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彷徨える国と人々
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1.ロッキード事件 −「田中支配」とは何であったのか?
2.三島事件とは何であったのか?
3.安保条約の改定反対と新左翼
4.よど号事件とその後

5.連合赤軍の事件

(1)「連合赤軍」の誕生
(2)連合赤軍事件
(3)あさま山荘事件

6.日本赤軍の事件
7.金大中事件と朴政権
8.北朝鮮による拉致事件とは何であったのか?
9.佐藤政権の沖縄返還と日米軍事同盟の変貌
10.北方領土問題とは何なのか?(第1部)
11.北方領土問題とは何なのか?(第2部)
 
  5.連合赤軍の事件

(1)「連合赤軍」の誕生 
 70年代初頭、赤軍の指導部は殆ど逮捕されており、政治局員としては高原浩之、1人を残すのみという壊滅状態になっていた。
 その高原もハイジャック事件の3ヵ月後の70年6月7日に、同事件の共同正犯の容疑で逮捕されてしまい、赤軍の中枢は公安によって完全に破壊された。
 残された大幹部の重信房子も昭和46(1971)年2月28日に、京大の奥平剛士とともにパレスチナへ脱出し、これにより日本赤軍の中枢は完全に機能を停止した。

●連合赤軍のリーダーとなった森恒夫
 壊滅状態になった日本赤軍は、昭和45(1970)年には、「PBM作戦」、つまり塩見議長の奪還、国際根拠地の建設、そして革命資金の調達のための軍事作戦を展開していた。しかしこれらが挫折してしまい、翌71年には「M作戦」(革命資金の調達)一つに絞られていた。
 「M」とは資金調達のことであり、71年初頭から7月23日の松江相互銀行米子支店の襲撃にいたる、一連の金融機関に対する襲撃・強盗事件が繰り返された。
 その一方、日本共産党革命左派神奈川県委員会(「革命左派」もしくは「京浜安保共闘」を称する)は、70年末に上赤塚交番を襲撃して、逆に柴野晴彦が殺されるという事件を引き起こしていた。
 そして71年2月17日に栃木県真岡の銃砲店を襲撃し、猟銃、銃弾の奪取に成功し、この鉄砲がその後の浅間山荘事件に使われることになる。

 戦前の日本共産党も、最後に武装闘争による銀行強盗事件を起こして社会的に顰蹙を買ったが、それと同様に瀕死状態になった過激派の組織は、その頃、なりふりかまわぬ終末期の状態に突入していた。
 このような瀕死の状態となった赤軍の中枢組織に、後に悲劇的な連合赤軍事件を引き起こす最悪の幹部として、森恒夫と永田洋子が登場してくる。

 森恒夫は、重信房子より1歳年上であり、大阪交通局の現業監督する父親のもとで、戦争末期の昭和19(1944)年12月、大阪大淀区の交通局公舎の棟割り長屋に生まれた。小学校では1番の成績であったという。
 豊崎中学から大阪府立の名門・北野高校に進んだ。定員450名の内の「100番くらいの成績」で高校に入学したのが、1960年安保騒動の年である。しかし森は学生運動には全く興味を示さず、もっぱら剣道に打ち込み、主将にまでなった。

 秀才ぞろいの北野高校では、森の学業成績も今ひとつであり、大学は外語大を第一希望としていたが、願書提出の段階で1ランク落として、大阪市立大学にしたといわれる。このことが後に森のコンプレックスとなって残ったようである。
 昭和38(1963)年4月、森は大阪市立大学・文学部に入学した。入学と同時に「大学生協」でアルバイトを始めた。その1年後、生協を支配する「社学同」委員長のポストについたのが、よど号事件のリーダーになった田宮高麿であった。
 以後、森は田宮の「腰巾着」のような存在になったといわれる。(角間隆「赤い雪―ドキュメント総括・連合赤軍事件」180頁)

 田宮高麿は、岩手県の出身、森の1級上の昭和18年1月生まれである。府立四条畷高校を卒業して、森の1年前に大阪市立大学へ入学していた。
 田宮は共産同ブントのリーダーであり、森が入学した頃の大阪市大では日共系の勢力が強く、ブントと日共系の両者は激しい新入生の争奪戦を展開していた。
 森は学生運動に興味がなく逃げ回っていたが、とりあえず「勢力の強そう」な日共系の「統社同」に籍をおいていた。それが、田宮委員長の支配権が確立すると、あっという間に社学同に鞍替えし、田宮の腰巾着になってブントの学生運動にのめりこんでいった。つまり森は目先の利く要領のいい性格のようである。

