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日本人の思想とこころ
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1.日本の首都はどこへ行く?−東京の改造と遷都問題の行方
2.江戸時代の首都は多機能であった!
3.「愛国思想」―森鴎外風に考えてみる!
4.極刑になった「愛国者たち」―2.26事件の顛末
5.歴史はミステリー(その1) −日本は、いつから「日本」になった?
6.国際主義者たちの愛国 ―「ゾルゲ事件」をめぐる人々
7.歴史はミステリー(その2) −4〜5世紀の倭国王朝
8.歴史はミステリー(その3) −聖徳太子のナゾ

9.歴史はミステリー(その4) −福神の誕生
(1)祟り神・オオクニヌシ
(2)オオクニヌシ神の大黒天への転身 ―祟り神から福の神へ
(3)エビス神の誕生
(4)七福神の誕生

10.歴史はミステリー(その5) −「大化改新」のナゾ
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  9.歴史はミステリー(その4) −福神の誕生

 オオクニヌシ神は、戦前の小学唱歌で「大きな袋を肩にかけ、大黒様が来かかると、・・・」とうたわれ、七福神を代表する「大黒天」として祭られてきた。ところがこの大黒天という神様は、もともとはインド仏教の守護神で「摩訶迦羅(Mahakala)と呼ばれ、この歌とは全く違う恐ろしい形相をした戦いの神であった。

 一方、わが国のオオクニヌシ神も、天皇族に対する「国譲り」により出雲国を奪われ、祟り神になった恐ろしい神であった。つまりインドでも日本でも、ともに恐ろしい神であった2神は、なぜか一転して福の神になり、ふくよかな顔、白い服に大きな袋を肩にした大黒天=オオクニヌシになった
 どうしてそのようなことが起こったのか? まことに国際的にもミステリアスな話といえる。

(1)祟り神・オオクニヌシ

●日本の古代では、出雲の方位=西北・乾(いぬい)は鬼門より恐れられた
 迷信を軽蔑して、地相・家相などについて、ほとんど知らない日本人も、自家を建てるときに最も気にするのが「鬼門」である。鬼門とは東北の方位であり、出典は中国の古代の地理書「山海経」の逸文にあったといわれる。

 その内容は、中国東方数百里に度索山という山があり、その山上に枝が三千里も伸びた桃の大木がある。死者の魂がそこの門を出入りしたという。この門が「鬼門」であり、天帝はこの門を2人の神僕に護らせ、出入する幽魂を検閲させた。この同じような話は、BC2世紀頃の「神異経」にもあるが、ともに中国の俗書にすぎない。

 このように鬼門の出典は、中国の俗書にすぎず、中国では、日本と全く逆に「東北の方角は神明の舎(やどり)」(史記)で神聖な方位とされていた。つまり鬼門の禁忌は中国から来たものではなく、日本独特の風習のようである。
 鬼門が日本で特に恐れられるようになったのは、平安朝頃からである。平安京では造都にあたり、都の鬼門鎮護のために比叡山延暦寺が作られた。この伝統は江戸時代にも残り、江戸の造都にあたっては、鬼門鎮護の寺として東叡山寛永寺が建立された。つまり鬼門信仰は、日本では平安朝から現代まで続く根強い迷信である。

 ところが平安朝以前の時代には、日本では東北(=鬼門)ではなく、西北=乾の方位が恐れられていた。不思議なことに鬼門が全盛であった江戸時代には、「巽張り出し、乾倉」といって、西北には倉を作り、東南に張り出しをつくることが家運上昇の吉相とされていた。そこでは恐ろしい方位であった西北が神聖な方位になっていた。

 この恐ろしい方位である「西北位」の「戌亥信仰」については、三谷栄一氏の『日本文学の民族学的研究』(有精堂)に詳細な研究がなされている。それによると、西北(戌亥)から吹く風は、日本海側では若狭から青森にかけて「タマカゼ」、近畿以西では「アナジ」と呼ばれて、「悪魔の吹かせる風」として古来恐れられたといわれる。

 一方の中国では、西北位は祖先霊の静まる貴重な方位として大切にされてきた。史記の「律書」によると、「戌」とは万物が尽き果てて滅びること、「亥」とは、「該」(おさめる)という意味であり、陽気が地下に伏し隠れることを意味している。つまり西北は、先祖霊が静まり、万物が尽き果て、宝ものを貯めこむ豊かな方位であった

 大和の西北には、オオクニヌシ神が支配する出雲があった。オオクニヌシ神の経営により創られた豊かな国土は、出雲、近畿、熊野の広域に及んだが、その中心地は出雲地方であった。
 その出雲王国が所謂「国譲り」により、大和のアマテラス族の勢力下に入り、大和国家に併合された。そのため、国を奪われたオオクニヌシ神は大和朝廷にたたる恐ろしい「祟り神」になった。そのときから大和の西北にある出雲の方位は、祟りのある恐ろしい方位になったと思われる。
 
