(3)中国の「民主主義」
★「人民民主主義」とは、どのような「民主主義」か?
社会主義が目指す社会は、貧富、身分、地位などの差別のない社会の実現である。従って、民主主義がその基本にあることはいうまでもないことである。
ところが実際にソ連、中国、朝鮮、東欧などで作られた「社会主義社会」は、身分、貧富、人種、居住地域などによる差別が強い上に、支配者に対する「個人崇拝」が強いという信じられない社会であることがスターリンの死去以降に明らかになってきた。
それは1956年2月14日から始まったソ連共産党第20回大会における、フルシチョフ第一書記によるスターリン批判の秘密演説で発表された。これが社会主義社会の民主化運動の始まりとなり、東欧ではポーランド、ハンガリーなどでの暴動にまで発展した。
中国における新国家は、その出発に当たって中国共産党以外にも8つの党派、つまり民主同盟、国民党革命委員会、民主建国会、民主促進会、農工民主党、致公党、九三学社、台湾民主自治同盟、各大衆団体、少数民族、海外華僑の代表によって構成された中国人民政治協商会議であった。しかも「共同綱領」は、「中華人民共和国は、新民主主義、すなわち人民民主主義の国家である」と明確に規定している。
この文面から見ると、新しい中国は、夢いっぱいの理想的な民主主義国家として出発したようにみえる。事実、多くの日本人は、この時、新中国に新しいアジアの民主主義国家の夢を託した。
★個人崇拝と民主主義
個人崇拝が民主主義と乖離して成立したとき、独裁政権に転化する。スターリンの場合がそれであり、社会主義の独裁政権は大方その道をたどる。毛沢東の場合は,当初はスターリンと異なるように見えていたが、基本的には全く同じ性格のものになった。
フルシチョフ演説のあった56年が、文化大革命にいたる「毛沢東思想」による個人崇拝の路線と、これに対して中国を「現代化」しようという路線の葛藤の始まりになった。
56年5月2日、毛沢東は中国最高国務会議で、中国共産党と民主諸党派間の長期共存、相互監督を提唱して、学術研究の「百家争鳴」を示唆した。更に、この演説を受けて、陸定一・党宣伝部長は、「百花斉放・百家争鳴」(様々な思想の花が咲き乱れ、いろいろな意見を持つ人々が一斉に議論を戦わせる、という意味)について演説した。
つまり民主主義の原則を明快に語った言葉であるが、実際には、毛沢東の個人崇拝の一派は、その思想やその政策に反対する意見を一切否定する専制君主的な政策を取った。
この個人崇拝に反対したケ小平は、1956年9月に開催された第8回全国大会において、「労働者階級の政党の領袖は、大衆の上にあるのではなく、大衆の中にあり、党の上にあるのではなく、党の中にある」として、明らかに毛沢東の個人崇拝やその絶対化を阻止しようとした。この大会において、ケ小平は劉少奇と組んで、党規約から、「毛沢東思想」という言葉を全て削除したといわれる。しかし毛沢東一派の巻き返しは1958年から強くなり、その勢力は毛沢東が死去する1976年まで20年にわたって続いた。
(4)人民公社と大躍進―毛沢東の「三面紅旗」
毛沢東は、詩人であり思想家であった。唯物論の思想家であれば、現実に起こっている事象をもっとも重視し、そのためには政策の結果の現状把握を進める筈である。しかし毛沢東の場合には、実際の政策結果の正確な把握より、国家政策の観念的、思索的な側面を重要と考えたようである。
そのためにウソで固めた誇大な成果が評価され、真面目な提言は「右翼的」、「ブルジョワ的」などというレッテルを貼られて批判されるようになった。更には、唯物論的思想とは正反対の非現実的,観念論的な論争を引き起こし、中国の発展に大きなマイナス効果を与えるようになった。その毛沢東の誤った政策の典型的なものが、農業における「人民公社」であり、工業における大躍進の中心となった「土法製鉄運動」であり、更には中国全土を巻き込んだ「文化大革命」であった。
1957年、中国は第一次五ヵ年計画を終了した。労働者数は、1952年の1千6百万人から、3千1百万人という2倍近くに増加し、平均賃金もその間に42.8%増えていた、また農民の平均収入も30%増えていた。
1957年10月には、人類初めての人工衛星スプートニクの打ち上げにソ連が成功して、社会主義諸国の意気は、この上なく盛り上がっていた。11月にモスクワで開催された64カ国共産党・労働者党代表者会議に出席した毛沢東は、「東風は、西風を圧す」とか「アメリカは、張子の虎」という有名な演説を行い喝采を浴びていた。そのとき、彼は、15年の間に中国は鉄鋼などの主な工業生産でイギリスに追いつき、追い越すという目標を公約した。
