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  (2)古代日本の政治危機 ―継体・欽明朝紀年の乱れのナゾ

 6世紀の中国、朝鮮における仏教は、単なる仏教思想を越えて、冶金、建築などの新しい技術を背景に、古代国家の政治体制にも大きな変革をせまる大きな意味を持つものであった。
 そのような時期に、日本の国内では、この新しい国際的な潮流に乗って国作りをしようという新しい勢力と、旧来の民族主義的な立場を守る保守的な勢力が衝突し、しかもそれが応神天皇に始まる河内王朝の断絶の危機のなかで進行していた。それについて述べる。

●継体帝から欽明帝へ ―皇統断絶の危機のなかで
 ▲武烈-継体天皇
 日本書紀における紀年の乱れは、継体帝で大体終わり、その頃から干支による史料の突合せが日本、朝鮮、中国の三国間でできるようになった。ところがそれとは別種の紀年の乱れが、継体、欽明朝に多く発生していることに、戦前の日本の歴史家たちも気がついた。

 その前提となる歴史的な事実から説明すると、まず応神天皇から始まる河内王朝の最後の王である武烈天皇が、506年丙戌12月に亡くなった。その武烈天皇には跡継ぎがないため、そこで皇統が断絶の危機にさらされることになった。日本書紀は、そのことを明確に「元より男女(=皇子・皇女)無く、継嗣(みひつぎ)絶ゆべし」と書いている。

 古代の天皇制はその政権を支える豪族によってもっており、このとき、その権力の座にあった最高の実力者は、大連(おおむらじ)の大伴金村であった。
 そのため大伴金村は早速、天皇の後継者選びを始め、最初に挙がった候補者は、丹波に住む仲哀天皇5世の孫の倭彦王であった。
 ところがその王は、迎えにきた軍隊に驚き身の危険を感じて逃げてしまった。そこで、第2の候補者として応神天皇5世の孫といわれる越前三国の男大迹(おほと)王があがり、それが第26代・継体天皇になった
 応神天皇は、河内王朝の初代天皇であるが、既に11代も前のことである上に、その5世の孫といえば、その縁戚はあまりにも皇統から遠い関係であったといえる。

 継体天皇の系譜は、美濃、越前、近江地方の勢力とのつながりが強かったが、継体天皇に対する大和勢力内部の抵抗は強かった。そのため、大連である大伴金村の強力な支援を受けながらも、即位は大和から遠く離れた北河内の楠葉宮で行なわれたし、その後も長い間、都を大和に置くことができなかった。
 天皇が、河内、山城をへてようやくヤマトの磐余宮(いわれ)に入ることができたのは、即位からなんと20年をへた526年のことであった

 このオホト王(=継体帝)の擁立を最も積極的にすすめたのは、前代から大連の地位を占めていた名族の大伴金村であった。大伴氏は、5世紀後半の雄略天皇のときには、大伴室屋大連(おおむらじ=律令以前の最高官)となり、それ以降、朝廷の最高位にあって天皇の政治を助けてきた豪族である。
 当時、大伴氏とともに朝廷の最高位を構成した氏族には、葛城、平群、蘇我、物部氏などがある。しかし、これらの氏族の中で、既に6世紀までに葛城、平群は勢力を失い、この段階で残っていたのが大伴、蘇我、物部氏であった。中でも大伴氏の勢力は、この当時が最盛期にあったと思われる。

 ようやく継体天皇が大和へ入ることができたのは、即位から20年をへた526年であった。ところがその翌527年に、九州筑紫の国造で、オオヒコノミコト5世の子孫という磐井が、筑前、豊後の一帯を根拠地として大きな叛乱を起こした。この叛乱は新羅と連絡をとる国際的連帯をもつ大規模なものであり、新王朝は国際的にも侵略の危機にさらされていた。

 驚いた大伴金村は、同じく大連の物部麁鹿火(あらかひ)と相談して筑紫に軍を送り、528年冬11月、大将軍アラカヒとイワイは、筑紫の御井郡で「旗鼓相望み、埃塵相接ぎ、機はかりごとを両陣の間にきめて、万死の地を避けず」といわれるほどの激戦を展開し、遂に磐井が殺されてようやく鎮圧に成功した。

