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(5)インドネシアの通貨危機 −スハルト「開発独裁」体制の崩壊

★インドネシア経済のあゆみ
●揺れ動く経済開発計画
 インドネシアは、人口1億5千万人、ASEAN加盟国の中で最大の人口と国土をもった国である。総人口の6割はジャワ、2割がスマトラに住む。

 1965年9月軍事クーデターにより共産党と軍部に依存したスカルノ大統領が失脚し、反共のスハルト将軍が大統領に就任した。共産党の消滅と共に、中国の影響力もなくなり、経済発展は「西側」の援助や投資に大きく依存することになった。

 65年までは「強い内向きの経済政策」であったが、1967年の第1次経済計画では、「緩やかな外向きの政策」にかわり、世界銀行やIMFなどの支援を受けて、食料の自給をすることが優先課題となった。67年に外資法、68年に国内投資法が制定されて外国企業と国内の民間産業による経済発展がはかられることになった。

 インドネシアは産油国であり、石油が重要な輸出品である。1970年代、原油価格は上昇し、アメリカの企業がインドネシアへの投資を再開したため、石油が増産され、輸出金額が増加した。このため74-81年にかけてオイル・ブームにより経済政策は、「内向きへ回帰」した。

 70年代後半期、石油収入を財源として国内の開発を促進する過大な計画が繰り返しつくられ、逆にインドネシア経済を危機に追い込んだ
 その中心が国営石油会社の「プルタミナ」であり、その総裁の野心のため対外債務が困難になり、石油収入は政府の歳入に組み入れられた。

 1970年代末の「第2次石油危機」の際も石油収入が増加したため、産業の「川上」(原材料供給部門)を強化して輸入代替工業を育成する野心的な計画がつくられたが、80年代に入ると、石油価格は反落し、経常収支は大幅な赤字になった。
 そのため83年には通貨ルピアの対ドル・レートを大幅に切り下げ、国営企業の多くのプロジェクトを延期したり、民間に移行したりする「構造調整」が行われた。

 80年代後半に経済が好転すると、再び国営企業の野心的な計画が登場し、86年から90年代にかけて再び「外向き政策」へ移行した。そのため新たな「構造調整」が必要になっていた。
 
 インドネシアの工業化政策は、長い間、「輸入代替」指向であったが、国内産業保護の立場から高い関税がかけられており、そのため工業製品の価格は高く、競争が阻害され、効率は悪かった。
 国内市場は潜在的に大きかったが、所得水準は低く、市場の規模は容易に拡大しなかった。

●輸入代替産業から輸出指向産業へ
 80年代の「構造調整」を通じて、ようやく「輸入代替」から「輸出指向」への転換の可能性が見えはじめ、83年と86年にルピアの対ドル・レートが大幅に切り下げられ、工業製品の輸出がようやく可能になった。86年に輸出産業に対する輸入自由化措置が取られて、ようやく輸出産業は原材料を輸入できるようになった。

 87年には輸出における石油の比率が50%を切り、92年には30%まで落ちた。そして87年以降、輸出生産拠点としてのインドネシアへ投資を急増し始めていた。
 しかしインドネシアでは、金融市場が未発達で非効率だったため、国内の金利水準が海外に比べて恒常的に高い状況にあった。

 為替管理は70年代に撤廃されており、対外借入が自由であったため、銀行のみならず民間企業も海外から積極的な外資調達を行い、それをルピアに換えて国内での貸し出しや事業資金に当てることができた。つまり、外資を扱うと非常に美味しい商売ができる事業環境が出来上がっていた。

 そのためインドネシアの民間対外債務は膨れ上がり、96年の対外債務残高は1290億ドルという巨額なものになり、しかもその半分以上は短期性の債務であり、97年に返済期限を迎える金額は300億ドルを超えていたといわれる。しかもドルに対して除々にルピアが減価する為替制度(クローリング・ペッグ制)をとっていたため、為替相場が急激に変化するリスクは小さく、外資借り入れに対する予約などによる為替のヘッジ率も低かった。

 対外債務が順調に処理されているうちは外貨の資金繰りに支障はないが、一挙に危機が表面化する前提条件が、90年代の後半に出来上がっていた。

★インドネシアの通貨危機
●最も深刻・長期化した通貨危機
 インドネシアは、タイ・バーツが下落した段階では、それほど問題が表面化していなかったため、当初、事態はあまり深刻には考えられていなかった。
 しかし結果的に、インドネシアの通貨危機は、一連のアジア通貨危機の中で、通貨の暴落の大きさ、暴動の激しさ、そして期間の長さにおいて最もはげしいものになってしまった。その経過を次に見る。

 インドネシアは、97年7月に通貨ルピアの対ドル変動幅を上下4%から6%に拡大し、更に8月14日に変動幅制限を廃止して、変動相場制に移行した。
 この頃から通貨ルピアの値崩れが始まり、1ドル2600ルピアであった為替レートは、8月18日に3000ルピアに暴落した。

 9月3日に、インドネシア政府は、10項目からなる経済・金融健全化対策を発表した。その内容は、輸出促進、輸入削減、歳出と債務の削減、政府・民間の大型プロジェクト延期からなっていた。

 インドネシアの危機への対応は早かった。10月8日にはIMFは、インドネシアの構造改革路線を承認し、支援要請は受入れられた。その日に1ドル、3662ルピア、外貨準備は200億ドルになった。
 
