(2)連合赤軍事件
昭和47(1972)年元旦には、榛名山のアジトは既に地獄と化していた。1月1日には、尾崎に続いて進藤も雪の中で死亡した。肋骨が6本も折られていた。
1月2日、後に「兵士たちの連合赤軍」の著者となった弘前大学の赤軍派の植垣康博が、新倉アジトから榛名アジトに到着したときには、既に、尾崎、進藤が殺害され、土間には加藤能敬が縛られており、アジトは緊張した重苦しい空気に包まれていた。
山田、坂東には気楽に話せる親しさがなくなっており、威圧的になっていた。また永田洋子は指導部のコタツに入り、よそよそしくなり、みんなすっかり性格が変わっていた。
その幹部の山田も、間もなく殺害されて、連合赤軍のなかで森と永田による支配体制は、2月のはじめには確立する。その1月末から2月初めにかけて山岳アジトは榛名から伽葉山、妙義山へと移るが、そこでも総括と殺害は継続されて、そのわずか1ヶ月そこそこの間に、図表-2に挙げる多数の人材が殺害された。
図表-2 山岳アジトにおける連合赤軍事件の犠牲者
死亡日 |
名前 |
享年 |
所属 |
出身学校 |
処刑理由 |
1971年12月31日 |
尾崎充男 |
22歳 |
革命左派 |
東京水産大学 |
12.18闘争の交番襲撃において日和りみて、柴野春彦さんを死なした |
1972年1月1日 |
進藤隆三郎 |
22歳 |
赤軍派 |
早大?日仏学院? |
女性と話ばかりしている |
1972年1月2日 |
小嶋和子 |
22歳 |
革命左派 |
市邨学院短大 |
神聖な場を接吻で汚した |
1972年1月4日 |
加藤能敬 |
22歳 |
革命左派 |
和光大学 |
同上 |
1972年1月7日 |
遠山美枝子 |
25歳 |
赤軍派 |
明治大学 |
きちんと総括できない |
1972年1月8日 |
行方正時 |
22歳 |
赤軍派 |
岡山大学 |
女性と話ばかりしている |
1972年1月18日 |
寺岡恒一 |
24歳 |
革命左派 |
横浜国立大学 |
分派主義で死刑 |
1972年1月20日 |
山崎 順 |
21歳 |
赤軍派 |
早稲田大学 |
総括が寺岡と似ているので死刑 |
1972年2月5日 |
大槻節子 |
23歳 |
革命左派 |
横浜国立大学 |
パンタロンを買った事を隠したり、美容院でカットした |
1972年2月8日 |
金子みちよ |
24歳 |
革命左派 |
横浜国立大学 |
皆にだまって出産の用意をしていた |
1972年2月10日 |
山田 孝 |
27歳 |
赤軍派 |
京都大学 |
総括しようとしていない |
(出典)永田洋子「十六の墓標」、植垣康博「兵士たちの連合赤軍」、小嵐「蜂起には至らず」などから作成
●イイカゲンな理由で総括・殺害された被害者たち
図表-2を見ると、「総括」による処刑・殺害の理由が恐ろしくイイカゲンであることが分かる。
ただ、幹部の寺岡に対する死刑は、彼が最高指導者である塩見高也の信頼の厚かった人物であることから、森の支配確立のための政治的粛清であるし、最後の処刑になる赤軍派の中央委員である山田孝に対するものも、それに準じるようである。
しかし殺害の理由が分からぬまま殺された犠牲者が、圧倒的に多いことがこの表からも分かる。つまり兵士たちの粛清は「総括」という名の恐怖政治により、森と永田の支配体制を確立する手段として利用されたに過ぎないと私は思う。
たとえば金子みちよの場合、妊娠している体で山岳蜂起の活動に参加すべきでなかった、という信じられない理由で処刑されている。
以下同様に、殆どすべての人々は理由にならない理由により、森、永田の権力確立の犠牲になって殺害された。これが「連合赤軍事件」の本質である。
