(5)新生ロシアと「北方領土」
●新生ロシアで日ソ外交は変るか?
ゴルバチョフの後を受けたエリツィン大統領の新生ロシアは、ソ連共産党の1党独裁による全体主義から離れ、民主ロシアへの歩みを始めたかに見えた。そしてそのことは外交面にも現われ始めた。
▲ハズブラートフ・ロシア最高会議議長代行の訪日(1991)
1991年はじめには、ハズブラートフ・ロシア最高会議議長代行が日本を訪問し、海部俊樹首相にロシア大統領の親書を手渡した。
ロシアは、既にソ連時代の末期から深刻な経済危機に直面していた。
そのため旧ソ連も新生ロシアも日本の経済的支援を得て、シベリア、樺太、千島列島などの経済開発を行うことを、ゴルバチョフを初めとして真剣に考えはじめていた。
その意味から、長い間停滞してきた「北方領土の問題」は、90年代に、それを打開する絶好のチャンスを迎えていた。
ロシア大統領も、あらゆる分野でロ・日関係の発展に全面的に賛成していたし、日ロ平和条約締結交渉への意欲を示していた。
そのためには第2次大戦の戦勝・敗戦で区別する事を放棄しようとまでいった。その頃、初代ロシア大統領・エリツィンは、北方領土の返還について次の5段階方式を考えていた。
(1) ゴルバチョフ・ソ連大統領の訪日時に、ソ日間に領土問題があることを正式に認める
(2) 2,3年かけて、南クリル(=千島)の4島を、日本企業が容易に立地できる「自由興業地帯」とする
(3) 5-7年かけて、ソ連の軍事施設が配備されている北方領土を非軍事化する
(4) ソ連と日本が平和条約を結ぶ
(5) 15-20年かけて4つの段階を実現した後、領土問題の解決を次の時代にゆだねる
ソ連時代にエリツィンが考えたこの方式は、エリツィン大統領がソ連大統領の後継者になった90年代初頭において、急に現実性を帯び始めた。
ロシア共和国最高会議議長代行・ハズブラートフは、9月9日に来日してエリツィン親書を海部総理に渡し、上記エリツィンの5段階案を大幅に短縮したいと述べた。
ロシアは、平和条約締結の意思を示すために、91年9月24-28日にクナーゼ外務次官と人民代議員に南千島を訪問させ、島民と会合し領土問題の話し合いを行ったほどである。
この状況を見て、一部のロシアの政治家は、千島を日本へ引き渡す準備に入ったと考えたし、この動きに驚いたフョードロフ・サハリン州知事は、千島諸島を防衛するための闘争司令部を設立して、反対運動に立ちあがったほどであった。
一方の日本側でも、91年10月14-15日に訪ソしていた中山外相は、91年末の段階において4島に対する日本の主権が確認されれば、実際の引渡し時期や態様には柔軟に対応することを、密かにソ連政府に申しいれていた。ところがロシア外務省は、その時「領土問題どころではない」状態にあった。(岩下明裕「北方領土問題」中公新書、8頁)
●エリツィン時代
▲エリツィン大統領の訪日 ―「東京宣言」(1993)
1991年9月11日、エリツィン大統領は訪ソ中のベーカー米国務長官と会見して、日本との平和条約の締結を、上述の5段階に短縮して急ぐ意向を示した。
そして9月18日には、パノフ・太平洋東南アジア諸国局長が、朝日新聞記者との会見において北方領土問題の早期解決の可能性を語った。
またコンスタンチン・サルキソフ東洋学研究所日本研究センター所長は、「ソ連情勢の激変により、日ソ関係の土台は根底から変っており、北方領土問題は2-3年後に解決可能である」と語った。(落合忠土「北方領土問題」文化書房博文社、200頁)
日本は、91年秋、北方領土の問題解決へ向けての最大のチャンスを迎えていた。しかしその期間は短く、早くも92年半ば頃になると、コーズレフ外交が「西側一辺倒」で国益をそこなっているという批判が保守派から出はじめた。そして、ロシアによる日本への接近も後退を始めた。
92年3月、エリツィン政権のコーズレフ外相が来日し、渡辺美智雄外相と会見して秘密提案をした。その提案とは、ロシアが旧ソ連の国際約束をすべて引き継ぐこと、その中に56年の共同宣言も含まれるとして、共同宣言の有効性を確認するものであった。
さらにコーズレフ外相は、渡辺外相と本格的な作業を進め、9月の大統領の訪日までに政治的解決に向けた重みのある文書を作りたいという提案をした。
日本側は、このコーズレフ提案を通じて、4島返還に向けて平和条約を締結したいと考えている人がロシア外務省にもいるという感触を得た。
このロシア外務省内部の秘密提案を、宮沢首相や渡辺外相が、日本の中で話題にするという大失敗をしてしまった。