 10月31日にはIMF,世銀、アジア開銀による180億ドル融資、インドネシア政府緊急準備金から50億ドルなど230億ドルの金融支援が発表され、更に第二線準備としてわが国の50億ドルを含め162億ドルを越える支援が決まり、当初はこれで危機への支援体制は十分と思われていた。

●問題があったIMFの融資条件
 問題は、IMFがインドネシアに対して融資条件(コンディショナリティ)として課した厳しい経済改革プログラムにあった。そこでは、 インドネシアの財政は黒字なのに、プログラムは16銀行の閉鎖などを含む抜本的な、性急すぎる金融再建策が提示され、これがインドネシアの金融、経済システム崩壊の引き金を引くことになった

 インドネシアに対する支援額は、次のようになる。

IMF 100億ドル
世銀 45億ドル
アジア開銀 35億ドル
その他 50億ドル
230億ドル
日本 50億ドル
その他 112億ドルを超える
第2線計 162億ドルを超える

 1次産品の輸出に依存してきたインドネシアでは、もともと金融市場が未発達かつ非効率であり、国内の金利は海外に比べて恒常的に高い状況にあった。其れにも拘わらず、政府は70年代に既に為替管理を撤廃しており、対外借入が自由であったことから、銀行のみか民間企業も海外から積極的に外資調達を行い、それをルビアに転換して国内での貸し出しや事業資金に当ててきた。

 そのためインドネシアの対外債務は膨れ上がり、96年末の対外債務残高は1290億ドルに上っていたしかもその半分以上が短期債務であったが、ドルに対して徐々に減価する為替制度をとっていたインドネシアでは、為替相場が急激に変動するリスクが少ないため、外資借り入れに対する予約などによる為替のヘッジもとられていなかった。

 これらの状況は、対外債務が順調に処理されているうちは外資繰りに支障はないが、一部の債権者がインドネシアへの危機の波及を懸念したため、急遽、債務返済にせまられ、外貨が不足してルビアが急落することになった。

 そこへIMFとの合意に基づき、セーフティネットもなしに16銀行閉鎖したため。インドネシアの金融システムは一挙にパニック状態になり、金融、経済システム崩壊の危機にさらされた。

 11月2日、 IMFとテクノクラートの構造改革が政権の基盤をゆるがすことに反発したスハルト大統領は、IMFとの間で廃止に合意していた15プロジェクト復活を決め、その内の2発電所については即日実施した。このことにより、インドネシアの金融・為替市場は、更に大混乱に陥った。
 ルピア急落し、インドネシアの居住者は資金をシンガポールへ移動したり、または米ドルで保有する防衛策を講じ始めた。この時点でIMFによる第1次改革は、崩壊した

 98年1月26日、通貨危機の前までは1ドル、2,500ルピアであったレートは、12,950ルピアまで下がった。このため、ドル建ての債務が多いインドネシアの企業は、軒並み破産状態となり、インドネシア経済は機能停止、壊死状態となった。
 この段階で、1月15日、インドネシアはIMFによる修正支援プログラムに合意した。

 98年3月の大統領選挙でスハルトは7選されたものの、政治不信は高まり、各地でデモや暴動が頻発した。インドネシア政府のIMFプログラムの実施への不信が高まる中で、3月、橋本首相がジャカルタを訪問し、その後にIMFとの協議が進展して合意に至ったが、5月に入ると、ジャカルタに暴動が起こり、5月21日にはスハルト大統領は辞任に追い込まれ、通貨危機は経済危機から政治危機に発展した。

★通貨危機による政治体制の交代
●スハルト政権の崩壊からメガワティ政権まで
 98年5月、スハルト政権の崩壊に伴い成立したハビビ政権は、スハルト一族や側近を排除し、政治犯の釈放、言論・結社の自由、金融再編などの改革を進めたが、経済再建の成果は挙げられなかった。

 99年10月ワヒド政権に代わり、更に、2001年7月、ワヒド大統領は罷免され、メガワティ大統領が就任した。
 メガワティ大統領は、初代大統領スカルノの長女で、99年選挙で第一党になった闘争民主党の党首である。メガワティは、スハルト体制末期から改革のシンボルとして知られ、同氏の大統領就任は、インドネシアの本格的再建のスタートとして受け止められた。

●メガワティ政権下のインドネシア経済
 メガワティ政権の発足とともに、遅れていた経済回復もようやく進みつつある。01年以降、ASEAN諸国の成長が減速する中で、メガワティ政権は経済閣僚にエコノミストを起用し、IMFなどとの対外経済関係を重視した政策が進められている。
 02年4月には、日本、アメリカなど先進国政府で構成する主要債権国会議(パリ・クラブ)と債権繰り延べ交渉が成立した。これによって、経済回復の足かせになってきた対外債務問題にも目途がたちつつある。

 実質GDPは、まだ危機以前の水準を回復していないが、2000年以降の実質成長率は3-4%を維持しており、個人消費を中心とする内需はゆるやかな拡大に向かっている。
 しかし一方で巨額の財政赤字は依然として大きくGDPの3%以上を占めており、対外債務残高も依然として高水準にある、など、問題は多いが、貿易収支、経常収支共に大幅な黒字であり、98年には58.5%を記録した物価の上昇率も11%程度に下落している。

 ただ海外からの直接投資は、98年以降、依然として低迷している。02年4月、主要先進国による債権者会議は、メガワティ政権の経済改革の進展を評価して、インドネシア向け債権で02-03年に期限がくるものについて返済の繰り延べに合意した。




 
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