(2)オオクニヌシ神の大黒天への転身 ―祟り神から福の神へ
●大黒天とは
インドで生まれた大黒天(摩訶迦羅天)は闘戦神であり、本地は奈良の大仏様と同じ毘盧舎那仏すなわち大日如来である。好んで人黄を食うという夜叉鬼・ダキニ天を降伏させるために、身をこの闘戦神に変えたといわれる。
この闘戦神としての大黒天神は、福神とは全く異なる恐ろしい形相をした神である。形相だけでなく、性格も福神とは全く異なる。この恐ろしい闘戦神の大黒天神が、唐代の中国で「食厨の神」として食堂などに祭られるようになった。その理由は、よく分らない。(喜田貞吉「福神」宝文舘出版、202頁)
この食厨の神としての大黒天が、平安朝時代に入唐した天台、真言の僧により日本に持ち込まれた。天台宗では、伝教大師の比叡山の開山にあたり、地主神に守護の祈誓をこめたとき、大物主神つまりオオクニヌシ神の荒魂が現れた。これがオオクニヌシ神=大国天の日本での始まりといわれている。
真言宗では、大日如来が大きな位置を占めており、同時期に大黒天が取り入れられた。伴信友が東寺で示された書には、「大黒天神とは大自在天の変身也」と書かれていた。つまり大国天は、毘盧舎那仏の化身とされるとともに、「大衆の食屋」に居られること、また官爵職禄や富を与える福神の性質を帯びていることが示されており、福神の性格が強くなった。
●大黒天(ダイコクテン)=オオクニヌシ神の誕生
大国主神(オオクニヌシ)は、その文字が示すように、日本の代表的な地主神である。しかしこの「大国」(オオクニ)を音で読めば「ダイコク」になる。しかもオオクニヌシ神が兄神たちからいじめられて、大きな袋を担いでいる姿は、見方を変えると、宝物を一杯詰めた袋を担いだように見える。
ついでに手に「打ち手の小槌」を持ち、出雲の豊かな農村を象徴する米俵に乗れば、完全に福の神・大黒様(ダイコクサマ)の姿の出来上がりである。
あとから考えると、オオクニヌシ神が福神であるダイコクテンにふさわしい点がいくつかあったが、さらに大きな必然性があった。それは平安京の造都から始まる。平安京の東北位、つまり鬼門の方位には比叡山がそびえ、都つくりに当たっては、そこに鎮護の寺院を建立することが望まれていた。
この比叡山の地主神は、「日吉山王新記」によると、欽明天皇元(540)年に大和の大三輪神が天下った神であり、天智天皇の元(662)年に大比叡,小比叡大明神として現れたとされる。
そこでこの場所に、延暦寺を建立するにあたり、大三輪神、つまりオオクニヌシ神を地主神として祭る必要があった。
比叡山の地主神は古事記によると明らかに大山咋神(オオヤマクイ)、つまり、日枝山(=比叡山)にいます山末之大主神であった。天台では、伝教法師が叡山を開いた際、地主神に守護の祈誓いをこめたところが、地主神が姿を変じて大国天神となり、山内三千の衆徒を護らせたまうと約束された、と伝えられる。
叡山の天台宗では、山王を三輪大明神即ちオオモノヌシ同体としており、ここから大黒天神と大国主神と同一視する信仰が始まっていった。
喜田貞吉氏の「大黒神像の変遷」によると、初期の比叡山延暦寺などの天台系寺院に伝わる古い大黒天像は、後代の白い着物に白い袋の福神像ではなく、座像で天冠、鎧、黒色で、岩に座した闘戦神の姿であったといわれる。またその形で光背には火炎をつけたものもあり、福神とは全く異なる戦いの神の姿を残していたといえる。
比叡山延暦寺は、平安京の鬼門鎮護の寺とはいえ、最初は延暦4(785)年に最澄が営んだ草庵から始まっている。その延暦寺が王城鎮護の寺となるのは、最澄の死後の天長元(824)年のことである。つまり8世紀末から9世紀のはじめにかけて、インド仏教の闘戦神と出雲のオオクニヌシ神は、ともにその姿を変えて、恐ろしい神から王都を護る福神に転化していったように思われる。
喜田貞吉氏によると、負袋像のオオクニヌシ神の最も古いものは、筑前太宰府・観世音寺にある平安朝に作られた大黒天立像6尺・国宝といわれ、弘法大師ゆかりの寺院のものである。このような大黒天像は、インド,中国には存在しないものである。つまり、空海の真言宗あたりから、負袋像の福神・大黒天が登場してきたと思われる。
日本に現存する大黒神像は、大きく分けて2系統があり、第一の恐ろしい闘戦神型のものは天台系のものであり、第二の負袋型のものは真言系のものといわれる。
最澄の天台宗は貴族仏教の性格が強かったが、その後に続く空海の真言宗は、弘法大師信仰により民衆宗教としてひろまっていった。その弘法大師信仰とともに、オオクニヌシ神の大黒天も、福神としての姿や性格を持つようになっていったようである。これが現在の福神・オオクニヌシ=大黒様である。
16世紀にできた鎌倉・室町時代の故事逸話を集めた「塵塚物語」には、「大黒というはもと大国主命なり。大己貴と連族にて、昔天下を経営し給う神なり。大己貴と同じく天下を巡り給うとき、彼の大国主袋様なるのものを身に従えて、其の中へ旅産を入れて廻国せらる。・・・その後、弘法大師彼の大国の文字を改めて大黒と書き給いける・・」と書かれている。
つまりオオクニヌシ神は、伝教・弘法の両大師により大黒様に転身させられたようである。
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