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  (3)6世紀の朝鮮半島

 502年、中国の梁の武帝は、自らの国際的な権威を誇示するため、日本、朝鮮など周辺国の王にさまざまな称号を授与した。たとえば日本の倭王武には征東将軍、高句麗王・高雲には車騎大将軍、百済王・牟大には征東大将軍という称号である。
 日本の雄略天皇は既に480年頃に亡くなっており、この称号授与は単に新しい中国皇帝の権威を示すための、デモンストレーションであったことが分かる。

 6世紀の朝鮮半島では、5世紀に引き続いて高句麗、百済、新羅の3国が覇権を競いあっていた。その中で中国は、かれらの朝貢の度合いに応じて上述のような大将軍の称号を授与して、朝貢の関係を保っていた。その中国との関係では、まず高句麗が最も密接な関係にあり、新羅の朝貢は最も遅れて、521年になってようやく梁へ朝貢を始めた。

 そのほかに、朝鮮半島では最南端に加羅諸国がまだ存続しており、殆ど消滅寸前の状態にあった。加羅諸国は、5世紀の高句麗の広開土王碑文では「任那加羅」と呼ばれ、古来、日本と最も密接な関係を保ってきた国々であるが、それらが日本の古代の危機にあわせるように、国家消滅の危機にさらされていた。

●5世紀における高句麗と百済の南進
 朝鮮半島の北部の強国・高句麗の長寿王は、468年2月、1万の兵をもって東部の新羅の悉直州城を攻め落とした。さらに、4世紀以来、中南部の百済に対して、高句麗は何度も攻撃を加えたため、472年に百済の第21代蓋鹵王は、北魏に救援を依頼していた。
 そのなか475年9月、ソウルの漢江の流域にあった百済の王都・漢城は、高句麗軍3万の攻撃を受けてついに陥落し、百済の蓋鹵王が殺害されるという事態になった。
 蓋鹵王の子の文周は、新羅に救援を求めに向ったが、新羅から1万の援兵を得て漢城へ戻ったときには漢城は既に陥落しており、高句麗兵は退去して1兵もいなかった。
 百済の北漢山城も南漢城も落ちて、父王まで殺害された文周は、父王の後を継ぎ第22代文周王となり、百済は都を南の熊津(いまの公州)に移した。

 高句麗の南進により追い詰められた百済は、止むを得ず、自らも南進の道を選ぶことになった。百済の南に位置する朝鮮半島の最南端には、古くからの馬韓、加那の諸国が、まだ存在していた。490年代、百済は馬韓の残存勢力のいた全羅南道への進出を始めた。
 この地域は、古来、日本との関係が深い地域であり、そのため百済は6世紀の始めから日本への外交攻勢を強めた。仏教の伝来は、その百済の外交政策の一環として考える必要がある。

 6世紀初頭の百済の日本への外交攻勢をあげてみると、次のようになる。
512 百済が任那4県の割譲を日本に要請、日本はこの要請を受けて百済に任那4県を割譲、勾大兄が異議を唱える。
513 百済が五経博士段楊爾を日本に貢る。百済は己汶、加那に進出し、己汶の割譲を要求。
516 済が物部連らを己汶に迎える。百済が段楊爾に代えて漢高安茂を貢る。百済が高句麗使に付き添って交誼を結ぶ
524 百済の聖明王が即位。新羅、南加那への攻撃を始める。南加那金官国、日本に救いを求める、近江毛野を派遣、九州で新羅と結んだ磐井の乱が起こる。

 このように6世紀の始めに新羅は西の百済に圧力をかけ始めており、追い詰められた百済は、加羅諸国へ進出するとともに、日本に救援を求めた。百済から日本への仏教伝来は、日本への救援要請と裏腹の関係にあることが分かる。

●百済、加那諸国と躍進する新羅
 524年、百済の聖明王が即位した年に、新羅は南加那(金官国)への攻撃を始めた。そして527年の侵攻に危機感を持った南部加那諸国は、日本に救いを求めたため、近江毛野臣を派遣するが、新羅と通じた筑紫の磐井が叛乱を起こし、翌年にかけて大戦争になった。磐井は殺害され、叛乱は鎮圧された。
 529年に近江毛野はようやく朝鮮半島へ進攻するが、安羅で新羅・百済の任那進出を阻止することに失敗する。そして新羅は、任那の4村を占領し、久礼牟羅5城を造った。そして近江毛野は帰国の途中、対馬において亡くなり(530)、任那の金官国は新羅に投降した。

