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(5)盧山会議―59年7月、政治局拡大会議
 1959年夏、江西省の名勝の地・盧山で、中共第8期八中全会が開催された。そこには中国の最高幹部が集まり、中ソ対立、大躍進・人民公社をめぐっての論戦が行われた。いわゆる「盧山会議」である。この会議は、「大躍進」のあと、中国全土が異常な食糧難に見舞われ、食料生産が落ち込み、大量の餓死者がでるという、建国以来かって経験のない苦難の中で、開催された。

 会議の結果は、大躍進・人民公社など、毛沢東による政策の結果に疑問をいだき、それを毛沢東に率直に諫言した当時の副首相であった彭徳懐、外務常務次官の張聞天、総参謀長の黄克誠、湖南省第一書記の周小舟をはじめとする優れた幹部たちが、反党グループとして毛沢東により粛清された。
 その盧山会議の結果として林彪などが登場し、文化大革命にいたる「毛沢東路線」がこの会議を契機にして作り上げられていった。盧山会議は、その大きな分岐点になった。

 この会議の結果はともかく、会議の内容はほとんど不明確のままであった。それから30年以上を経て、蘇暁康、羅時叙、陳政の3氏によるドキュメンタリーが、「盧山会議」(邦訳、毎日新聞社、1992.12)という記録にまとめられて、ようやくその全貌が分かった(原本は北京で発禁)。ここでは粛清された人々が会議で提起した見解とその概要を述べる。

★彭徳懐将軍 −粛清された朝鮮戦争の英雄
 まずこの会議で失脚に追い込まれた副首相兼国防相・彭徳懐は、毛沢東と同じ湖南省の出身であり、彼より5歳年下で「長征」以来の毛沢東の同志である。朝鮮戦争では人民義勇軍の司令官として参加して平壌を占領し、北上するアメリカ軍を迎え撃って38度線より南まで押し返した優れた武将として知られている。

 フルシチョフは、ソ連共産党の第21回大会において、彼のことを「真の英雄」、「偉大な統帥」として賛美した。また59年に歴訪した東欧諸国においても、彼はいたるところで賞賛の言葉で迎えられた。

 彼は、59年7月13日、盧山において毛沢東と会議の前に直接話す機会を逸したため、個人的な書簡にまとめて、翌日、毛沢東に届けた。毛沢東はその私信を、「彭徳懐同志の意見書」として大会で配布することを指示した。その内容は、私信という性格から、大躍進と人民公社に関する毛沢東の一連の政策や幹部の仕事のやり方などの問題点が率直に述べられていたようである。毛沢東による大躍進の成果は認めつつも、「プチブル的熱狂性、極左的主観主義が生み出す現実遊離の危険性」が率直に指摘されていた。

 私書簡という性格上、そのまま公になれば、その中の細かい点で問題になる言葉はいくらでもあるであろう。そのために彭徳懐はグループ会議で自己批判に追い込まれた。毛沢東は、8月2日の八中全会において、彭徳懐を右傾日和見主義者で党の分裂を図ったと批判、そのため彭徳懐は副首相・国防相を16日付で解任された。

 彭徳懐将軍は、文化大革命でも大衆の前に引き出されて迫害され、不遇の中、74年に死去する。毛沢東死後の78年12月に、党中央三中全会において名誉回復した。このことを見ると、毛沢東のいう「百家斉放」とは、一体、何であったのか?とつくづく思う。

★張聞天 ―粛清された超一流の外交官
 張聞天は、アメリカとモスクワに留学し3ヶ国語を操り、党総書記、国連代表、駐ソ大使を勤めた超一流の外交官である。盧山会議のときには、外務常務次官であった。
 彼は彭徳懐の手紙が印刷・配布された2,3日後、会議で発言する決心をした。

 彼は、鉄鋼生産の目標が経済法則を無視して高く設定されて、しかも度々の計画変更による混乱で50億元以上の損失をだしたこと、7-8千万人の労働力が鉄鋼生産に使われて、労働力の正常なバランスを崩し、農業、副業、手工業などに、深刻な影響をもたらしたこと、また人民公社における集団所有制についても、全民所有制に発展させるには時間が必要なこと、功を焦った政策上の行き過ぎがあることなど、13項目の問題を7月21日の華東グループの会議で詳細に述べた。この発言について彭徳懐は、「たいへん行き届いた発言だ」と賞賛したと伝えられる。

★毛沢東の怒り
 毛沢東は、国際的にはアメリカともソ連とも対立し、国内的には膨大な餓死者がでる劣悪な経済環境の中を、人類で始めて社会主義から共産主義への移行を進めていた。そのため、口では「百家斉放」などと言いながら、実際にはその余裕は最早なかった。

 1959年7月23日、中央政治局拡大会議の第2回全体会議において、激怒した毛沢東は、有名な「盧山講話」を行い嗚咽した。彼の総路線、大躍進、人民公社などの政策は、「全く失敗したわけではない。大部分失敗したのだろうか?そうではない。一部は失敗し、だいぶ代価を支払い、ひとしきり共産風が吹いたが、それによって全国人民は教育されたのだ。責任をとりあげるとなれば、第一の責任は私にある。」

 「大躍進」による死者は、2,800万人に上るといわれている。この年、毛沢東思想に統一する「整風運動」が全国的に展開されたが、それでも劉少奇・ケ小平などを支持する勢力は根強く残り、1962年1月に北京で開催された中央工作拡大会議(7千人大会)において、大躍進運動の総括が行われた。これは、劉少奇・ケ小平が主催して開かれたものであり、国家主席・劉少奇はこの運動における党中央の失敗と責任を認めた。

 しかし毛沢東は強力な巻き返しに出た。9月に開かれた中共8期十中全会は、その後に始まる毛沢東思想一辺倒の「文化大革命」への出発点となった。
 この会議で、毛沢東は、社会主義の全時期を通じてブルジョワジーの復活のたくらみが続き、プロレタリアートとの階級闘争が存在し、時には非常に激烈になること、この闘争はかならず党内に反映すること、帝国主義の圧力と国内ブルジョワジーの影響が、「修正主義」の根源であり、階級闘争の緊急性、社会主義教育の強化の必要性を主張し、会議の「公報」にこれを織り込むことに成功し、それ以後、毛沢東による反撃の基礎を与えて、文化大革命に展開していった。




 
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