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日本人と死後世界
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  (6)霊地巡礼の拡大

◆各地の観音霊場の形成

 15世紀中葉を境として、巡礼が従来の山伏やヒジリ達を中心にしたものから、民衆を中心にしたものに拡大していった。この中で観音霊場も、西国33か所につくられたのに続いて、全国に展開していった。

 鎌倉幕府が開かれると、西国の仏教文化が広く関東に展開し、坂東33か所観音巡礼のコースが関東一円につくられた。この霊場の最古の記録は、福島県東白河郡八槻村の都々古別神社にある十一面観音の銘文といわれ、文暦2年(1235)7月19日と記されており、それ以前に「坂東33か所観音霊場」は成立していたと思われる。
 これらの関東における観音信仰の盛況は、源頼朝(1147-1199)の庇護によるといわれる。しかし関東の民衆による巡礼は、14~15世紀になってからのことである。

 坂東33か所の観音巡礼の関東1番の札所、鎌倉の杉本寺(鎌倉市二階堂)は十一面観音をまつり、開山は行基菩薩と伝えられる。
 杉本寺から出発し海沿いに西進し、小田原の飯泉観音(勝福寺)から山沿いに北上し、埼玉県に入る。埼玉県比企郡都幾川村には、千手観音をまつる慈光寺(8番)があり、ここから南下して東京にはいる。浅草寺(13番)から西南にすすみ、横浜の弘明寺(14番)から北上し、群馬県榛名町の白岩観音(15番)から山沿いに東進し日光中禅寺をへて、茨城県を南下する。筑波山の大御堂(25番)をへて房総半島をめぐり、館山市那古の那古寺(33番)で壮大な観音巡礼は終わる。
 最後の那古寺は山号を補陀落山といい、千手観音を本尊とし行基上人の創建という。名前から明らかなように、この地を補陀落浄土とみる信仰が、江戸時代にかなり一般化していたようである。

 関東地方の観音霊場として今一つ「秩父34か所霊場」がある。この成立年代はわからないが、この巡礼路の最古の記録が、32番の法性寺につたわる1488年(長享2)の番付表であることから、大体15世紀の末葉に成立したと思われる。
 霊場は、1番が定林寺から始まり、最初は33番水込であったが、その後、江戸から最も近い妙音寺が1番に入り、34か所となった。
 15-16世紀には、江戸からの道程が最も近い四万部寺が一番となり、34か所の霊場が確立し、さらに秩父、坂東、西国の観音霊場とともに、「日本百観音」という全国規模の巡礼コースに組み込まれることになった。この全国規模の観音信仰の巡礼路が完成したのは、1488(長享2)から1536(天文5)の間といわれる。(中尾尭「寺院の歴史と伝統」)

 一生に一度のお陰参りの途中、この巡礼を共に回ることもよく行われた。「百か所参り」がこれであり、巡礼を無事に成就した人々により、「百番供養」の石碑が村や町の道ばたに建てられた。
 このような全国規模の大規模な巡礼に出ることはなかなか難しいが、一国単位の地方霊場が全国で作られていった。たとえば、下野国33か所(栃木県)、備中国33か所(岡山県)、筑後国33か所(福岡県)などがそれである。

◆四国八十八か所霊場の巡礼

 この他、弘法大師など仏教僧侶が修行をした霊場を参詣する巡礼も行われるようになった。その代表的なものが、弘法大師の四国八十八か所霊場の巡礼である。

 四国八十八か所霊場は、弘法大師(774-835)が42才の厄年に、四国の修行地を一巡して決めたと伝えられるが、一般の人が巡礼に出始めるのは、15世紀頃とみられる。
 その始まりは、弘法大師の遺徳を慕う真言の僧侶達が、山岳修行の1つの形として四国各地の霊場を歩いていたのが、88か所の霊場としてまとまっていったと思われる。

 四国の遍路は、木綿の白衣をまとい、白か浅黄の手甲・脚絆をつけ、胸には小さな札ばさみを下げて数珠を持つ。背には笈摺(おいずる)をはおり、身の周りの物を入れた笈を背負う。腰には尻敷をつけ、草鞋か白い地下足袋をはく。右手に「南無遍照金剛」とか「南無観世音菩薩」と書いた白木の金剛杖を持ち、左手には緒のついた鈴を携えて、鳴らしながら歩く。頭につけた笠には「迷故三界城、悟故十方空、本来無東西、何所有南北」と書き、住所氏名と「同行二人」と記す。

 寺へ着くと、本尊の前で「般若心経」や「観音経」を読み、御詠歌を歌い納札を納める。この納札は本来は木札で、壁や柱に打ち付けた。巡礼の寺院を「札所」というのは、ここからくる。また、霊場を巡ることを「打つ」というのも、これに由来する。
 参詣を終えたお遍路は、寺の納経所に写経を納め、納経帳にご本尊の仏名と納経印を押してもらう。

 四国の霊場巡りの1番は、徳島県鳴門市の霊山寺で、本尊は釈迦如来で真言宗の寺院であり、行基上人の開基といわれる。弘仁年間(810-824)に弘法大師が四国巡錫の途中、この寺で修行し、四国霊場第一番の寺としたという。本尊の釈迦如来は、弘法大師自身の彫刻したものと伝えられる。