 昭和43(1968)年6月、従来の学生運動から大きく武装闘争に軌道をかえた共産同ブントのリーダーの京大生・塩見高也は、新しく武装化への準備をはじめた。
 これに同調した田宮高麿は突然、大阪の「みよし荘」アパートから姿を消し、東京中央区の月島にある「長田荘」アパートへ移った。
 突然、親分を失った森は驚いて後を追ったが、森の優柔不断な性格を知っている田宮は、この新しい政治活動に森を入れなかった。そのため、やむをえず森は成田闘争に参加して「小隊長」の地位についた。

 しかし元来、指導力のない森に成田闘争の小隊長が勤まるわけはなく、1年後にほうほうの態で成田を逃げ出した。昭和44(1969)年1月の安田講堂攻防戦を、森は千葉県成田の農家で見ていた。
 その頃、成田闘争における小隊長・森の権威は日増しに低落していた。そこで森は、成田を脱出して上京して、ふたたび田宮を頼ってきた。
 当時、共産同ブントは前に述べたように「関東派」と「関西派」に分裂しており、両者は力による対決の段階に入っていた。そのため、森は関西派に迎えられることになったが、森の優柔不断な性格は、成田闘争に参加した後も全く直っていなかった。

 そのことは次の事件からもわかる。昭和44年6月28日、明治大学構内の明治記念館で「関西派」の集会が開かれた時、其処へ向かう途中で当日の弁士である同志社大学の藤本敏夫とその司会の森が、「関東派」の学生に拉致される事件が起こった。
 そのとき、藤本は「関東派」が要求する自己批判を受け入れなかったため、人事不省に陥入るほどの暴行を受けた。ところが森は、「関東派」に這いつくばって謝り、逃げ去って無事に帰るという事件が起こった。
 これらをみると、後に起こる悲劇的な連合赤軍事件も、リーダーの森恒夫と永田洋子という最悪の組み合わせにより引き起こされた思いが強い。

●京浜安保共闘のリーダー・永田洋子
 永田洋子は、昭和20(1945)年2月8日、東京都文京区元町に生まれた。父は電気会社の玉川工場で働き、母は看護婦として働く共働きの家庭であった。
 洋子が生まれた2ヵ月後に横浜市港北区南綱島に疎開し、小学校4年までは横浜・綱島の会社の寮に住んでいた。そのため物心のついた頃から、労働運動に対しては共感を持っていたという。
 
 昭和32(1957)年4月、田園調布にある私立・調布学園中等部に入学した。同学園は、中学・高校とつづく「良妻賢母」の育成を目指す女子校であった。中学3年で60年安保の運動に遭遇し、それに関心を持ち、理解しようと悩んだという。

 昭和38(1963)年4月、私立・共立薬科大学に入学し、ワンダーフォーゲル部に入った。入学後、しばらくして社会科学班に入り、樺美智子さんの虐殺抗議集会やポラリス原潜寄航反対の集会に参加したりした。
 昭和39(1964))年1月に社学同の会議に誘われ、3月20日の金鐘泌・韓国外相の訪日反対のデモに参加し、5月には社学同ML派に加盟した。

 昭和41(1966)年2月、大学3年のときパセドー氏病と診断された。この病気は、甲状腺ホルモンの過多から起こる病いであり、首が太くなり、目が飛び出すといった症状がでてくる。
 永田はこの病気のため、男性にもてなくなることに悩んだといわれる。明治の大逆事件における菅野すがが、隆鼻術の失敗による後遺症に悩まされて、それが幸徳秋水の大逆事件への引き金になったとする説がある。
 永田の場合にも残虐な連合赤軍事件に至る原因には、この病気が大きく影響しているように私には思われる。
 
 社学同ML派が、日韓闘争の総括を巡り内部対立する中、67年3月に大学を卒業し、慶応病院の研究生となり、薬学の社会的学問分野の運動と婦人解放問題に取組んだ。
 翌68年3月、日本共産党に造反した神奈川県「革命左派」が結成されると、これに参加し、慶応病院付属病院の薬局で無給の医局員をつとめたあと、品川の三水会病院に勤めた。
 68年秋には済生会病院の薬局代表になり、夏のボーナス闘争では団交に参加するようになった。この活動において、永田は薬剤師として労働と生活に立脚した運動の立場をとらず、最初から革命左派のもとでの党派活動の立場をとり、共婦、反戦平婦の活動を優先させていたといわれる。

