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(3)アメリカの太平洋の世紀(その1)
 アメリカは、独立以来、アメリカ大陸の中を、西へ西へと領土を拡大してきた。そして19世紀の中頃には終に太平洋岸まで到達した。
 1852年にはパナマ地峡に横断鉄道が開通し、1869年には北米大陸横断鉄道も開通した。更に1875-85年にかけてカナダ・パシフィック鉄道も開通し、大陸の東西は3本の鉄道で結ばれることになった。
 このことによりアメリカは、東に大西洋、西に太平洋という2つの大洋に面する世界一の大国として台頭してきた。

 この頃から、アメリカでは、太平洋のかなたの東洋への関心が強くなり、中国貿易においてイギリスと競争する意識が高まった。太平洋航路が開設されれば、ニューヨーク−サンフランシスコ−上海のコースが、ロンドン−喜望峰−上海と所要日数が殆ど変らなくなるわけである。ここからアメリカの太平洋の世紀が始まる。

 アメリカの対中国貿易は、イギリスに対抗して1780年頃から始まっていた。1800年度のアメリカ商人の輸出は250万ドルであったが、1820年には1千万ドルに増大した。しかしこの間のアメリカの中国貿易は大西洋−インド洋経由であり、イギリスにくらべて非常に不利な状況にあった。それが太平洋航路の実現により大きく変化しようとしていた。19世紀の後半から海洋大国アメリカは、イギリスのライバルとして登場しようとしていた。
 まさに太平洋におけるアメリカ登場を象徴する事件が、ペリー艦隊の日本遠征であったといえる
 
●ペリー艦隊の日本遠征
 当時のアメリカでは、捕鯨が重要な産業の一つであった。太平洋に進出した最初の捕鯨船団はイギリスであり、1787年にオーストラリア沖、タスマニア沖で操業した。ちょうどその時期はアメリカ独立戦争の最中であり、アメリカという植民地を失ったイギリスは、太平洋への拠点として新しい囚人の流刑地オーストラリアを選んだ。イギリスの捕鯨船は、イギリスから囚人をオーストラリアへ運び、囚人を下船させた後、シドニーやホバートを基地として捕鯨に従事し、復路は鯨油を積んで帰国した。

 イギリス捕鯨が南太平洋で活躍したのに対して、アメリカ捕鯨は北太平洋で活躍した。アメリカ捕鯨の基地は、ニューベッドフォードやその東の海上のナンタケット島で、18世紀末から太平洋捕鯨に乗り出し、はじめはチリ沖で操業していたが次第に北上し、太平洋の中央に進出した。1821年に日本の金華山沖に好漁場が発見されて、北太平洋の捕鯨は最盛期を迎えた。

 アメリカ捕鯨船の基地として最もよく利用されたのは、ハワイのホノルルとラハイナであり、カメハメハ4世の時代に非常に繁盛した。1840年から60年にかけてホノルルやラハイナに入港した捕鯨船の数は、年間平均400隻に及んだ。そしてハワイに次ぐ太平洋の捕鯨基地が、スペイン領のグアム島であった。

 アメリカのペリー艦隊が来日した目的は、第一にはアメリカの捕鯨船の食料、薪炭の補給、嵐の際の緊急避難港の確保であり、更にペリーは、鎖国していた日本との通商を求めるアメリカ大統領の国書も持参しており、中国への太平洋航路の開設を考えていたと思われる。
 ペリーは1854年に再度、来日して、ここで日米和親条約が締結され、更に、58年にはハリスとの間で日米通商条約が締結された。
 これにより日本は、近代国家建設への扉を開かれたが、同時に、アメリカは中国貿易に対する太平洋の大きな拠点を確保することが出来た。

 日本の開国に成功したペリーの業績は、アメリカでは高く評価されなかったようである。ペリーは、長期の艦隊勤務に疲れて1855年4月23日に提督の任務を終了した。帰国したペリーは、暖かくは迎えられたが、熱烈な歓迎は受けなかった。
 その理由の一つは、彼が通商条約まで締結しなかったことにあるといわれるが(大江志乃夫「ペリー艦隊大航海記」)、ペリーが帰国したのが、アメリカ国内の最大の内戦となった南北戦争(1861-1865)の前夜であったことも影響しているように私には思われる。

●南北戦争―アメリカ史上最大の政治危機
 1840年代の終わりに大西洋から太平洋にまたがる大陸国家の建設に成功したアメリカは、この時点で建国以来の問題であった奴隷制をめぐり、建国以来の国家危機を迎えた。つまり新しい州を受入れることにより発展してきた合衆国において、新設する州が奴隷州であるか自由州であるかが、連邦議会のバランスにかかわる重要な問題になってきていた
 