たとえば宮沢首相は、このロシアの感触を4月19日の自民党婦人局の研修会で明らかにしたし、さらに4月18日には渡辺外相が栃木県太田市における講演の中で、この秘密交渉の一部まで明らかにしてしまった。(佐藤和雄、駒木明義「検証 日露首脳交渉」岩波書店、30頁)
日本側のこの不用意な発言が、ロシアの保守派や民族主義者を刺激する事になるのをロシア政府は極度に警戒していた。しかし日本側はそのことに鈍感であり、ロシア側の神経を逆撫でする事件がいくつも起こった。
さらに、7月のドイツ・ミュンヘンサミットにおいて、日本は北方領土問題に焦点を当てようとしていた。そしてそれを、ブッシュをはじめとするサミットのメンバーが応援していた。
これらのことが、ロシア政府の感情を逆撫でにするものになることに、日本政府は全く気が付いていなかった。
ロシアにとって4島問題は、日ロの2国間の問題である。この2国間問題を、日本はサミットを通じて先進諸国間に情報を広げてしまった。そして、そのために日ロ関係は急激に冷え込むことになった。
そのことから92年9月に予定されていたエリツィン大統領の訪日は、直前になって中止されることになる。そして日本はこの日露関係の冷え込みにより、北方領土問題解決の最大のチャンスを失う結果になった。
一方、日本国内ではエリツィンの訪日延期により、ロシアは「信用できない国」、エリツィン大統領は「信用できない大統領」とするイメージが台頭し、日ロ関係はその後に最悪の状態に突入した。
そしてロシアの外務次官・クナーゼの努力により、1年後にようやくエリツィン大統領の来日が実現し、細川・エリツィンの東京宣言の調印にまでこぎつけるところまでいった。(佐藤、駒木「前掲書」36-37頁)
93年10月に実現したエリツィン大統領と細川首相の東京宣言では、「択捉島、国後島、色丹島および歯舞群島の帰属に関する問題について真剣な交渉を行った。双方は、この問題を歴史的・法的事実に立脚し、両国の間で合意の上作成された諸文書及び法と正義の原則を基礎として解決する事により平和条約を早期に締結するよう交渉を継続し、もって両国間の関係を完全に正常化すべきことに合意する」と述べられている。
ここでのポイントは2つあった。第1は、北方4島を列記し、その帰属を明らかにして、平和条約を締結し、両国の関係を正常化する手順を明確にしたことである。
そして第2は、「歴史的・法的事実」、「両国の間で合意の上作成された諸文書」、「法と正義の原則」という3要素により、領土問題を解決する方針が合意されたことである。
この宣言の文案は、ゴルバチョフ・海部の共同宣言に非常に似ているが、両国間の関係を完全に正常化すべき行動をおこすことに合意した点で、かなり前進していた。
しかしその背景となる両国の不信感は、逆に非常に高まっていたと思われる。そのためエリツィン訪日後に、日露関係は長い停滞期にはいる。
▲クラスノヤルスク会談から川奈会談へ(1997)
1996年7月3日、ロシアではエリツィンが保守派の共産党委員長ジュガーノフを下して大統領再選を果たした。
そして一方の日本では96年1月11日、橋本内閣が3年ぶりの自民党中心の連立政権として発足した。
また日本の外務省では、対ロシア政策を本格的に練り直す必要を感じた外務大臣・池田行彦が、外務省の中で「腹の据わった人物」といわれた篠田研次を、夏の人事異動でロシア課長に任命した。
さらにその1ヵ月後に、ロシア・スクールのエースといわれるロシア公使・東郷和彦が、欧亜局審議官として本省に戻った。
このことにより日本、ロシア共に、役者が大方そろった。
そこで96年8月から外務省において対露政策の立案が始まり、北東アジアの安全保障と領土問題の解決が、外務省の政策の軸に据えられた。
戦後日本の対露政策は、(1)政経不可分、(2)拡大均衡、(3)重層的アプローチ、という3つの流れにより作られてきたといわれている。 (佐藤、駒木「前掲書」57-61頁)
この(3)の重層的アプローチとは、日露関係をより大きな構図の中で捉えようというものであり、経済、政治、安全保障など多角的な立場から考えようというものである。
97年の年頭に当たり、橋本龍太郎首相は、エリツィン大統領に日露間の政治対話を呼びかける親書を出した。
これが「重層的アプローチ」の最初に投げられたボールであったといわれる。この頃、日露間にはソ連時代には考えられないような、安全保障の防衛面における軍事交流まですすみ始めていた。
この段階で、1997年11月、エリツィン大統領と橋本龍太郎首相による非公式会談がクラスノヤルスクで行なわれた。そこではエリツィンの提案により、「東京宣言に基づき、2000年までに平和条約を締結するよう全力を尽くす」ことが確認された。