 しかしこのような新羅と九州を結ぶ叛乱の発生は、継体天皇に始まる新王朝の危機的状態が海外にも察知されていたことを示していた。そこで毛野臣は529年に海を渡り、新羅、百済の両国王を熊川に招き、会談をもとうとしたが、両国王共に遂に現れないほど、日本の国際的権威は低落していた。

 日本書紀によると、継体天皇の即位から間もない512年に、このような日本の弱体化を感じた百済は、半島の西南部にある任那の4県の割譲を願いでてきた。これは現在の全羅南道の大半を占める広大な地域である。百済は、5世紀以来、高句麗の圧迫を受けて、475年には首都漢城まで奪われており、南の熊津に遷都する状況になっていた。そこで北で失ったものを南で取り返して、国力を維持しようという政策をとり始めたわけである。
 これらの国際事情は後で述べることにして、継体天皇のその後について述べる。

 ▲継体-欽明天皇の紀年の乱れのナゾ
 考えて見ると「継体」(=後に体制をつなぐ)天皇という名前自体がフシギである。
 日本書紀によると継体天皇は、531年(継体25年辛亥)崩御になり、安閑天皇が翌年1月に即位されたことになっている。
 日本書紀によると、532年に安閑天皇、535年に宣化天皇になり、539年に欽明天皇になる、とされてきた。ところがこの532-539年の7年間が、史料によりその間の天皇の名前や紀年が異なり、ナゾに包まれていて、既に江戸時代に本居宣長などによってそれが指摘されていたほどである。

 この継体・欽明朝における紀年上の錯乱を初めて学問的に取り上げたのは、法隆寺などの研究をしていた平子鐸嶺氏であった。彼は明治38年に「史学雑誌」に「継体以下三皇紀の錯乱を弁ず」という論文を書き、「古事記」と「日本書紀」の紀年の違いなどから、日本書紀の記述の不信を提起した。

 さらに平子氏の問題提起を受けて、歴史学者の喜田貞吉氏が、昭和3年に「継体天皇以下三天皇皇位継承に関する疑問」という在来の文献を精査した論文を「歴史地理」誌に発表した。この平子、喜田の2論文を通じて、日本書紀の錯乱の背景には、どうやら古代の「皇室内に何らかの重大なる事変があった」(喜田貞吉)らしいことが分ってきた。
 しかし戦前の日本において、この種の研究は皇室史に関する微妙な問題を含むために、発表は勿論、研究の続行さえ困難であり、それらのナゾは全面的に戦後に持ち越された。

 戦後になり、この喜田貞吉氏の労作をさらに進める研究が林屋辰三郎氏により行なわれ、昭和27年に「継体欽明朝内乱の史的分析」という論文として「立命館文学」に発表された。
 この林屋氏の研究は、継体、欽明朝に於ける紀年の不整合は単なる錯乱ではなく、そのかげに2朝の並立、倭国内乱という大変な事実が隠されていた可能性を明らかにした。

 この論文が発表されてから半世紀、内乱の裏づけとなる新史料は発見されていないが、継体天皇の崩御の後、欽明天皇即位につながり、安閑、宣化天皇の段階では南北朝時代のような2朝並立という段階があったらしい、ということが、大方認められてきた。
 2朝対立ということは、当然、それを支える豪族の対立ということであり、それを見ると全体の筋書きが読めてくる。それを図表-1にあげる。

図表-1 天皇と豪族の変転
天皇 大臣 大連

継体天皇

巨勢男人

大伴金村、
物部麁鹿火

安閑天皇

巨勢男人

大伴金村、
物部麁鹿火

宣化天皇

蘇我稲目

大伴金村、
物部麁鹿火

欽明天皇

蘇我稲目

物部尾輿


●豪族の盛衰と仏教伝来

 図表-1は、非常に面白い表である。大臣の巨勢氏には恐らく政治的実権はなく、天皇擁立の立役者は先ず第1に大伴金村であった。彼は武烈天皇により絶えた皇統を復興するために活躍して、オホト王を擁立して継体天皇を実現させた最大の功績者である。
 大伴、物部は、神武天皇以来、天皇家を支えてきた最有力の豪族である。かれらのほかにも葛城,平群、などの勢力が衰えていくなかで、最後に残る民族系の軍事、祭祀をつかさどる旧勢力の代表であった。