 このような状況を踏まえて、541年、百済は新羅との外交関係を大転換して、新羅との修好に踏み切り、北の高句麗と対抗しようとする。百済は、541年に新羅に対して修好を求め、新羅もそれに応じて和議を結んだ。百済は、その一方で、加那への工作をすすめた。
 541年から百済は、新羅に滅ぼされた金官、喙己呑、卓淳の3国を復建しようという名目で、加那諸国に対して百済への参集を呼びかけた。そこでそれらの国は百済の求めに応じて、その都の泗沘(忠清南道扶余)に集まった。これが「任那復興会議」である。

 実際に会議が開かれたのは541年と544年の2回しかないが、ここに「任那日本府」が登場する。任那日本府は、日本書紀をはじめとして、日本の歴史書には登場するものの、朝鮮の歴史には見られない。名前の「日本」という名称もそれより百年後に初めて登場する言葉であるが、「任那日本府」に対応する実態はあったと思われている。

 百済がこの会議にかけた期待は、安羅をはじめとする加那諸国と新羅の関係を、百済よりに変えようとうするねらいがあったようであるが、大加那諸国と百済は、己紋・多沙事件以来、対立関係を深めており、百済のこの会議は失敗に終わった。

 新羅と同盟関係に入った百済は、551年、連合して高句麗から漢城を奪取した。しかしその翌年には、新羅は百済の勢力を駆逐し、独力で漢城を占領し、新羅の勢力はついに朝鮮半島の西海岸まで及ぶことになった。当然、百済との同盟は破綻し、554年に両国は管(函)山城で戦い、百済の聖明王が戦死するという重大な局面を迎える。さらに、百済側についた大加那諸国も561-562年に新羅の攻撃を受けて、新羅の勢力は強大化していった。

 実は、百済から日本への仏教伝来は、この段階で新羅により危機的な状況に追い込まれていた百済による、日本への救援依頼のメッセージであった。そして日本の側からすると、日本より一歩前に朝鮮半島に入っていた仏教の思想や技術をいち早く導入して、国際的に対等の関係を確立しようという強い意識が働いていたと考えられる。これが「仏教伝来」である。

●朝鮮半島への仏教伝来
  ▲高句麗への仏教伝来
 朝鮮半島への仏教の伝来を見ると、当然とはいえ最も早いのは中国に隣接した高句麗である。高句麗は、ツングース系の国家であり、現在の中国・吉林省集安の丸都城を首都としていた。
 「三国史記」によると、372年(東晋・咸安2)に前秦の三代皇帝・苻堅が高句麗に使を遣わし、僧順道と仏像・経典をおくった。当時は中国の東晋時代であり、貴族仏教が全盛時代を迎えていた。
 高句麗もこれに応えて前秦に入貢し、さらに2年後には、東晋から僧・阿道がきた。
 さらに、4世紀末には関中の曇始が遼東にきたという伝承があり、4世紀末からの高句麗の広開土王の華々しい事跡は、実は仏教受容を含む新しい国家展開が背景にあったと思われる。

 つまり、4世紀後半の高句麗の仏教受容は、一つには当時、対峙していた百済が南朝の冊封を受けていたのに対抗して、北朝との関係を緊密にするため、また今ひとつは旧来の部族支配を克服して、中央集権体制を確立するための国家主導により行なわれた。つまり仏教伝来とその受容は、単なる文化的な移行ではなく、国際的な外交や国家政策と密接な関係をもって行なわれていた。そしてこの高句麗の仏教受容は、朝鮮半島の他の国々や日本にも大きな影響を与えたことが考えられる。

 ▲百済への仏教伝来
 百済は韓族を主体としながら、国王はツングース系扶余族の流れを組む国家である。百済への仏教の伝来は、「三国史記」によると384年、枕流王の元年に南朝の東晋から胡僧・摩羅難陀が来朝して仏教を伝えたといわれる。しかし当時の仏教関係の遺跡が見つかっていないことから、この伝承を疑う向きも多い。そのため、大体、高句麗より少し遅れた4~5世紀に伝来したと思われる。
 しかし国家レベルで百済が仏教の興隆に乗り出すのは6世紀であり、501年に即位した武寧王が、中央集権的国家体制の樹立をもくろみ、諸々の政治改革を断行し、南梁に使者を派遣し、中国史上最も熱心な崇仏君主として知られる武帝に上表したことが知られている。

