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彷徨える国と人々
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1.ロッキード事件 −「田中支配」とは何であったのか?
2.三島事件とは何であったのか?
3.安保条約の改定反対と新左翼
4.よど号事件とその後
5.連合赤軍の事件
6.日本赤軍の事件
7.金大中事件と朴政権
8.北朝鮮による拉致事件とは何であったのか?
9.佐藤政権の沖縄返還と日米軍事同盟の変貌
10.北方領土問題とは何なのか?(第1部)

11.北方領土問題とは何なのか?(第2部)
(4)「北方領土」の変遷 ―その歴史
(5)新生ロシアと「北方領土」
 
  11.北方領土問題とは何なのか?(第2部)

(4)「北方領土」の変遷 ―その歴史
 1945年9月2日、それまで日本領であった千島列島はソ連の占領下に置かれることになり、その時点から「北方領土」の歴史が始まった。
 それから既に半世紀以上の時間が経過しているが、ソ連から返還された島々は全くない。
 しかしこの半世紀の間にソ連はロシアに変わり、「北方領土」に関する考え方もいろいろ変った。その変化の歴史を次に概観してみよう。
  
●サンフランシスコ平和条約 ―2島返還論
 戦後の「北方領土」問題は、1951年9月8日のサンフランシスコ平和条約がその出発点になる。そこで締結・調印された条約の第2条(C)項領土権の放棄には、次のように書かれている。
 「日本国は、千島列島並びに日本国が1905年9月5日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。」

 この一見して明快に見える条文の中に、その後に登場する「北方領土」に関する諸説の問題のすべてが内包されていた。
 4日前の9月5日にダレス顧問は、この条文の「千島列島」という地理的名称は歯舞諸島を含まないとするアメリカ合衆国の見解を表明した。

 また日本政府の解釈も異なり、西村条約局長は、千島列島は北千島と南千島の両者としていた(1951年10月15日、衆議院)。この解釈からすると、歯舞諸島と色丹島が千島列島から外れることになる。
 しかし、草葉外務次官は、千島列島は北千島、中千島、南千島からなり、南千島は別であるとする見解は成り立ちにくい、と答弁している(10月20日、衆議院)。

 この解釈をとると、南千島のエトロフ、クナシリは当然、放棄の対象となるし、色丹島が千島列島に含まれるかどうかは微妙な解釈になる。
 つまりサンフランシスコ平和条約の段階では、「北方領土」は最大限、歯舞、色丹の2島返還にあったことが分かる

 しかしこの段階でアメリカのダレスは、ヤルタ会談や日ソ戦争で暗黙の了解が成立していた千島列島の引渡しを白紙に戻そうとしていた
 また日本も51年9月7日の吉田全権の演説において、千島列島及び南樺太の地域は日本が侵略により奪取したものではなく、45年9月20日に一方的にソ連に収容されたものであり、ソ連の領土権の主張は承服できないと明確に述べていた。

 しかもサンフランシスコ平和条約で、日本は樺太南部と千島列島の領有権を放棄したが、ソ連はその条約に調印していない
 そのため、国際法上は日ソ両国が平和条約を締結するまでは、その領有権がどこにあるのか分からないという奇妙な状況になっている
 東京狸穴にあるソ連代表部も、日ソ平和条約が締結されるまでは国際法上の存在の権利もないわけであり、ソ連は「旧代表部」として日本に居座るという妙な関係になっていた。
 日ソの国交回復は、1954年の鳩山内閣からようやく始まった。

●日ソ国交の正常化交渉 ―2島返還、4島返還&2島返還の撤回
 ▲日ソ国交の回復に取組んだ鳩山内閣
 日本の戦後史の初期段階に長い間君臨した自由党の吉田内閣が終わり、1954年の暮れに日本民主党の鳩山内閣が発足した。
 戦前からの大政治家・鳩山一郎は、戦後の内閣首班に指名された途端に、マッカーサー指令部の追放令により吉田に首班の座を奪われるという不遇に遭遇していた。
 今回は、それから8年7ヶ月ぶりの復活であった。そこで、ソ連を切捨て、アメリカとの単独講和を選択した吉田内閣に対して、鳩山内閣がソ連との国交正常化に執念を燃やしたのは、けだし当然のことであったといえる。

