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日本人と死後世界
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  (4)観音信仰 -六道の衆生をたすける

 極楽浄土の阿弥陀如来は、死後世界を支配する仏である。その浄土は十万億土という遠いところであり、しかも阿弥陀如来は、地獄では輪廻転生の先が決まるまでの王としても登場しない。3年忌を司るというのでは、庶民の日常世界にとっては、非常に縁遠い仏といわざるを得ない。
 人間世界で、生きているうちに六道を経験せざるを得ない庶民を、救済していただける身近な仏の第一は観世音菩薩である。

◆観世音菩薩 -六観音から霊場信仰へ

 観世音菩薩は、六道の衆生を助ける仏である。極楽浄土を主宰する阿弥陀如来に対して、勢至菩薩(知恵を象徴する仏)とならび、現世利益をふくむ除災招福の仏として、阿弥陀如来の脇持仏をつとめる。
 この仏は、極楽から、人間界、畜生界、地獄にいたるすべてにおいて、人間の苦しみを救済する使命をもった、我々に最も関わりの深い仏である。
 既に奈良時代において、仏教信仰では、現世利益と浄土往生が並存していた。そこでは、阿弥陀・弥勒信仰は、追善的な浄土信仰が中心となっていた。そして観世音信仰は、同様の補陀落浄土への信仰のみでなく、薬師信仰とならんで除災招福を願った現世利益の信仰であった。(速水侑「観音信仰」)

 摂関期の貴族社会においては、さらに、六道抜苦の観音信仰に展開した。それが「六観音」であった。それが最もはなやかに登場するのが、藤原道長が建立した法成寺薬師堂における六観音の造像である。
 万寿元年(1024)6月26日、「扶桑略記」には「十方之浄土を移した」とされる薬師堂の供養が行われ、「六道衆生の抜苦のために、六観音を造る」と記されている。

 「六観音」とは、必ずしも統一されたものではないが、たとえば、聖観音、千手観音、馬頭観音、十一面観音、准胝観音、如意輪観音であり、六道抜苦に対応する。
 つまり、聖-餓鬼、千手-地獄、馬頭-畜生、十一面-阿修羅、准胝-人道、如意輪-天となる。

 道長が生きた院政期には、死後の極楽往生のみならず、現世利益を含む六道のすべてにわたる除災延命を、仏に祈念していた。

◆初期の観音霊場信仰

 観音信仰は、後世よりも現世の利益を得たいという気持とあいまって発展した。観音信仰の初期においては、特定の寺院や観音像に特殊な霊験があるとして参詣する例は、あまりなかった。

 9世紀頃から、特に大和の長谷寺、壷坂寺、香山寺などが霊験ある寺として律令国家の庇護を受けるようになり、10世紀になると、天台宗の六観音信仰が貴族社会の中で高まり、京幾周辺に新しい観音寺院が次々に建立された。
 これらの新しい寺院はほとんど参詣の対象にはならず、摂関期の貴族の参詣した観音寺院は、京周辺では、石山・清水・鞍馬・長谷・粉河などに、ほぼ限定されていたといわれる。(速水侑「観音信仰」)

 たとえば石山寺は、滋賀県大津市石山にある真言宗の寺院である。東大寺盧舎那大仏の建立にあたり、良弁がこの地に現在の本尊である如意輪観音を奉安して、真言の秘法を行ったところ、陸奥に金山が発見されたという。そこで聖武天皇は、この寺院を建立して、良弁を開祖としたという。(「石山寺縁起」)
 この経過から皇室の尊崇も厚く、古くから貴賎の参拝も多く、その様子は「源氏物語」、「栄花物語」をはじめ、多くの日記や文学作品に登場している。特に、貴族子女の参詣が多く、紫式部が「源氏物語」を執筆した間もある。

 石山寺の場合、その参詣には夕刻に京を発して、翌朝には帰郷できたが、長谷寺の場合は、前後5日を要する困難な参詣であった。
 全国に「長谷寺」という寺院は110余あるといわれるが、ここでいうのは、奈良県桜井市初瀬にある真言宗豊山派の総本山である「長谷寺」である。「泊瀬寺」ともいい、「ちょうこくじ」ともいう。
 現在の長谷寺は、聖武天皇の時に、徳道上人が建立したものといわれる。京都の清水寺のように舞台づくりであり、昔からぼたん、さくらの名所として知られる。

 遠隔地で参詣が困難なため、僧による代理参詣もあったと思われるが、10世紀末から、貴族、民衆の参詣が盛んになった。参詣の道筋は冥路のように気味悪く、貴族の女人はおそれおののいてお参りしたという。
 たとえば「蜻蛉日記」の夜参りの状況に、「火ともしたれどふきけして、いみじくくらければ、夢のみちのここちして、いとゆゆしく、いかなることかとまで、おもいまどふ」とある。そのあげくは、「御堂にものするほどに心ちわりなし、おぼろげにおもふことおおかれど、かくわりなきに、物おぼえずなりにたるべし。」という参詣の始末が、生なましく記されている。