ではこのような不当な処刑に対して、他の幹部や兵士たちが何故、唯々諾々と処刑に参加したのか?ということが大きな問題として残る。
たとえば幹部の1人の坂口弘は、「あさま山荘1972」(下)のなかで、進藤隆三郎を総括するにあたり、なかなか気絶しない進藤を皆に殴らせたと書いている。
そのとき遠山美枝子が、「私には殴れない」と人間的な言葉を発した。そのとき、皆はだらしがないといって彼女に進藤の殴打を強制する話が出てくる。(坂口弘「あさま山荘1972」下、301頁)
このとき一緒になぐって処刑者が死ねば、参加者は心情の如何にかかわらず、森と永田と同罪で共犯の立場になる。そして、もしそのとき徹底して反対すれば、今度は反対した自分が処刑される立場になる。
事実、進藤の死の1週間後に、遠山美枝子自身が総括により殺されている。このような異常な心理状況を作り出し、処刑の連鎖を作ることにより、森と永田の支配体制を確立していったと考えられるのである。
つまり連合赤軍事件は、スターリンの「血の粛清」や毛沢東や江西たち4人組による「文化大革命」と全く同質であり、イデオロギー的な組織を確立する過程において、支配者が権力を奪取していくための権力闘争の小型版であったといえる。
そして、その愚かさと残酷さにおいて、将に、スターリン、毛沢東に負けないひどい事件であった。
連合赤軍事件で処刑された人々は、図表-2のほかに、榛名山へ来る前の昭和46(1971)年8月に、永田が向山茂徳(20歳、予備校)と早岐(はいき)やす子(21歳、日大高等看護学院生)の2人を、組織脱落者として処刑している。
さらに、榛名山アジトの次に移った伽葉山アジトにおいても、1月30日に山本順一(労働者、革命左派)が総括にかけられ死亡している。山本は、妻と娘の頼良ちゃんをつれて「理想の天国」を求めて榛名山へ来た人である。命の危険にさらされた妻の保子は、処刑寸前に頼良ちゃんを置いて逃走した。
そこで図表-2の人々とあわせると全部で14人が処刑されたことになる。
このような状況下にある地獄のアジトから脱出を図る人々も出てきた。まず最初に榛名山から脱出したのは岩田平治であった。彼は伊藤和子と一緒に資金集めに名古屋へいき、集めたカンパの4万円を伊藤に渡して、そのまま脱走した。
帰ってきた伊藤から岩田の脱走を知った森と永田は、岩田から榛名山アジトとそこでの殺人事件が発覚する事を恐れて、次ぎのアジトへ移動する事を決めた。
次に脱出したのは前沢虎議であった。前沢は、東京大田区の自動車部品メーカー「三国工業会社」の工員であった。同じ会社に工員としてもぐりこんでいた坂口弘のカリスマ的魅力にとりつかれて、京浜安保共闘に入り、榛名山アジトにやってきた。
そこは「プロレタリアの天国」どころか、この世の地獄であった。そこで妙義山に移る段階で脱出の機会をうかがい始め、2月7日、脱走した。
そして3月11日に親戚の人に連れられ、東京の練馬署に出頭し、死体を埋めたことを洗いざらい自供した。
2月17日、森と永田も、2人で逃亡を計画していたとみられる尾道への「出張」から妙義山アジトへ戻る途中、群馬県警のパトロール隊に逮捕された。
独裁者を失った連合赤軍の9人の残存部隊はそろって最後の妙義山アジトから逃亡し、そのうちの4人は軽井沢駅で列車にのったところで逮捕された。
そして最後の5人が銃を持って軽井沢のあさま山荘に篭り、警察との間で激しい銃撃戦になったのが有名な「あさま山荘」事件である。
森はその後、1973年1月1日、東京拘置所で自殺した。これに70年12月18日の上赤塚交番襲撃で射殺された柴野春彦を加えると、連合赤軍事件の犠牲者は16人になる。これが永田洋子の著書「十六の墓標」の表題の数字である。
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