 百済ではこの武寧王から次の聖明王の時代にかけて、仏教の興隆が推進され、538年に百済の新しい都と定められた泗沘(現在の扶余)には多くの寺院が建立された。日本に仏教が百済から公式に伝来するのはこの時期であり、日本への初伝期の仏教は、百済経由による中国の南朝系の仏教であったと思われる。
 中国の南朝系の仏教は、北朝が仏教弾圧を行なったのに対して、帝王が仏教保護政策をとったために、外国僧の渡来も多かった。この仏教政策の影響が、百済、日本に大きな影響を与えたと思われている。

 ▲新羅への仏教伝来
 新羅は、百済とは異なり国王から国民のすべてが韓族の国家である。377年には高句麗を通じて北朝の前秦に入質していた。地理的には、北は高句麗、南は日本と関係の深い加羅、西は百済に接しており、伝統的に地縁的結合の精神の強い国であった。

 「三国史記」によると、5世紀前半の訥祇王の時に、高句麗より沙門墨胡子が一善郡に来て、毛礼(もれ)の家に住したことを仏教の初伝としている。同世紀に僧・阿道がやはり毛礼の家に来た。
 6世紀になり、法興王の時代に、仏教受容の可否をめぐる問題が持ち上がり、群臣がこれに反対した。そのため国王の近臣の異次頓が殉教して、ようやく受容に踏み切ったといわれる。法興王の15年(528)にはじめて仏法を行なったとされている。

 初伝より半世紀も遅れて新羅における仏教の国家的受容が決まった背景には、在地の固有信仰に基づく祭祀があり、それが強固な地縁的結合の原理を有していたことにあるといわれる。
 それにも拘らず、新羅が結果的には仏教の授容に踏み切った理由は、中国との外交と近隣諸国に遅れを取ってはならないという考えがあったことと思われる。
 それは日本における仏教受容と非常に類似した状況であり、大変面白い。

 新羅は508年に高句麗を通じて北魏に朝貢し、521年に百済を通じて南梁にも朝貢した。この頃、南梁から元表という僧が仏像・経典を持って、新羅へ来たとする所伝がある。
 法興王は、520年に律令を頒布し、536年に始めて年号を用い、さらに加羅諸国への版図をひろげ、国家体制の整備に尽力した。新羅の仏教受容は、将にこの政策と連動して本格化し、次の真興王の時代を通じて、都金城には多数の寺院が建立されて、仏教文化が花開いていった。

●日本への仏教伝来 ―むすび
 これら朝鮮半島への仏教伝来に対して、日本への仏教伝来をいま一度、見直してみるといくつかの点に気がつく。
 日本への仏教の公式な伝来は、戦前には日本書紀の記事に従って552年、欽明13年壬申10月、としていたが、戦後はより信頼性の高い史料である上宮聖徳法王帝説、元興寺縁起によって、538年欽明6・宣化2年戊午としていることは前に述べた。

 つまり仏教の受入れをはかる日本側の政治体制は、どちらの年をとっても天皇は欽明天皇、大臣・蘇我稲目、大連・物部尾輿で変っていない。そこには仏教の積極的導入をはかろうとする蘇我氏の勢力はまだ確立せず、大伴氏は政権の座からは去ったものの、旧来の祭祀をまもる部族の物部氏は、まだ大きな力をたもっていた。

 一方の百済側の状況を見ると、王は聖明王でかわりはないが、538年は熊津から更に新しい都の泗沘(現在の扶余)に遷都した同年である。泗沘にはその後、多くの寺院が建立され、百済における仏教興隆の最盛期を迎えようとした時期である。この時期に、百済の聖明王が日本に仏像と経論を贈ったことは、十分考えられる。

 しかし、日本書紀が記載する552年の仏教伝来の年は、百済の大危機の年になる。まず5月に百済、加羅、安羅から使いがきて、高句麗が新羅と結び、任那が攻略の危機を告げて、救援を要請し、この年の10月に百済の聖明王から仏像、経論が贈られてきた。そしてこの年、百済は、漢城と平壌を新羅に占領された。

 翌553年、百済は、日本に援軍を要請。554年、日本は百済に兵千人、馬百匹、船40隻を送ると答え、内臣、舟師を率いて百済に赴く。百済から、五経博士、諸博士来日、日本と百済の両軍臥新羅と交戦し、聖明王が戦死する。

 556年、百済から日本への亡命者のために、屯倉を設定する記事が多く見られる。このように見てくると、百済が滅亡の危機に晒されている中から、日本に仏像・経典と僧や五経博士などを贈って、援軍を要請してきている状況は極めて現実性を持ってくる。従って、日本書紀の記載する552年、仏教伝来説は、今なお十分に成立するものであると私には思われる。




 
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