 それに合わせるかのように54年12月17日のモスクワ放送は、日ソ関係の正常化に関する討議を開始する用意があるとするモロトフ外相の言葉を放送した。そこで55年5月24日の閣議において、日ソ平和条約締結のために日ソ交渉を開始することが決まった。
 
 日ソ国交の回復にあたって、鳩山内閣の内部には外務大臣・重光葵を中心にした慎重論と、農水大臣・河野一郎の積極論があり、さらに総理大臣・鳩山一郎と重光の間には、かなり見解に相違があった。
 そのことが、その後の日ソ交渉を不成功に導く大きな要因になった。

 日ソ平和条約の締結をめざす最初の交渉は、日本側全権である前駐英大使で開戦当時の外務次官であった松本俊一、そしてソ連側の全権の駐日ソ連大使・マリクとの間で、1955年6月3日からロンドンで始まった。
 その経過は、サンケイ新聞の特派員として重光使節団に同行していた久保田正明氏の著書「クレムリンへの使節 ―北方交渉1955-1983」文芸春秋、に詳しい。

 ▲松本・マリクのロンドン会議 ―フルシチョフによる2島返還論
 マリクと松本は前から面識もあり、古くからの知人であった。そこで、松本が第1回交渉において「長くかかりそうなので、ゆっくりやりましょう」というと、マリクは笑いながら「2,3ヶ月で片つきますよ」といったといわれる。
 
 交渉の第2回目に、日本側は「歯舞、色丹、千島列島、南樺太は歴史的に日本の領土」という原則論を展開し、これに対してソ連側は、マリク全権が8月9日の第10回会議において、歯舞、色丹の2島返還を譲歩案として示してきた。これはフルシチョフの決断であったといわれる。

 松本は、このソ連側の譲歩案をただちに機密電報で東京へ送った。ところがこの電報を重光外相は鳩山首相に報告せず、外務省内部だけで処理した。
 日ソ交渉に消極的だった重光は、親米派の外務省幹部らと密かに対策を協議して、歯舞、色丹だけの返還では不十分であり、国後、択捉を含めた4島返還を要求すべきである、という結論に達した。
 そして鳩山首相の見解も聞かず、外務省訓令として4島返還論をロンドンに打電した

 8月30日、第13回会合で松本全権は、この4島返還論を提示した。予想もしない提案を第13回目に突然提示されたソ連側は、完全にフルシチョフの面子がつぶされたこの日本側の提案に非常に腹をたて、4ヶ月をかけた平和条約会議は一挙に吹き飛んだ。
 ロンドン会議については、松本全権自身による記述がある。(松本俊一「モスクワにかける虹」朝日新聞社)

 ▲自民党と共に誕生した4島一括返還論と大失敗したモスクワ会議
 1955年11月15日、日本民主党と自由党の保守合同が実現して、自由民主党が発足した。この保守合同により重光外相と旧自由党吉田派が結びついたため、党内において反ソ、反共の強硬論の勢力ががぜん強くなり、4島返還が新与党の党議となった
 そのため鳩山は、領土問題に関する路線の転換を余儀なくされた

 新しい状況下での日ソ国交回復交渉は、1956年7月31日、モスクワで開始された。日本側全権は対ソ強硬派の重光外相自身が務め、ロンドンで全権をつとめた松本俊一が同行した。
 これに対して、ソ連側の全権はモロトフ外相に代わりプラウダの編集長から外相に就任したシュピーロフがつとめた。
 7月31日、重光外相は第1回会談において、4島返還論の根拠を詳細に展開してその妥当性を主張した。この強硬論は日本の世論には受けたが、ソ連側は強硬に反発し、友好ムードは完全に吹き飛んでしまった。

