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(2) 「新大陸アメリカ」の勃興

●ヨーロッパの植民地大陸 ―アメリカ
 アメリカ「民主主義」の体質は、それがヨーロッパの植民地として出発したことと大きく関わっている。
 新大陸の多民族国家アメリカは、まずヨーロッパにおける国々の植民地によって形成され、そこへ各国の移民が送り込まれることにより成立した。
 そこで、まずそれらの植民地の起源を次にあげてみる。

★スペイン植民地
 1492年、最初にやってきたのはコロンブスに率いられたスペイン艦隊であった。
 本来、コロンブスが目指したのは「黄金の国ジパング」であったが、心ならずも漂着したのはカリブ海のバハマ諸島であった。
 このコロンブスによるアメリカ発見後、スペインとポルトガルが条約を結んで、アメリカ大陸はブラジルを除いてスペインが領有することになった。しかしアメリカ大陸の全体像がわかっているわけではなく、実際にはアメリカ大陸の南部地域がスペインの植民地になった。 

★イギリス植民地
 続いて新大陸へ来たのはイギリスであった。ヘンリー7世が1497-98年にかけて派遣したヴェニス人カボット父子が北米海岸を探検し、それが英国による新大陸の領土権の根拠となった。
 スペインは南方から北米への探検を進めていたが、金鉱が発見できなかったので撤退していた。そこへ1602年に英国の清教徒がメイフラワー号に乗って新大陸へ到着し、ボストン近くのプリムスに上陸した。
 そして1607年からロンドン会社(通称ヴァージニア会社)がニューイングランド地方の開発に乗り出し、そこに清教徒が住み着いて最初の恒久的植民地経営が始まった。これによりアメリカ大陸の東部地域がイギリスの植民地になった。

★フランス植民地
 フランスのアメリカにおける殖民事業は、1524年、フランソア1世が派遣したヴェラツアーノの航海により、毛皮貿易を中心にした商業的植民地が作られて、ルイジアナ地方がフランス植民地の中心となった。

★オランダ植民地
 1621年に、オランダ人ニューネーデルランドを開設して、その中心がニューアムステルダム市(現在のニューヨーク)となった。そして、その後の蘭英戦争(1780−)の結果、ニューヨークはイギリスに譲られた
 
★18世紀のアメリカ
 18世紀初頭におけるアメリカは、上記のようなヨーロッパ諸国による多数の植民地によって構成されていた。
 その地域を見ると、カルフォルニアから南はスペイン領、ルイジアナがフランス領、ハドソン湾地方が英仏係争地域、東部はイギリス領、フロリダ半島はスペイン領といった状況であった。
 
 18世紀の中葉のヨーロッパでは、スペインの勢力が衰退して、フランスとイギリスが覇権を競っていた。その決着をつける7年戦争(1756−1763)の結果、イギリスが勝利を収めてヨーロッパにおけるイギリスの覇権が確立した

 このヨーロッパにおける英仏の確執が、アメリカにおける植民地にも影響を及ぼしていた。北アメリカへの英仏の入植者たちは、共にインディアンや現地軍の援助を受けて、1750年代の初めから衝突を繰り返していたが、7年戦争により北米におけるフランスの植民地は殆ど一掃されて、逆にイギリスの植民地が増えた

 7年戦争後のアメリカにおける植民地の状況を見ると、ルイジアナの西半分がフランス領、カルフォルニアがスペイン領、ハドソン湾地方、ルイジアナの東半分、および東部、フロリダ半島がイギリス領になった。
 フランスが勢力を大きく減らして広大な植民地を得たイギリスは、北アメリカの植民地政策の再編成に乗り出した。そしてそのことがアメリカ独立戦争の原因となり、結果としてイギリスは新大陸の植民地をほとんど失う結果になった。

●アメリカ独立
 1775年に始まったアメリカ独立戦争を通してイギリスの植民地であった13州がイギリス本国から独立し、1776年7月4日に独立宣言を出した。この段階で独立派が占める比率は、植民地人口の3分の1であったといわれる。
 つまりアメリカ独立といっても、それはイギリス植民地の本国からの独立であり、この3分の1の独立派が主体となって残りの3分の2の植民地からの独立が進められていった
 アメリカの独立がアングロサクソンから始まったことが、自由・平等な多民族国家といいながら、アングロサクソンがアメリカ国家の主体となる大きな理由になっていると考えられる。

 1777年に星条旗が国旗として制定され、1783年9月3日に独立戦争に関するイギリスとアメリカの講和条約がパリで締結された。この段階で、アメリカ合衆国はミシシッピ川を西側国境とした主権国家となった。
 1786年に憲法制定会議が行われ、88年に13州による承認を得て、89年には新憲法にもとづきワシントンを初代大統領とする新政府が発足した。