これにより、日本側には再び4島返還に対する期待が高まってきた。
翌98年4月19日、エリツィンと橋本の首脳会談が静岡県伊東市川奈で行なわれた。そこで日本側は3つの提案(川奈提案)を用意した。
(1) ウエルプと択捉島の間に両国の最終的な国境線を引くことを平和条約で合意する
(2) 別途、両国が合意するまでの間、4島の現状を変えない
(3) ロシアの施政を、合法的なものとして認める
ここでは歯舞、色丹には触れていないし、「返還」の文字もなく、返還期限もない。つまりこの提案は、4島の帰属ははっきりさせるが、返還時期ははっきりさせない。そして4島に日本がどんどん入っていって、「4島の日本化」を進める考え方が背景にあった。
ところがロシアでは、既に2つの危機が進行していた。それはエリツィン大統領の健康不安とロシア政局の緊張である。
その結果、首脳会談の日程は遅れ、4月11日の予定が18日になり、エリツィンは羽田に到着した26時間後には帰国するという慌しい日程が決まった。
会談は、日本側の15億ドルのアンタイドローン提案から始まったが、すぐにロシア側の共同投資会社の提案で躓いた。
この小さな問題で貴重な時間を失い、そのため予定していた川奈提案を提出する時間がなくなった。そのため翌日の川奈提案には、僅か40分の会談時間しかなかった。そしてエリツィンは、橋本による川奈提案を検討事項として残した。
その後、ロシアはアジア通貨危機(98.8)の影響を受けて、深刻な金融危機に巻き込まれていった。そして日本では、橋本が参議院選(98.7.12)における歴史的な惨敗の責任を取り退陣した。
98年7月14日、最後の記者会見において、橋本は「折角、すすみ始めた日露関係に影響がないことを願う」と語ったが、日本にとっての貴重なチャンスは明らかに失われていた。
▲小渕首相の「モスクワ宣言」(1998)
98年7月、日本では橋本龍太郎内閣から小渕恵三内閣に代わった。そしてロシアでは、エリツィン大統領の健康不安に加えて、エリツィン政権自体がその末期を迎えていた(―99年12月)。
その上、ロシアは単なる政権の不安定のみでなく、その背景をなしている経済状況が深刻な段階を迎えていた。
既に97年のアジア通貨危機以来、外国投資家のロシアからの撤退が進んでおり、ロシア国債には買手がつかず、その発行額が激減していた。
98年第2四半期には国債の発行額が償還額を下回る状態になり、そのためにルーブルはさらに下落した。
ロシアは、98年1月に従来の1000ルーブルを1ルーブルにするデノミを実施したが、短期国債の利払いが大幅に膨らみ、国家財政はこの段階で完全に破綻していた。
ロシアでは、98年に入り企業破産の件数が増大していたが、3月に新破産法が施行された。そして8月17日にロシア通貨・金融危機は表面化し、ルーブル・レートは急落し、短期国債の事実上のデフォルトが生じた。そのためロシア政府・中央銀行は、緊急金融対策を発表し、ロシアの国家破産が明らかになった。
つまりロシアは、企業破産だけでなく、国家自体が破産する事になった。
そのような状況で、ロシアには領土問題を冷静に論議する余裕など最早失われていた。その98年11月11日〜13日、小渕首相は日本の総理大臣として25年ぶりにロシアを公式に訪問し、「モスクワ宣言」が署名された。
そこでは、東京宣言、クラスノヤルスク合意及び川奈合意に基づいて平和条約の交渉を加速し、平和条約を2000年までに締結するよう全力を尽くすとの決意が、一応再確認されている。
さらに、平和条約締結に向けた国境画定委員会及び共同経済活動委員会の設置、並びに元島民及びその家族による北方四島への自由訪問を実施していくことが合意された。しかし川奈提案における4島返還は「ノー」であった。
1999年6月、ケルン・サミットの際の日露首脳会談では、小渕総理からの「クラスノヤルスク合意を実現して、国境線を画定し、平和条約を結ぶという歴史的な仕事を大統領としたい」との発言に対し、エリツィン大統領は賛意を示したものの、その実現は最早、困難になっていた。
エリツィン政権の末期、2000年までに平和条約を締結するというクラスノヤルスク以来の目標の実現はほぼ絶望的になっていた。それどころか2島返還さえ認めないという雰囲気が、ロシア側には出てきていた。
これを受けて、とりあえず2島だけでも先行返還を求めておこうという現実的な動きが、日本側から出てきた。
▲「2島先行返還論」が優勢に!