 この交渉を打開するために、8月11日に重光外相は、シュピーロフと私的な会議をもってソ連側の本音を探ろうとしたが、ソ連側に全く譲歩の気がないことが分かった。
 そこで翌8月12日、急に弱気になった重光外相は突然豹変して、2島返還で妥協しようとした。
 しかしこの突然の豹変には、前回のロンドン会議で苦労した松本俊一が反対した上に、日本の世論の対ソ強硬論は益々強くなり、困り果てた重光は8月19日、ロンドンのアメリカ大使館でダレス国務長官にこの問題を相談した。

 ところがダレスは調停に乗り出すどころか、日本が2島返還を提案するならば、アメリカは沖縄を返さないと恫喝したため、重光の2島返還は完全に行き詰ってしまった
 アメリカ政府は、9月7日付けで領土問題に関する覚書を日本の外務省に送り、この中で、サンフランシスコ条約において日本が放棄した南樺太と千島列島を、日ソ間の交渉によりソ連に返却する事は認められないと釘をさした。

 つまり重光代表の外務官僚的な交渉方法は、完全に藪をつついて、蛇を出すことになった。その結果、7月末に重光外相の日ソ国交回復交渉はわずか2週間で中断され、鳩山首相が自らモスクワへ乗り込んで解決するより手がなくなった。

 ▲領土問題抜きの日ソ共同宣言と2島返還の撤回
 鳩山首相は、9月11日付けでブルガーニン首相に、領土問題を棚上げにして、日ソの国交正常化を図りたいという書簡を送った。
 1956年10月12日、鳩山一郎は腹心の河野一郎農相と松本俊一全権を従えて、日本の首相として初めてソ連を訪問した。
 ソ連側は、クレムリンでブルガーニン、フルシチョフ、ミコヤンなど勢揃いで鳩山を迎えた。そして56年10月19日にクレムリンで出された「日ソ共同宣言」における領土問題の条文は、結局、次のようなものになった。

 「日本国及びソ連邦は、両国間に正常な外交関係が回復された後、平和条約の締結に関する交渉を継続する事に同意する。
 ソ連邦は日本国の要望にこたえ、かつ日本国の利益を考慮して、歯舞及び色丹島を日本に引き渡すことに同意する
 ただし、これらの諸島は、日本国とソ連邦との間の平和条約が締結された後に現実に引き渡されるものとする」(NHKスペシャル「前掲書」161頁)

 ここでは2島返還が平和条約締結後に行なわれることが明記されたが、「領土問題を含む」という言葉は削除された。
 この共同宣言は、12月7日に国会で批准され、批准書の交換と同時に、日ソ両国に大使館が開設され、正式な外交関係が再開されることになった。

 ところが60年1月、ワシントンでは日米新安保条約が調印されていた。
 その8日後の1月27日、ソ連政府は日本政府に対して、この安保条約の改定を新しい日米軍事条約であるとして激しく非難した。
 それとともに、56年の共同宣言における2島返還を一方的に撤回するというソ連政府の覚書を、グロムイコ外相から門脇駐ソ大使に送りつけてきた。
 これに対して日本側は、2月27日に岸首相がフェドレンコ大使に覚書を提出し、日ソ間の「領土問題は未解決であり、日本国民は固有の領土たる国後島、択捉島の引渡しを求めることは当然のことと考える」と主張した。
 しかしこれに対してソ連側は、4月22日の対日覚書において、日本側のいう領土権には根拠はなく、領土問題は既に解決済である。ソ連側は領土問題の継続審議に応じるつもりはない、といってきた。

●開発か? 領土か? ―田中角栄に始まる新日ソ交渉
 ソ連にしてみると、経済的に停滞しているシベリア、樺太、千島列島に対して、日本の経済的開発力を導入するというテーマは非常に魅力的であった。
 また日本にしてみても、「領土問題」は北方の漁業資源の利用に本音があることはたしかである。
 しかし日ソの領土がからむ問題の取組みは、岸とか佐藤という対米指向の強い内閣には無理であった。そこへ田中角栄という異能の宰相が現われて、外交の局面が変った。