 これに対して、蘇我氏は渡来系の豪族で、大蔵などの経済を中心に勢力を伸ばしてきた新興勢力である。これが仏教のような国際思想・技術の導入と結んで、民族系の豪族を排除して自分の勢力を獲得していく過程が、継体-欽明帝の間で見事に現われていることが分かる。

 ▲大伴金村
 オホト王(=継体天皇)の擁立を最も積極的にすすめたのは、武烈天皇の前代から大連の地位を占めていた名族の、大伴金村であった。大伴氏は、5世紀後半における雄略天皇のときには、大伴室屋大連(おおむらじ=律令以前の最高官)となり、それ以降、朝廷の最高位にあって天皇の政治を助けていた。まさに河内王朝の中心的な豪族であった。

 継体天皇が大和へ入ったのは、即位後20年をへた526年であった。ところがその翌527年に、九州筑紫の国造で、オオヒコノミコト5世の子孫という磐井が、筑前、豊後の一帯を根拠地として大きな叛乱を起こした。この叛乱は新羅と連絡をとっており、国際的連帯をもつ大規模なものであった。
 大伴金村は、同じく大連の物部麁鹿火(あらかひ)と相談して筑紫に軍を送り、528年冬11月、大将軍アラカヒとイワイは、筑紫の御井郡で「旗鼓相望み、埃塵相接ぎ、機はかりごとを両陣の間にきめて、万死の地を避けず」といわれるほどの激戦を展開し、遂に磐井が殺されて鎮圧は成功したことは前に述べた。

 ▲物部氏
  大伴氏に並ぶ古代の名門氏族である物部氏の祖先は、天磐船に乗り天上から河内国へ天下った、ニギハヤヒノミコトである。河内のニギハヤヒの子孫は、天皇家の伴造(トモノミヤツコ=皇室所有の部を統率・管理した中央の豪族)となり、大伴氏とともに宮廷の警備にあたってきた氏族である。

 大伴氏が、大伴部・久米部の兵士を率い、近衛の隊長の役割を果たしたのに対して、物部氏は宗教的、祭祇的な役割を果たしていた。大和朝廷が、全国統一の過程で収得した武器の収納庫が三輪山の近くにある石神神宮であり、その武器庫の管理者も物部氏であった。

 その立場から、物部氏は日本古来の宗教、祭祀と異なる蛮神=仏教の導入には当初から反対の立場をとっていた。日本書紀によると、仏教公伝の際、欽明天皇は非常に喜びながらも、自分では結論をださずその是非を群臣に諮問した。この諮問において、仏教の導入に大臣・蘇我稲目は賛成、大連・物部尾輿と中臣連鎌子が反対の立場を表明した。

 中臣氏は、藤原鎌足につながり、鎌足の子孫は後に天皇家を支える豪族の中心になる。担当する職務領域は、物部氏と同じ神祇、祭祀である。物部氏と異なり、蘇我氏と同様に渡来系の部族と考えられており、蘇我氏が百済であるのに対して、新羅系という異端の流れから出発している。本来、仏教の導入には物部氏とは違う立場と考えられるが、物部の次の時代における自分たちの立場を考えて反対の立場をとったとも思われる。

 ▲蘇我氏の登場
 仏教伝来を利用して、古代の日本において権力の中枢に進出してきたのが、渡来系豪族の蘇我氏である。その蘇我氏の出自を簡単に述べる。

 蘇我氏は、百済の木氏の流れを汲む「韓人」の一族といわれる。蘇我氏の本宗家の系譜は、「蘇我・石川氏系図」によると、第8代孝元天皇の息子の大彦命から建内宿禰につらなる。建内宿禰には子供が9人あり、それらが古代の豪族の祖となるが、その1人に蘇我石川宿禰があり、これが蘇我氏の祖である。つまり、蘇我石川宿禰の後裔としての蘇我本宗家は、満智宿禰―韓子宿禰―高麗―稲目大臣―馬子大臣-蝦夷―入鹿と続く。

 上記の系譜はどこまで史実か分からないが、このうちの蘇我氏の祖といわれる石川宿禰の出自は、何であろうか?
 応神天皇25年条に、蘇我満智とみられる人物が登場する。百済の直支王が亡くなり、若い皇子が王になったので、大倭の木満致がもっぱら国政を取りしきったとする記事がある。この大倭の木満致はいろいろな醜聞があり、天皇はそれを聞き呼び戻した。この大倭の木満致は、百済記によると、日本と朝鮮を往復しながら百済の国政に参加していた人物のようである