このように4島返還の「最後の切り札」であった川奈提案がだめになったことを受けて、1999年頃から「2島先行返還」論が優勢になった。
そして当時、外務省に大きな影響力をもっていた鈴木宗男代議士を中心にして、かなり具体的な活動がすすみ始めた。
さらに、2000年4月に急死した小渕首相の後を受けた森喜朗首相も、56年宣言を軸にして2島返還を先行させ、その後に国後、択捉を目指すという2段構えのアプローチを採用しようとしていた。
この時の「2島先行返還」論には、日本、ロシア共に非常な現実主義的政策が背後にあったことが推測される。
それは1996年6月の大統領選挙において、人気は既に第7位の最低に落ちて、当選するはずのないエリツィンが予想に反して当選した。それを支えたのは、実はロシアの金融財閥たちであった。
ところが肝心のロシア経済は、98年1月に大規模なデノミを行なったにもかかわらず、アジア通貨危機の影響を受けてさらに落ち込み、98年8月には国債が売れず国家破産に追い込まれた。
つまりエリツィン政権は、1998-99年にかけて経済的にもはや待ったなしの状態に追い込まれていた。
この時期に、「2島先行返還」により、樺太、千島、シベリアの開発プロジェクトを進めようという提案は、ロシア政府にとっては最後の頼みの綱ともいえる現実的な提案であったと思われる。
そしてこのエリツィンの2島返還論は、その後をうけたプーチン政権に引き継がれた。
●プーチン時代
▲森・プーチン首脳会談 ―現実味を帯びた2島返還論
2000年4月に日本の首相は小渕恵三から森喜朗に代わり、ロシアも前年12月31日にエリツィン大統領が辞任して、プーチン首相が大統領代行となった。そして2000年3月26日にプーチン大統領が選出された。
そこで早速、4月にプーチン大統領の地盤であるサンクト・ペルブルグにおいて、森・プーチンの非公式首脳会談が開催された。
この会談において、21世紀に向けた両国の協力のあり方等について広範な意見交換が行なわれ、東京宣言、モスクワ宣言等一連の合意及び宣言を、完全に遵守していくことが改めて確認された。
2000年9月には、東京において、森・プーチンによる公式首脳会談が開催された。そこでは、クラスノヤルスク合意の実現のための努力を継続すること、4島の帰属の問題を解決することにより、平和条約を策定するための交渉を継続することなどが、いま一度確認された。
しかしプーチン大統領自身は、これらの会談を通じて領土問題の解決と平和条約の締結には、殆ど熱意を示さなかったといわれている。
翌2001年3月25日、イルクーツクにおいて、森・プーチンの非公式首脳会談が開催され、会談後に「イルクーツク声明」が出された。
その中で、56年の「日ソ共同宣言」の有効性が確認され、クラスノヤルスク合意の総括と平和条約問題に関する声明が署名された。
そして今後、両国内でさらなる交渉を行うことで合意した。
この「イルクーツク声明」では、56年の日ソ共同宣言が平和条約交渉の出発点となる法的文書であることが、初めて文書により確認された。
その上で、93年の東京宣言に基づき、北方四島の帰属の問題を解決することにより、平和条約を締結すべきことが再確認された。
日ロの領土問題の解決に殆ど熱意を持たないプーチン政権が、何故このような声明を出したのか? 木村汎「新版 日露国境交渉史」によると、プーチン大統領は、鈴木宗男議員などが主張する「2島先行返還」論を利用すれば、2島のみの返還で長年続いてきた日露間の国境紛争にけりがつけられる、と考えたと推測されている。
そして国後、択捉2島を人質にとって、シベリア、樺太、千島の経済開発に日本の経済援助が引き出せたら、ロシアにとって万々歳である。
このプーチン大統領の考え方に、日本側の森首相、自民党の有力政治家・野中弘務、鈴木宗男、外務省の東郷和彦局長などがのった。そのため「2島先行返還」論は、俄然、現実味を帯びてきた。