 日本で訪ソした2人目の宰相が、田中角栄首相である。それは鳩山首相の訪ソから17年をへた1973年10月7日。ソ連側はブレジネフ書記長、コスイギン首相、グロムイコ外相、トロヤノフスキー駐日大使であった。

 当時のソ連経済の停滞は、既に目を蔽うばかりであった。そのため日本の経済力についての期待は大きく、ブレジネフは日ソ両国の信頼関係を経済面においてまず確立し、その上で平和条約を締結するという、西ドイツのような段階的方法を求めたと思われる。
 ブレジネフは大きなシベリアの地図を机の上に広げ、石炭、石油、ガス、鉄鉱石などの埋蔵地を指して、対ソ経済協力の有益性を説いたといわれる。     (NHK日ソプロジェクト「前掲書」199頁)

 ところが田中首相は、意外なことに経済協力の前に領土問題の解決を絶対条件とする理論を冒頭から展開して、議論は堂々めぐりに入った
 ソ連側は、冒頭から領土問題が登場するとは夢にも思っていなかった。
 アメリカにしてみると、日ソの2国間交渉がうまく行くのは面白くない。そこで4島返還というソ連が絶対に応じるわけのない条件を、日本政府に押し付けた。
 日本がこの4島返還という条件を守っている間は、アメリカは安心して日ソ交渉を見守ることが出来るからである。このことが田中・ブレジネフ会談を通して明らかになった。
 
 田中・ブレジネフ会談をみると、シンガポール陥落の際の山下奉文とパーシバルの会談に似ている。田中は、「領土」表現が入れられないなら、共同声明を出さないで、このまま帰国すると言い出した。
 共同声明で日本側が最初に提出した文案は、「領土問題を解決して、平和条約を締結・・・」である。
 これがどうしても通らないため、共同声明の最終案は、「第2次大戦の時からの未解決の問題を解決して、平和条約を締結・・・」となった。

 ブレジネフは、「未解決の問題」を「諸問題」と複数にしてほしいといった。それに対して田中は、「日ソ間の懸案は、領土問題しかないではないか」、「諸問題には4つの島の返還問題が含まれるのか?」と尋ねた
  ブレジネフ 「ヤー・ズナーユ」(=そう理解する)
  田中「それでは弱い。・・イエスかノーか? でご返事いただきたい」
  ブレジネフ「ダー(=イエス)」
             (中野士朗「田中政権・886日」199-200頁)

 73年10月10日の共同声明には、「1.双方は、第2次大戦の時からの未解決の諸問題を解決して、平和条約を締結する事が両国間の真の善隣友好関係の確立に寄与する事を認識し、平和条約の内容に関する諸問題について交渉した。
 双方は1974年の適当な時期に平和条約の締結交渉を継続することに合意した」と記されている。

 田中訪ソで間接的にもせよソ連側は、領土問題の存在を確認したものの、その後、再び領土問題は解決済みという見解に戻った

●ゴルバチョフ登場 ―ソ連政治・経済の停滞から改革へ
 ソ連の政治・経済は、70年代後半、保守派のブレジネフ、コスイギンの時代になり急速に活力が失われ始め、社会的経済発展に対する「ブレーキ機構」が形成されていった。
 それは経済成長の鈍化となり、80年代はじめには停滞状態になった。そのためソ連の国民経済は、80-90年代にかけて危機的状態に突入していったこのソ連国家の深刻な状況を打破するため、1985年4月からゴルバチョフのペレストロイカが始められた。

 ゴルバチョフ自身は、社会主義的市場経済モデルの成功例として日本を念頭においていた。そこでゴルバチョフは、シベリアから千島列島の経済開発に日本の資本を導入して、従来の効率の悪い社会主義経済を一挙に活性化することにより、ペレストロイカに活力を与えることが出来たら!と考えたと私は思う

