願いは、真言密教、修験道、弥勒信仰と結び付いて、新しい死に方と生き方を作り出した。

(1)弥勒下生

 弥勒菩薩は、天上と地上に2つの浄土をもつ仏であり、弥勒の天上の浄土を「兜率天」という。釈迦の滅後、56億7千万年をへると、弥勒仏は兜率天から地上に下生(げしょう)し、華林園の中の竜華樹のもとで三会の説法を行い、万人を兜率天に済度する。
 そのときからこの地上が弥勒の浄土となる。このことから、弥勒下生にともなって、地上の浄土に生まれて、弥勒三会に値遇する(下生)とする信仰がひろまった。

 56億7千万年という未来は、実感できないはどの先のことである。しかし、「いまこそ弥勒下生のとき」とか、「**は、弥勒の化身である」とすれば、いますぐこの世に「弥勒浄土」が実現できるわけであり、阿弥陀信仰が死後の世界に信仰の対象を置いたのに対して、現世における未来志向の性格を持つ信仰となった。

◆空海入定

 弘法大師空海は、承和2年(835)3月21日、高野山で入定した。「弘法大師・・・五輪の即体を緑苔の洞にとどめ給へり。凡願力によりて依身をとどむること、天竺には迦葉尊者はるかに鶏足附受の暁を期し、日域には弘法大師まさに竜華下生の春をまち給ふ。」(聖戒「詞書」)とある。
 難しい言葉であるが、弘法大師は生きたままのお姿を、緑の苔が生えた洞窟の中にとどめられた。未来世の弥勒下生を期し、天竺では迦葉尊者が生きたままで待っておられるが、日本では弘法大師が竜華樹のもとでの下生を待っておられる、という意味であろう。

 「五輪の即体」とは、地水火風空の五輪よりなる我が身を観じて金剛輪を成じた生き身のことであり、迦葉尊者は、仏の十大弟子の弟子で、弥勒の出生まで生きつづけている伝説の人である。
 「依身」は、肉体を保って生き続けること。また、「入定」という言葉は、悟りの境地に入ることであり、そこには、生死はない。

 「今昔物語集」巻11には、空海の入定の伝説が詳しく記載されている。それによると、空海大師は、承和2年3月21日の午前4時頃、結跏趺坐して、大日如来の定印を結んで、入定された。御歳62才、弟子たちは、遺言に従い弥勒宝号を唱えた。

 その後、さらに長い間をへて、この入定の洞を開いて、御髪を剃り、御衣を着せ替え奉った。その後、さらに久しくして、大師の曾孫弟子に当たる般若寺の観賢僧正という人が、この山にお参りして入定の廟を開いて見た。霧が立って闇夜のようであったが、それが治まってから見ると、大師の御髪は1尺ばかり生えていた。そこで僧正は、水浴し清き衣を着て入り、水精の御念珠を掛け直し、御衣を清浄に整えて出た。
 その後は恐れて室を開く人はなかったが、人が詣でる時は、堂の戸が少し開き、山鳴りがした。またある時は、鐘を打つ音がするなど、不思議なことがあった。

 この空海入定の説は、平安中期、天台宗では既に、最澄(伝教大師)、円仁(慈覚大師)、円珍(智証大師)の3人に大師号が出されていた。これに対して真言宗では、京都東寺から観賢が、はじめて開祖空海の大師号の申請を出したわけで、空海聖者化の権威づけの一つが生身入定説であったといわれる。(村山修一「修験の世界」)

◆即身成仏 -ミイラになった上人たち

 極楽・兜率の往生に絶望した、平安末期から鎌倉初期の浄土教の人々の中には、弥勒下生信仰に活路を見付けようという人々が少なくなかったようである。

 前述の観賢による空海の生身入定説が、弥勒下生と大日如来の信仰とむすびつき、真言密教の「聖達」による即身成仏(ミイラ)になるための木食行と自己埋葬という苦行を生み出した。その最も多い湯殿山(出羽三山の一つ、古来、修験道の道場)では、24体の苦行者のミイラが発見された。

 即身仏(ミイラ)を志す聖(ひじり)は、ほとんど一生の間、五穀を断ち、十穀を断ち、野生の木の実しか口にせず、徐々に生きながら脂肪をなくする木食行を行った。1千日を単位として半年は雪に閉ざされる仙人沢で行う山籠修行、晩年には多くの一世行人がリューマチで苦しむことになった寒中水垢離、そして最後の土中の断食死が、修行の実態であった。

 自ら遺言してミイラとなった最古の記録は、貞治2年(1363)、新潟県三島郡野積村西生寺の僧弘智法印といわれる。その後、湯殿山で天和3年(1683)に入定した本明海上人、酒田市海向寺の忠海上人(宝暦5年・1755)、朝日村大綱大日坊の真如海上人(天明3年・1783)、酒田市海向寺の円明海上人(文政5年・1822)、朝日村大綱注連寺の鉄門海上人(文政12年・1829)、鶴岡市南岳寺の鉄竜海上人(明治10年・1877)などがある。
 これらの上人の法名に「海」とあるのは、空海の法脈をつぐことからきている。
(村山修一「修験の世界」)

 これら湯殿山の一世上人の経歴は、初期の本明海上人と忠海上人は、下級武士の出身であったが、その後の真如海上人、円明海上人は百姓の出身となり、鉄竜海上人は乞食というように、段々下層化していく。
 彼等は僧侶のように仏教の教理に通じているわけではなく、せいぜい般若心経や湯殿山法楽などのほか、少々の真言(呪文)がいえる程度であり、寺でも最下層の存在であった。この一世上人達に許された唯一の名誉と特権が、ミイラになることであり、そのため彼等は、はじめから死を予定された人間であった。