 祟り神の事跡は、日本書紀にいくつも記されている。たとえば、崇神天皇のとき、それまで朝廷内に並祭されていきたアマテラス神とオオクニヌシ神は、祟りが続いたため分祇された。それでもなお祟りはやまず、ミコのヌナキイリヒメは、「髪は落ち、体は痩せ細り、祭り」も出来なくなった。更に垂仁天皇の王子ホムツワケも、出雲大神のたたりで口がきけなくなった。この恐ろしい祟り神・オオクニヌシの出雲が、大和地方の西北に当たっていた。

 この祟り神オオクニヌシが、なんと平安時代ころから一変して福神になった。それと同時に、西北の方位は神聖な宝倉の方位に転化して、一方の東北は一転して「鬼門」という恐ろしい方位になった。
 この方位の大転換は、まさに歴史的ミステリーである。

●オオクニヌシの神とは?
 オオクニヌシの神は、出雲神話の中心をなす大神である。その名は非常に多く、オオモノヌシ、オオムナチ、アシハノシコオ、ヤチホコ、ウツシクニタマなど、たくさんの名前がある。
 神系譜によると、スサノオ神の子とも6世の孫ともいわれ、号であるオオムナチ(大己貴神)とは、「多くの国をもつ神」、つまり「地主神」を意味している。また「大国主神」の名も「大国をおさめる神」であり、古代において天皇族を脅かす最大の部族国家の王=大地主神であった。そのため普通名詞の「地主神」と混同される場合も多い。
 上にあげたオオクニヌシのたくさんの名前は、すべてアマテラスに並ぶ日本国の大地主神であることを示している。「二十二社 註式」によると、オオクニヌシの7つの名前は、次のような意味を持っているという。
    大国主命    世界之主
    大物主神    万物之主
    国作大己貴命 造作国土而我為貴(国土を造作し、我、貴と為る)
    葦原醜男    世界荒鬼神
    八千戈神    九万八千軍神
    顕国玉神    顕露造国土也
    大国玉神    世界人民之魂魄
 
 これらの名前とその意味は、オオクニヌシ神が世界、万物を造作した神であり、軍神、地主神、人類の魂の中心にいる神であることを物語っている

 この大国の王であるオオクニヌシ神が、覇を競っていた天皇族の要求に応じて国を奪われた。その過程は日本書紀巻二の一書第二に詳しく述べられている。
 この「国譲り」により、顕界(=生者の世界)の政治は、アマテラス神の子孫が治めることになり、オオクニヌシ神の子孫は、幽界(=死者の世界)の神事をつかさどることになった
 
●封じ込められた出雲大神と鎮魂
 国譲りの結果、オオクニヌシ神は出雲大神として天日隅宮にねんごろに祭られた。
 その結果として建立された出雲大社(=天日隅宮)の建築の寸法体系は、アマテラス神の伊勢神宮(内宮)がすべて生を意味する陽(奇)数で作られているのに対し、すべて死を意味する陰(偶)数で作られた
 
 出雲大社の社伝によると、本殿の高さは、上古では32丈(=4×8)、中古では16丈(=2×8)、その後は8丈(=1×8)であり、すべて陰数である。
 また平面型で見ると、宝治2(1248)年以降に規模を縮小した仮殿式本殿では、28尺(=4×7)四方と推測されており、柱間は14尺(=2×7)である。慶長14(1609)年の豊臣秀頼による造替では32尺(=4×8)四方であり、柱間は16尺(=2×8)であり、見事に陰数で作られている

 なお現在の本殿の平面は、36尺(=4×9)四方、柱間は16尺(=2×8)であり、規模が大きくなるに従い、8を超える9の倍数が取られている。陰陽五行では、8が最高の数であり、9はその最高数を超えた貴数となり、最高の規模であることを示している。

 建築の平面計画も不思議である。神社の神殿は、通常、南に開いた「平入り」の形をとるのが普通である。しかし出雲大社では神殿とは異なり、住宅風に南面が出入口として作られた
 住宅の中へ入ると内部は住宅の田の字プランになっており、さらに驚くことは、神座が東北隅(=鬼門位)に、西向きに置かれていることである
 神社の神殿の神座は、通常、南向きに配置されており、出雲大社のように神座を忌むべき鬼門位に西向きに配置することは、原則的にありえないことである。
 
 この神座の配置は、伊勢神宮における内外宮の「火と水の3合」に対して、「西の三合」と呼ばれるものであり、新しい生命が生まれないことを意味している。(長原芳朗「陰陽道」東洋書院)
 つまり出雲大社の神殿は、オオクニヌシ神の幽宮としてそこに祭られる神の再生を否定する建築物であったことがわかる。つまり伊勢神宮が「生者の舎」であるとすれば、出雲大社は「死者の舎」として作られた




 
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