 もしそれがうまく行っていたら、その後のソ連の歴史は一変していたであろう。しかし、残念ながら北方領土についてゴルバチョフ自身があまりよく知らなかった上に、ソ連の保守的な官僚機構がゴルバチョフに領土問題への介入を許さなかった

 しかしゴルバチョフは、ペレストロイカの発足と同時に対日関係の改善を考え、シュワルナゼ外相を日本へ送った。1976年1月のグロムイコ訪日以来、10年ぶりのことである。
 シュワルナゼは、領土問題に関するソ連側の立場は変らないが、日本側が平和条約の交渉で領土問題を持ち出すのは自由であるとした。
 日本の安倍外相との共同声明においては、73年の田中訪ソの際における「戦後の未解決の諸問題を解決して平和条約を締結する」という共同声明が再確認された。

 86年5月、シュワルナゼ外相訪日の4ヵ月後に、今度は安倍外相がモスクワを訪問し、文化協定が締結された。そして歯舞、色丹への墓参が11年ぶりに再開された。
 安倍訪ソの2ヵ月後の7月、ゴルバチョフは、今まで西欧に重点を置いてきた政策をアジアに重点を移すと発表し、ゴルバチョフの訪日へ向けての動きが始まった。

 ▲ゴルバチョフ大統領の訪日とソ連の崩壊 ―1991年4月〜8月
 ゴルバチョフ大統領の訪日は、1991年4月16日になりようやく実現した。ソ連の最高指導者の訪日は初めてのことであり、同日午後、海部首相との会談が実現した。

 会談初日から領土問題が論議されたが、話はかみ合わなかった。
 3回目の会談が終わった17日深夜、海部首相は「北方4島の問題にふれても、ゴルバチョフは話しをはぐらかしてかみ合わない」と事態の深刻さを報告した。
 自民党首脳からは、「そんな事なら共同声明はいらない。経済援助もやらない」という強硬論が出たといわれる。(NHK日ソプロジェクト「前掲書」234頁)

 ゴルバチョフ訪日の際の日ソ共同声明は次のようなものであった。
 「海部首相およびゴルバチョフ大統領は、歯舞群島、色丹島、国後島及び択捉島の帰属についての双方の立場を考慮しつつ、領土画定の問題を含む日本とソ連との間の平和条約の作成と締結に関する諸問題の全体について、詳細かつ徹底的な話し合いを行った

 これまでに行なわれた共同作業、特に最高レベルでの交渉により、一連の概念的な考え方、すなわち平和条約が領土問題の解決を含む最終的な戦後処理の文書であるべきこと、友好的な基盤の上に日ソ関係の長期的な展望を開くべき事、および相手側の安全保障を害すべきでない事を確認するに到った」と話し合いの内容だけが抽象的に述べられている

 この声明は、ソ連保守派の反動性を考慮して、非常に注意深く交渉の事実を中心に述べているが、新しい重要な点もいくつかある。
 (1) ソ連側が領土問題の存在を認めている事、
 (2) 領土問題が、歯舞、色丹、国後、択捉を対象にしたものであると
   具体的に4島の名前を明記したこと、
 (3) 領土問題が未解決であり、平和条約の締結時にこの領土問題を
   含めて解決すべきである事を双方が確認した事、

 これらの点でこの共同声明は非常な意味をもつものの、問題解決の方法や結果については、注意深く言及を避けていることがわかる

 ゴルバチョフ大統領の訪日と日ソ交渉は非常に大きな意味を持つものであり、領土問題についても発展の可能性を持っていた。
 しかし問題は、ソ連国家それ自体がその時点で既に崩壊の前夜にきていたことである。

 ゴルバチョフ訪日の直前、日本政府・自民党は、ソ連が4島への潜在主権を認めれば、巨額の経済援助をする方針を示したことが伝えられている。しかしその時、すでにゴルバチョフのペレストロイカは失速しており、その政治基盤が揺らいでいた。
 そして4ヵ月後の1991年8月、ソ連政権の右翼クーデターにより、ソ連という社会主義国家自体が崩壊し、日ソ交渉は振出しへ戻った






 
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