 しかしアメリカの真の独立は、独立戦争と講和会議だけでは達成できなかった。
 それが1812年の英米戦争である。この戦争の原因は、アメリカの貿易に対するイギリスの干渉に対して、アメリカの大統領マディソンがイギリスとの通商を停止する措置に出たことによる。
 このマディソンの方針に対してイギリスは、更にアメリカの貿易への干渉を強め、アメリカ国内ではアメリカに対抗するインディアンを支援する方針を出した。このイギリスの干渉に対して、1812年6月1日、マディソン大統領は、イギリスに宣戦を布告し、戦争に突入した。

 英米戦争は1814年8月に、アメリカの勝利で終わった。この戦争はイギリスの対米輸出を激減させた反面で、イギリスからの輸入が減少したニューイングランド地方の工業投資と生産が増加し、産業革命を促進させる結果となった。
 更に、アメリカ経済は、この英米戦争を通じて躍進し、名実共に独立国となった。その意味から、この英米戦争は、第2独立戦争と呼ばれている

 1812-1814年にかけてイギリスからの完全な独立を達成したアメリカは、19世紀を通じて大発展を実現していく。その内容は、次のようなものである。
(1)領土の拡大,西漸運動の展開,(2)連邦政府の権限の進展,(3)民主主義の確立,(4)国民的規模における経済の発展,(5)アメリカ文明の誕生

●19世紀―アメリカの発展
★領土の拡大,西漸運動の展開
 アメリカ独立以前、イギリスの支配者はアメリカ植民地人が、喜望峰から東で貿易を行うことを禁止していた。そこで独立を達成したアメリカ人は、アジア太平洋に商業の版図を見つけようとした
 しかし太平洋に到達する前に、アメリカ大陸には広大な中部・西部地域が広がっている。そのため19世紀を通じてまず国内の領土拡大の西漸運動が展開された

 1803年に、アメリカはフランスからルイジアナを購入した。これにより合衆国の面積は2倍になった。この頃から、国民の関心は西部へ向かい始めた。
 1821年、ミシシッピ川を越えたミズーリが州になった。
 
 1840年代には、未曾有の領土膨張の機運が生まれた。「若いアメリカ」運動の提唱者ジョン・L・オサリヴァンは、領土拡張の機運をアメリカ国民の「自由な発展のために、神によって割り当てられた」、「われわれの明白な運命」として正当化し、「領土拡大は、アメリカ国民の使命であるとした」。(世界歴史体系「アメリカ史」1、351頁)そしてこの領土拡大の立役者となったのは、第11代ポーク大統領(1845-48)であった

 領土拡大は、まず南西部のテキサスと北西部のオレゴンに向かった。1836年3月、テキサス人はメキシコからの独立を宣言し、秋には「孤独な星の共和国」を宣言して、サム・ヒューストンを初代大統領に選んだ。
 その上で、奴隷州の一つとして合衆国に併合してほしい旨を打診してきていた

 ポーク大統領は、テキサスとオレゴンの獲得を大統領選挙の公約としたのみか、カルフォルニア、ニューメキシコの獲得も視野に入れていた。そして1845年、テキサスを併合、1846年には、1818年から英米の共同領有地であったオレゴンを獲得、更に1847年に米墨戦争に勝利をおさめて、カルフォルニア、ニューメキシコ、アリゾナ地方(旧メキシコ領)を獲得した。
 これによってアメリカ大陸における領土拡張は、太平洋岸に到達したわけである。

 1840年代末 イギリスはオレゴンの領有権をアメリカに譲り、メキシコはカルフォルニアを割譲。ロシアはアメリカ大陸から完全撤退した。
 40年代には、アメリカ大陸の鉄道建設も軌道に乗り、30年代には鉄道の総マイル数は73マイルであったが、40年に3,328マイル、50年に8,879マイル、60年に30,636マイルになった。

 1847年の米墨戦争の和約が成立した直後に、カルフォルニアから砂金が発見された。このことによりカルフォルニアへの大移住が開始されたいわゆる「ゴールド・ラッシュ」である。
 これによって世界各地から10万人もの人がカルフォルニアに集まった。この時、初めてヨーロッパ系移民と異なる中国からの出稼ぎ労働者が洪水のようにカルフォルニアに集まり、大陸横断鉄道の工事に参加した。
 この時の建設労働者の9割が中国人であり、大陸横断鉄道は彼らの屍の上に建設されたといわれる。しかもその中国人移民は、1875年には10万人を越えた。
 既に、カルフォルニアでは、1860年代末から中国人移民の排斥運動が始まっていたが、80年代に入って、更に広く、アジア系移民の規制、拒否という差別を惹き起こした

 1853年、ジェームス・ガスデンが鉄道用地としてメキシコから南部国境地域の土地を買収し、ハワイ、アラスカを除くアメリカ大陸48州の領土がここで完成した。ペリー艦隊が浦賀へ来航したのは、まさにこの年である。
 日本人は、このペリーの来航以来、西欧の近代国家を代表してアメリカの艦隊が江戸時代の遅れた日本に開港を迫ったと思っている。しかし、実はこの頃のアメリカ合衆国は、ようやく48州が出揃ったばかりである。南北戦争もまだ行われる前であり、南部では奴隷制度が行われているという、西欧に比べたらまだ非常に遅れた状態にあった。




 
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