 昭和44(1969)年4月20日、横浜市鶴見で「京浜安保共闘」が結成され、東京水産大学の坂口弘が指導者になり、永田はこれに参加して、「女闘士」と見られるようになった。
 京浜安保共闘の坂口弘、吉野雅邦など5人は、東大闘争の挫折以来、低迷していた学生運動にカツを与えることをねらい、9月4日、愛知外相が訪米、訪ソに向かう飛行機を羽田において火炎ビンで襲撃する闘争を行い、有名になった。
 主要メンバーが逮捕されて危機的状態になった京浜安保共闘の公判闘争などを通じて、永田洋子は京浜安保共闘の組織の中枢を占めるようになった。

 さらに京浜安保共闘の吉野雅邦が、昭和46(1971)年2月17日、栃木県真岡市の塚田銃砲店に押し入り、猟銃10丁、空気銃1丁、銃弾2300発という大量の武器を入手することに成功した。
 ここで京浜安保共闘の武器と赤軍のM計画による資金が合体して、連合赤軍が誕生することになった

●連合赤軍の誕生
 昭和46(1971)年4月21日、京浜安保共闘の幹部の坂口弘と永田洋子は、赤軍派の森恒夫に会い、今後の支援・協力を話し合うため上京した。
 23日に両者は会い、赤軍と京浜安保共闘はできるだけ早い時期に一緒になり、「統一赤軍」を作ることで合意した。そしてその年の12月3日、赤軍派の「新倉アジト」に、永田洋子の京浜安保共闘が乗り込んできた。
 京浜安保共闘が榛名山に新しい「榛名アジト」を建設し、そこで両者が正式に合体したのは昭和46(1971)年12月20日のことであった。

 京浜安保共闘の吉野雅邦が慎重に選んだ榛名アジトは、湖畔の周遊道路から徒歩で20分も入った山の斜面を開いて吉野らが建設したもので、間口7m、奥行き5m、天井高3.5m、建築面積3平米の山小屋であり、台所、堀コタツ、ガラス窓の入った本格的な建物であった。
 それは赤軍派がそれまで使用していた無人の植林小屋を占有した新倉アジトとは全く異なる規模であり、森や坂東の赤軍派は京浜安保の気迫に飲まれ、驚嘆した。

 最初の両軍の討論に参加したのは次のメンバーである。
  赤軍派 森恒夫、坂東国男、山田孝
  京浜安保(革命左派) 永田洋子、坂口弘、吉野雅邦、寺岡恒一、岩田平治、
加藤能敬、小嶋和子、尾崎充男

 12月20日夜の会議は徹夜で続けられ、森は毛沢東が指導した1927年10月の秋収蜂起から、井岡山に至る闘争において紅軍建設の柱とした「三大規律・八項注意」(中国労農紅軍の隊内規律で、大衆の物は針1本、糸1筋、奪ってはならない、言葉づかいは穏やかにする、婦人をからかってはいけない、など)理論的な話をして、今度は京浜共闘の永田のほうが、「目が醒める思いで」それを聴いた。
 
 討論は連日連夜、続けられたが、永田が「ブルジョア的な遅れている兵士の再教育」の必要性について強硬な意見を出し、28日になっても最終結論が出なかった。 
 その後の総括・虐殺に繋がる厳しい個人追及は、すでにこの最初の指導者会議の段階から始まっていた。

 それは京浜安保の12.18集会に対して、加藤、岩田の意見書が出たところから始まった。この意見書に対して、加藤能敬と小嶋和子が総括を求められた。
 さらに、26日夜には永田が、加藤と小嶋が接吻しているところを見たことから、27日未明に寺岡、坂東、吉野の3人が寝ている加藤をシュラフから出し、土間の柱にしばり気絶するまで殴打し、小嶋も柱にしばられて放置される事件が起こった。
 さらに29日には、京浜安保の銃を管理していた尾崎充男と、赤軍派で「遅れている」と思われていた進藤隆三郎の2人が、氷点下15度を越す屋外に2日2晩縛り付けられ、尾崎が死亡した。これが最初の事件になる。

 28日から京浜安保は東京、名古屋に散らばる兵士たちを、また赤軍派は新倉アジトに残る赤軍派の仲間を坂東国男が呼びに行き、兵士集めに入っていた。
 中京安保共闘の山本純一と妻保子は、生後18日の娘の頼良(ライラ)ちゃんとともに、「山の中の理想的な共産主義社会で、親子3人幸せに暮らそう」という希望に燃えて榛名山へ向った。
 この榛名山アジトに集められた人数は、双方合わせて30名くらいであったと思われる。






 
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