 真言密教の根本教義は、修行により解脱して自身が即本尊、大日如来にまで昇化する「即身成仏」にある。このための行法は、手に本尊の印をむすび、口に本尊の真言をとなえて、行者と本尊が融合一致を観ずる(入我我人)ことにあった。苦行はそのための手段である。

●真如海上人
 真如海上人は、湯殿山麓の越中村の百姓仁左衛門の末子に生れた。ある日、野良仕事に行く途中に、担いでいた肥が武士にかかり、口論となり武士を殺害し、大日坊に逃げ込み出家したという人物である。

 真如海上人の一生は、地獄のような過酷な飢饉が続く時代であった。生れる前年の貞享4年(1687)は、郷里の庄内地方にウンカが発生し飢饉に見舞われたのをはじめに、彼が95才で入定する天明3年(1783)までの生涯に、享保17年(1732)、 宝暦5年(1755)の大飢饉をはじめ、20回近い凶作、飢饉を経験している。
 その中でも最もひどかったのが、彼が入定した天明3年の大飢饉であった。天明3年から4年にかけての津軽地方の被害は、餓死者が10万2千人、病死者が3万人を越え、南部藩でも餓死者4万人、病死者2万3千人を越えたといわれる。
 この飢饉では、人が死者の肉を食べるのみか、生きた人間を殺して食べるほどの地獄図絵が日常化していた。(「飢餓凌鑑」、「天明卯辰簗」)

 「誰とは知れぬ髪乱たる女の死たる上に座し、2、3歳の子ともの真白なる小腕を右の手に持喰ふ。・・」(「飢餓凌鑑」)
 「夫を騙し打殺して是を喰 我子をも鎌にて一打にてうちころし 頭より足迄食し 夫より倒死の死骸を見付 是を食し 又々墓々を掘返し 死骸を掘出 夜よ里に出て人之子供を追候・・」(「天明卯辰簗」)
 大日坊の近くに、「化けもの塔婆」と呼ばれる石碑がある。これは天明大飢饉のときに、秋田方面から落ちてきて、ここで行き倒れた多数の餓死者の葬られたものといわれる。

 このような中で、真如海上人は、ミイラになるための木食行と山籠修行に入った。
 天明3年は、異常な寒さではじまり、5月になっても寒さは去らず、6月土用には長雨が続き、7月にも長雨、台風で、刈り取る前に雪が降るという状況で、典型的な冷害型の大凶作となった。この年に真如海上人は、大飢饉の救済を祈願するために大日坊近くの大日山で土中入定したといわれる。(稲垣足穂、梅原正紀「終末期の密教」)

●鉄門海上人
 湯殿山ミイラ史に、最も大きな足跡を残したのは、文政12年に入定した鉄門海上人である。上人は、大宝寺村の川人足・砂田の金七のせがれで、無類の荒くれ男であったと伝えられる。25歳のとき、職務怠慢の武士をなじり、そのことから2人の武士を殺害し、注連寺に逃げ込んだ。
 上人には左目がなく、その理由は、文政4年に江戸に出たとき、流行性の眼病の人々を見て、自分の左眼をくりぬき、湯殿山大権現に供えて、悪疫退散の祈願をしたためといわれる。また修行の邪魔になるとして、色欲の元となる睾丸をえぐりとったという伝説もある。

 上人は、加茂坂工事などの社会事業をはじめ、人助けのため捨身で活躍したり、魚具を考案したりして、生活に密着した布教を行った。ただし海向寺の「記録帖」では、上人は文政12年12月8日に風邪がもとで自然死をとげ、13日に「二重棺にして新山権現堂の後のかたに葬りけるとなり」と記録されており、土中入定ではなかったようである。
 しかしミイラの血液検査などから、まちがいなくミイラは上人のものと証明されており、土葬後にミイラづくりされたとみられる。(稲垣・梅原「終末期の密教」)

●鉄竜海上人
 明治になってから入定した鉄竜海上人は、16歳の時、故郷の秋田で友人をケンカで殺した。そのまま家出して放浪(乞食)生活をして鶴岡にきて、南岳寺に物乞いにきたところを天竜寺の住職にたすけられた。また、一説には、川へ身を投げようとしたところを、天竜寺の住職に助けられたともいう。
 鉄竜海上人は、すぐれた呪力を示す行者であったようである。

 明治11年頃、62歳で自然死をとげた。死後、発掘してミイラにするよう遺言していたが、明治13年に墳墓発掘と遺体損壊を禁止する法律ができたため、そのままになっていた。その後、信者達の夢枕に上人がたびたび現れるので、有志達が極秘裡にあつまり、ミイラつくりをしたと伝えられる。
 これらのミイラつくりの技術は、文政期頃からの仙台医学館などからもたらされたものであり、蘭方医学の影響があったと思われる。

●本明海上人
 彼等の土中断食死を決意させたものは、道長などの浄土往生の思想とは、大きく異なるものであったと思われる。道長で代表される多くの権力者達の極楽往生は、彼等自身の彼岸での地位を願うものであった。しかし、即身成仏した上人達の願いは、自分自身の浄土往生よりは、末世の人々を仏となって救済しようとするものであった。

 たとえば、本明海上人の場合、最初は藩主の病気祈願が出家の発端であったが、布教活動の中で、重税にあえぐ農民の姿を見て、土中入定を決めたといわれる。
 彼の遺言には、「我いま仏とならん、末世の諸人、善心の信を頼む心願は如何なることにても成就さしめん」と言い残したといわれる。(稲垣・梅原「終末期の密教」)





 
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