 長谷寺のご本尊は、十一の面をもって人につくす十一面観音であり、「霊験所第一也」(「三宝絵詞」)という霊験もあらたかな寺院であった。

 また「粉河寺」は、宝亀3年(772)創建で自然出現の千手観音を本尊とし、「霊験掲焉」の道場と伝えられる。当初から律令国家の信奉を得て、「紀州之中霊験之地」として、「一切衆生渇仰之道場」として名声をはくした。高野、熊野などとの組み合わせで参詣されることが多かったと思われる。

◆聖(ヒジリ)と新霊場の成立・発展

 11世紀後半から12世紀末葉にかけて、浄土信仰の形が大きく変わっていった。その一つが、「高野聖」のように山岳修行を行い、あるいは村里に出て布教する非官寺的僧侶の活動にあった。かれらの活動により、貴族中心の仏教から民衆中心の仏教へ大きく変化していった。
 これらのヒジリ達は、「山寺行う聖こそ、あはれに尊きものはあれ」と「梁塵秘抄」に歌われたごとく、無名の山寺にこもり、帰依する人に奇瑞を示した。

 これらの「聖の住所」がもとになって、観音霊場が成立した。その1つが、「西国三十三所観音霊場」である。成立の時期は、13世紀の始め頃と思われる。
 そしてこの霊場の巡礼が行われるようになった。

 観音菩薩は、変幻自在の仏であり、33身に形を変えて、観音を念じるあらゆる所で衆生を救い給うと教えている。この33という数字は無限を意味するものといわれ、観音信仰では多様な現世利益を生み出す観音の霊力が期待された。
 わが国の33か所の観音霊場の巡礼によって、仏教の信仰は、死後往生から現世における魂の救済に大きくウエイトを移していった。そしてさらに一寺一度の参詣よりは、多寺多度の参詣を過度に尊重するようになった。その最初が、西国三十三所観音霊場巡礼であり、畿内およびその周辺の大寺が、札所として名を連ねた。

 西国三十三所巡礼の始原と思われている記述は、1225~1233年の問に成立したという「寺門高僧記」巻4所収の「観音霊場三十三所巡礼記」である。そこでは第1番札所が大和の長谷寺、第2番が大和の竜蓋寺で、最後の第33番は御室戸山の千手堂で終わる。
 地域的には、大和-紀伊-和泉-河内-摂津-播磨-丹後-近江-美濃-近江-山城となる。

 その後、西国三十三所観音霊場の内容は、かなり変わっていったようである。
 たとえば「寺門高僧記」巻6所収の「三十三所巡礼記」では、第1番は紀伊国那智山からはじまり、2番は名草郡金剛宝寺、33番は御室戸山で終わる。
 地域的には、紀伊-大和-和泉-河内-摂津-播磨-丹後-近江-美濃-近江-山城-丹波-山城となっている(速水侑「観音信仰」)。南北朝頃の状況は、「拾芥抄」に列記されている。

 現在の西国三十三所観音霊場巡礼は、第1番は那智山の青岸渡寺から始まり、和歌山県を北上して大阪府に入り、さらに奈良の古寺から琵琶湖の南端を経て京都の市中に至る。さらに、京都から西に進み、兵庫県に入り、そこから北上して日本海の沿岸に出て、再び滋賀県をへて、岐阜県の谷汲に至る。
 ここに、十一面観音を祭る天台宗の華厳寺があり、ここで結番となる。

 この観音霊場の巡礼は、15世紀までは修験山伏達の修行や貴族の遣使祈祷を中心に行われてきた。三十三か所の巡礼の実践は、十余国、行程数百里に及ぶ難行的性格をもつものであり、僧侶にとってはある種の資格の獲得を意味し、誇るべき経歴となった。

 しかし15世紀を境に「巡礼の民衆化」とでもいう現象が現れて、巡礼と民衆生活が密着したものとなっていったといわれる。巡礼は、三十三所の他にも、七観音詣、百観音詣などもあり、多様な形で行われていたようである。
 これらの巡礼に参加した民衆は、修行僧のほかに、京都の絹商人や東国の武士、僧侶、庶民など、雑多な階層を占めていたといわれる。(速水侑「観音信仰」)

 西国巡礼は、単一の社寺参詣とは異なり、いろいろな風俗を作り出した。その第1は一定の衣服の着用であり、第2は巡礼歌、第3は納札であった。
 一定の衣服は、「笈摺」(おひずる)といい、「近世風俗志」によると、「其扮、男女ともに平服の表に木綿の無袖、半身の単を着す、号をおひずると云、父母あるものは左右茜染、父母ともに亡きものは全く白也」とある。(新城常三「社寺参詣の社会経済史的研究」)




 
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