そこで、01年10月、上海のAPECにおける日露首脳会談においては、双方が前提条件を付けずに歯舞・色丹の議論と、国後・択捉の議論を同時にかつ並行的に進めていくことで概ね一致した("同時並行協議論")。そして具体的な進め方については、外交当局間でさらに詰めていくことで合意された。
▲小泉・プーチンの「日露行動計画」 ―大混乱の日本外交とプーチン政権の変化
2001年4月、森首相が退陣し、小泉純一郎氏が首相になった。小泉首相は、外務大臣の経験がまったくない「外交オンチ」といわれた人物である。その上に、これも外交経験がない上に、かなり極端な形で外務省改革に取組もうとした田中真紀子氏が外務大臣に就任した。
しかも外務省は、当時、機密費スキャンダルで日本中のバッシングを浴びる状態になっており、日本外交の21世紀は大混乱の幕開けとなった。
小泉政権の出現により「2島先行返還」の現実論は一挙に吹き飛び、「4島一括返還」の理想論が再びぶり返した。
小泉内閣の「生みの親」である田中真紀子・外務大臣は、イルクーツク会談の後、鈴木宗男―東郷局長ラインにより更迭された「4島返還論」の小寺次郎ロシア課長を、現職に戻す異例の人事に踏み切った。
このことで外務省には、さらなる大騒動が持ち上がった。
2002年4月、田中大臣の後を受けた川口順子外務大臣は、鈴木宗男議員を中心にした「2島先行返還論」を推進した外務省内部の東郷和彦局長、佐藤優事務官を処分した。これにより外務省内の「最良のロシア通」?はすべて粛清された??
プラグマチストのプーチン大統領は、鈴木宗男騒動の後、しばらくして日ロ関係の修復に乗り出した。そこでプーチン政権は、日ロ間に国境線がないことを遺憾とする見解を、かつてないほど明快に打ち出した。
そして2003年1月には小泉総理とプーチン大統領との間で、「日露行動計画」が採択された。そこで4島の帰属問題の解決、平和条約の可能な限り早期の締結、両国関係の完全な正常化への決意が確認された。
2005年11月の日露首脳会議では、プーチン大統領から、平和条約問題の解決を我々の責務とし、ロシアが本当にこの問題解決を願っており、平和条約の欠如が日露関係の経済発展を阻害している旨の発言があったといわれる。
その上で、両首脳は双方の立場の隔たりを埋めるため、これまでの諸合意及び諸文書に基づき、日露両国が共に受け入れられる解決を見出す努力を続けていくことで一致したといわれる。
このプーチン政権の変化の理由は、2001.9.11後にプーチン大統領が取った対欧米外交がそれなりの成果をおさめており、それが一段落したことから日露関係の修復に乗り出したことが背景にあると見られる。(木村汎「前掲書」246頁)
プーチン大統領は、2004年3月14日の大統領選挙で71%という圧倒的な得票を獲得した。この背景には、ペテルブルグを中心とする民族主義的な権力者集団である「シロビキ」(=「権力者たち」)の存在がある。
ロシアはアメリカや日本とは違い、ヨーロッパ、中国との間に長い国境線を持つ国である。しかもそれらの国境線に沿って、多くの共和国をもっており、それらの国々の独立問題をかかえている。日本の「北方領土問題」はそのうちの一つに過ぎないことを、我々は知る必要がある。
日本の「北方領土問題」で出す見解は、即、これらの領土問題や独立運動に跳ね返るため、ロシアでは領土問題に軽率な結論は絶対に出せない。しかもプーチンのよって立つシロビキは、ロシアの最右翼の権力集団である。
プーチン政権は、2004年11月に「2島返還」の見解を明らかにした。しかもその条件で、平和条約を結び、日ロ間の領土問題に決着をつけることである。 一方の日本の経済力は21世紀に入り、深刻な財政危機、老齢化と人口減少などにより、今後、急速にその力が失われていくと推測される。近い将来、下手をすると2島返還ですらご破算になる可能性がかなり高くなっている。日本には、最早、残されている時間はない。
北方領土問題は、ここ数年のうちに確実に「剣が峰」に差し掛かるであろう。
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