 1番から始まった遍路の道は、吉野川をさかのぼって山中にはいり、小松島から南下して、県内の23番薬師寺で阿波国(徳島県)を終わる。土佐へ入って最初の霊場は、室戸岬にある第24番長御岬寺(ほつみさき)で、虚空蔵菩薩を本尊とする。807年以来の天皇の勅願所である。
 室戸岬から土佐湾の海岸に沿って西進すると、足摺岬の38番金剛福寺へつく。ここは南の海上にある観音の補陀落浄土の地として、三面千手観音を本尊とした。のちに、勅願所として嵯峨天皇から「補陀落東門」の額を与えられた。やがてここは熊野とならんで、補陀落渡海の霊地として有名になった。

 ついで宿毛市の39番延光寺で土佐国と分かれ、40番の観自在寺から伊予国(愛媛県)に入る。松山の道後の地には、51番石手寺がある。728年創建という古寺で、本尊の薬師如来は行基菩薩の作という。

 四国の最高峰である石槌山は、四国きっての山岳信仰の霊場で、ここには60番の横峰寺があり、四国霊場の中で最も険しい難所といわれる。651年に役小角が修行中に蔵王権現が現れるのを見て、その姿を彫ったといわれる。
 天平年間に、行基上人が大日如来を刻み、その胸中に蔵王権現を納めた。桓武天皇の代に勅願所となった。その後に弘法大師により堂宇が再興された。

 65番三角寺を最後に伊予国を離れて、山深い阿波国の雲辺寺を経て、弘法大師の故郷である讃岐国(香川県)に入る。
 67番大興寺、75番善通寺をへて、88番大窪寺で全行程1400キロの旅が終わる。歩くと60日以上が必要になる。

◆法然上人25霊場

 法然上人(1133-1212)の生涯に所縁のある25霊場がつくられた。巡礼は法然上人の生誕の地である岡山県の誕生寺から始まり、香川・兵庫・大阪・和歌山・奈良をへて、1212年に亡くなった京都の知恩院で終わる、広域なコースである。
 この諸寺は、第1は専修念仏を唱えて奇瑞を表し、民衆を教化したと伝えられる寺であり、第2は、法然上人が折りに触れて立寄ったと伝えられる、所縁の寺の2種類で構成されている。

 第25番の知恩院は、京都市東山にある浄土宗の総本山である。法然上人は、心づかいの安心と、それを行として日常生活の中で実現させることによる浄土往生の道をといた。
 法然上人は1212年(建暦2)1月、東山大谷禅房で亡くなった。この大谷の禅房は、その後、叡山の衆徒に焼き討ちされたが、大谷の故地として復興し、念仏の根本道場となった。

◆親鸞上人24霊場

 親鸞(1173-1262)は、「弟子一人ももたずさふらう」(「歎異抄」)といわれたが、その弟子達は、念仏の大教団をつくりあげた。その本願寺三世の覚如が、関東の有力門徒(二十四輩)を本願寺派の正当な門徒として認めたのがこの霊場である。
 したがって、これらの寺々は変動が激しい。

◆日蓮上人の霊場

 日蓮上人(1222-1282)の所縁の寺院を参詣する順拝は、室町時代から盛んになったが、霊跡が広域なため一つの順拝コースを形成するにいたらなかった。
 日蓮宗の順拝コースは、霊跡を離れてまず京都でつくられた。京都での日蓮宗は、孫弟子の日像上人(1269-1342)により、商工業者の支援をうけて発展した。
 京都での日蓮宗の発展は1530年代がピークで、「京都二十一か本山」といわれる大寺院が勢力を持ったが、叡山と戦国大名が組んだ「天文法華の乱」(1536)によりすべて灰燼に帰し、さらに幕府が日蓮宗の僧、信者の京都居住を禁じたため、京都での日蓮宗は衰退した。
 その後に、寺院の復興が行われ16か寺に減少したが、昔日の繁栄の回復を祈って「二十一か本山詣り」という言葉はのこされた。
 現在は、本山の数は15か寺になり、参詣する本山も毎年異なるが、行列参詣は現在もつづいている。

 このほか、日蓮宗でも日蓮上人の木像をお詣りするコースがいくつかある。
 日蓮宗の信仰が民衆の中に広まった江戸の下町では、「江戸十大祖師詣り」ができた。ここでは格式や順路の別はなく、自分の住まいにより便利なように順拝したようである。
 十か寺は、浄心寺(深川)、報恩寺(本所)、本覚寺(浅草)、長遠寺(浅草)、妙音寺(浅草)、瑞輪寺(谷中)、宗延寺(杉並)、宗林寺(谷中)、幸国寺(新宿)、幸竜寺(浅草-世田谷)である。
 さらに、少し時間をかけて順拝する、「八大祖師詣り」のコースもあり、これは千葉、東京、神奈川という広域なものになっている。

 日蓮宗では、西の高野詣でに対応した「身延山詣」がある。身延山は「この山をもととして参るべし」という日蓮上人の遺言に従って、信者が参詣する山である。山内には、日蓮上人の遺骨を納めた「御遺骨堂」、木像を安置する「祖師堂」、墓塔を拝する「御廟所」の3つの堂がある。
 この3つの堂に詣でて、「法華経」の信仰を広めた日蓮の霊性にふれるのが、身延山詣の目的であり、日蓮宗の僧侶や信者は勿論、立正佼正会、霊友会をはじめとする、新興宗教系の信者も参拝する。
 信者が亡くなると、分骨して仏殿の中の納拝堂に安置され、供養される。その意味で、身延山参詣は、「法華経」への結縁、日蓮への面拝、先祖供養の3つが重要な要素となっている。



 
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