 さらに、百済記によると、木満致は百済の将軍であった木羅斤資が新羅に遠征したとき、新羅の婦人と結婚して生まれた子供であるといわれる。父親の功により任那(加羅)に本拠を置き、百済と倭国を往復しながら、百済の政治を助けていた国際的な政治家であった。
 文定昌氏によると、木氏は百済の有名な8姓氏の1つといわれる。その意味で蘇我氏の出自は、大倭の木満致というものの、さらに遡ると朝鮮の加羅、任那から渡来した「百済木氏」の一族と考えられる。その文定昌氏の「日本上古史」による蘇我氏の系譜をまとめてみると、図表-2になる。

図表-2 蘇我氏の系譜
名前 出典

第1代

木羅斤資

神功49年紀

第2代

木満致

応神25年紀

第3代

蘇我石川宿禰

応神3年紀、敏達13年紀 

 

葛城襲津彦

応神14紀

第4代

蘇我満智宿禰

履中2年紀

第5代

蘇我韓子宿禰

雄略9紀

第6代

蘇我稲目大臣

宣化元年・欽明紀中

第7代

蘇我馬子大臣

敏達・用明・崇峻・推古紀中

第8代

蘇我蝦夷大臣

舒明紀

第9代

蘇我入鹿大臣

皇極、孝徳紀

 ▲蘇我・物部戦争と蘇我氏による権力の掌握
 図表-1からわかるように、欽明天皇の治世下で、仏教導入を背景にした新しい国家経営への過程で、新しいキング・メーカーの地位を目指した大臣・蘇我馬子は、用明天皇2(587)年秋7月、泊瀬部,竹田、厩戸、難波、春日の諸王子を味方につけ、朝廷の最有力氏族を殆ど組織することにより、大連・物部守屋に対して戦いを挑んだ。
 物部氏は皇祖以来、武をもってなる一族であり、書紀の記述によれば、大連・物部守屋、自身が軍を率いて4ヶ月にわたる激戦が展開された。馬子の軍も、守屋軍の猛攻を恐れて、3度退却したとある。このとき、14歳で戦いに参加した聖徳太子が、ヌリデの木で四天王の形を作り、髪にさして戦い、勝利をおさめた。それが後に四天王寺の建立に到る有名な話が記されている。この戦争に勝利したことにより、仏教の導入はきまり、蘇我馬子は法興寺を建立した。

 この蘇我・物部戦争は、蘇我馬子の勝利におわり、翌年、欽明天皇の子で、この戦争に参加した泊瀬部皇子が崇峻天皇として即位し、蘇我馬子は大臣になった。大連の地位は空位になっており、これで蘇我氏の天下が実現したことになる。このことにより蘇我馬子は、完全にキング・メーカ-としての地位を確立した。
 しかし書紀によると、崇峻天皇5年の冬10月、朝廷に山猪を献上したものがあった。それを見た天皇は、「何時の日か、この猪の首を切るように、いやな奴の首を切りたいものだ」といわれた。つまり天皇が、蘇我氏の意向通りにはいかないと分かった時、馬子は、東漢直駒(やまとのあやのあたひこま)を刺客にして、崇峻天皇を暗殺し、その日の内に倉梯岡陵に葬ってしまったといわれる。本当にそのようなことがあったのか? と聞きたくなるほど、短絡的な行動である。

 崇峻天皇崩御の後、後継者には、用明天皇の子の厩戸豊聡耳皇子(うまやとのとよとみみのみこ)、つまり「聖徳太子」、敏達天皇の子の竹田皇子、同じく敏達天皇の子の押坂彦人大兄皇子があったが、皇位には用明天皇の皇后であった推古天皇が、日本で最初の女帝として継いだ。
 そして聖徳太子は、皇太子のまま摂政として万機にあたることになった。ここから皇太子が事実上の統治権を行使し、天皇はそれを総攬する象徴天皇制に似た天皇による政治が発足した。

       593年、天皇は推古天皇、大臣・蘇我馬子、摂政・聖徳太子という古代政権ができあがる。ここで仏教導入をテコにしてキング・メーカーの地位にのし上がった蘇我氏は、最大の権力者となるが、聖徳太子を天皇に擁立できなかったところから、滅亡への道をたどることになる。




 
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