毛沢東は、ソ連からの帰国後、各地の党会議で経済建設の速度や数量に関する慎重論、つまり「反盲進論」を批判して、大衆的な技術革命、地方工業の建設、大規模な水利建設による工・農業の「大躍進」を呼びかけた。
58年の5月の八全大会で劉少奇が毛沢東の提案をほぼ全面的に受け入れた報告を行い、できるだけ早く工業・農業・科学・文化を持つ強大な社会主義国を建設するという決議を採択した(社会主義建設の総路線)。
この前後から、大衆的な技術改革運動や大規模な基本建設を通じて生産の飛躍的効用を目指す「大躍進運動」が始まった。
★鉄鋼増産運動
大躍進運動の中心となったのは鉄鋼の増産運動であった。8月の党政治局会議は、当初設定されていた生産目標620万トンを、一挙に1,070万トンに引き上げ、59年度の指標を2,700-3,000万トンとした。これは57年度の生産高(535万トン)の2倍増産せよという毛沢東の提案を受けたものであった。毛沢東は、7億の民が年間1トン鉄鋼を生産すれば、年間7億トンの鉄鋼生産が可能だ、とその頃、発言している。
一挙に鉄鋼生産を2倍にするため、都市・農村のあらゆる職場・地域で、小型土法炉による半融鉄の大製鉄運動が起こった。既存の鉄鋼コンビナートへの設備投資も倍化して、年末には1,073万トンの鉄が作られた。しかし土法による300万トンは使い物にならなかっただけではなく、特に土法炉の建設などで農民の労働力や資金などがムダに使われたのみならず、炉の燃料として多くの樹木をムダに消費してしまった。この運動は農業や軽工業に大きな打撃を与え、特に農民には大きな恨みを残した。
★人民公社
1958年7月、河南の一地方で「人民公社」が設立された。「人民公社」は、コンミューンの訳語である。そこでは土地・農具は私有物ではなく、公社の共有物とされて、統一的・集中的に使用された。社員は、公社全体の収穫により供給される公共食堂で、ただで食事ができるとされた。8月に河南の新郷七里営人民公社を視察した毛沢東は、これを激賞し、全国へ宣伝した。そのことにより、北載河で開かれた中共政治局拡大会議は、農村の人民公社設立を推進する決議を採択した。このことにより人民公社設立の運動は、全国に拡大した。74万余の合作社が合併して2万6千余の人民公社となり、全農家の99%にあたる1億2千余万戸が否応なしに加入した。
北載河会議は、人民公社を「未来の共産主義社会の基礎」としたが、農村幹部のかなりの部分がこれをもって共産主義の即時実現と考えた。58年11月の中共八期六中全会では、「めしをくうのに金のいらぬ」供給制は「共産主義の要素」であるとして、公共食堂を「社会主義の陣地」として高く評価していた。
毛沢東による総路線、大躍進、人民公社の政策を「三面紅旗」と呼び、これによって毛沢東の威信は回復したかに見えたが、更に難しい問題が国の内外に生じていた。
★「大躍進」の挫折
1958年には、中国を取り巻く国際関係が非常に悪化していた。58年7月、イラク革命におけるアメリカのレバノン派兵に触発されて、台湾は大陸反攻を開始し、中国政府も8月に金門島の砲撃を開始した。アメリカは軍艦と航空機による台湾への増援軍を派遣し、一触即発の状態になっていた。
ソ連は、アメリカが中国を攻撃する場合には、核兵器と軍事援助を約束をしていた。しかし7月に北京を訪問したフルシチョフは、その約束を事実上拒否したため、中ソ関係は非常に悪化しつつあった。ソ連との関係は、60年7月には、ソ連技術者の中国からの引揚げ、ソ連共産党との決別という更なる悪化の道をたどる。つまり50年代末の中国は、アメリカ、ソ連を敵に廻して孤立した状態になっていた。
中国の国内事情も、この頃、非常に悪化していた。1959年に中国全土は、異常な食糧難と日用品の不足に見舞われていた。その原因の第一は、59年下期から始まった自然災害であり、干害、水害、風害、病虫害などが、59年から60,61,62年と3年連続した。59年の食糧生産は1億7千万トンで、一気に51年の水準まで落ちた。この間、人口は約1億人増加しており、「大躍進」の過労と栄養失調のため、肝炎、浮腫の病人が増加し、生産力の低い農村地帯では多数の餓死者が出た。58-61年の死者数は二千八百万人に上ったと推定されている。
特にこの異常な食糧難や日用品の不足、ひいては餓死者の続出という事態が「大躍進」や「人民公社」と絡んで発生したことにより、中国の経済政策は民衆の不信を買うことになった。そしてその民衆の声を背景にして、観念的な毛沢東路線は、現実主義の立場に立った劉少奇、ケ小平の路線と対立し、そのための粛清により貴重な人材が失われた。その最初の場になったのが、1959年6-7月の「盧山会議」である。
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