 奴隷制問題については、いずれの政党も党内統一をはかることは困難になっていたが、この問題を避けて通ることも最早、不可能な情勢になっていた。
 しかも1850年頃から外国人=移民・排斥運動(ネイチヴィズム)が登場し、このことから1852年選挙で大勝した民主党が、1854年には大敗するという状況になっていた。このことはアメリカ社会が大きな転換期に差し掛かっていることを示していた
 
 1860年の大統領選挙は、明確に奴隷制をめぐる選挙になった。その選挙結果は、奴隷制には反対であるが、黒人の社会的、経済的平等にも反対という当時の北部の矛盾した立場をとる共和党のリンカーンの勝利に終わった。
 このことは奴隷制に賛成する南部には衝撃的な事実であり、連邦上院と大統領をにぎってきた南部の建国以来の基本戦略がここに破綻したわけである。

 リンカーンの大統領当選の3ヵ月後、サウスカロライナを始めとする南部の11州は連邦を離脱した。そして1861年2月9日、アメリカ連合国を結成してジェファーソン・デービスを大統領に任命した。
 リンカーン大統領は、就任演説で南部の諸州の奴隷制には手をつけないことを明言したがそれでは収まらなかった。
 
 当時のアメリカにおいて、奴隷制度は憲法で保障された合法的制度であった。そのため奴隷制の廃止もしくは奴隷の解放ということは、まだ一部の過激派のものであり、一般市民に広く受入れられるものではなかった。
 しかし一方の北部では奴隷制の存在と奴隷権力の膨張主義、政治的横暴に対する反感もピークに達しており、奴隷制を南部に封じ込めたいというのが北部の世論の合意点であった

 1861年4月、南北戦争が開始された。この戦争は南北の総力戦となり、はじめは南部が優勢であったが、人口が多く、工業力が優れた北部がしだいに優勢になり、65年に最終的に北部が勝利した。しかし戦後における南部諸州の復帰のための「再建法」の名の下に、南部は1877年まで軍政下におかれて南北の関係を悪化させた。

 形式的には、奴隷制は憲法修正第13条により廃止され、市民権は修正第14条、第15条で保護されるはずであった。しかし実際には「黒人法」、KKKの暴力により妨げられ、再建期以降も「ジム・クロー法」により黒人は社会的に差別された。
 その実態としての差別の存在は百年後の1970年代における黒人運動を見ても分かるであろう。

●南北戦争後のアメリカ経済の発展
 南北戦争の後、アメリカ政府が連邦の再統一と旧反乱州の変革に力を注いだ「再建の時代」は、合衆国の軍隊が旧反乱州から撤退した1877年に終わった。
 この時代は、戦後の新しい経済発展が活発化し、人々の関心は西部の開発と産業の振興に向けられた。

 南北戦争が終わった1865年から19世紀の末までに、大平原から山岳高原地帯にいたるアメリカ大陸の「最後のフロンティア」が征服された。このアメリカ大陸における内陸発展の最後の時期に、ミシシッピ川と太平洋の間の地域に大陸横断鉄道が建設された。そして、その地域の先住民を追い立てた跡には農業、牧畜業、鉱山業、林業などが発展した。
 
 この好況期を題材にして、マーク・トウェインは、1873年に「ギルデッド・エージ」(金メッキ時代)という小説を書いた。この題名は、経済発展期に金儲けに没頭して、理想と道義心を失った1870-80年代を表す言葉として多くの人々に用いられた。この時代は経済の時代であった。共和党は、奴隷制度や人種抑圧のない南部再建の理想の旗を降ろし、北部の経済利益に奉仕する政党になった。
 リンカーン以降、国民的英雄となる政治家は現われず、代わって、カーネギーとかロックフェラーといった貧しい境遇から実業家として成功した人々が登場してきた。いわば「アメリカン・ドリーム」の時代といえる。
 
 アメリカ大陸における国内的拡大は終わろうとしており、インディアンは西部大平原から永久に駆逐されようとしていた。1890年の或る寒い日、アメリカ軍がサウスダコダ州のウーンディッドニーでキャンプしていたインディアンを攻撃して300人の男女子供を虐殺するという事件が起こった。
 この事件はコロンブス以来、400年続いてきた暴力行為の総仕上げになった。
 この年、国勢調査局は、国内のフロンティアが無くなったことを公式に発表した。
 国土の拡張という利潤追求の経済体制は、国内から海外へ向かい、アメリカの植民地を作り出す帝国主義的政策に転化し始めた。

 1897年、その後に大統領になったセオドル・ルーズベルトは、友人への書簡に次のように書いた。「ごく内緒のことですが、・・・私はまずどんな戦争も歓迎します。わが国には戦争が必要だと思うからです。」(ハワード・ジン「民衆のアメリカ史(中)」)




 
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