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日本人の思想とこころ
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  (3)エビス神の誕生

 オオクニヌシ神=大黒様は、さらに、次の福神・エビス神とともに1対の福神「エビス・ダイコク」として室町時代頃から福神信仰の中心に据えられることになった。このエビス神は、インド仏教とは全く関係のない日本の神である。
 しかし夷(エビス)とは外国人を意味する言葉であり、本来は外国から移り住んで幸を齎す客神(まれびと)であったと思われる。柳田國男氏の研究の中にも、エビス神は言葉が分らないので、大きな音をたてて呼び出し、願い事をするといったことが書かれていた記憶がある。
 つまり日本生まれの外人神のようであり、後には、オオクニヌシ神の子神のコトシロヌシがあてられ、商都・大阪の今宮戎神社にまつられて、エビス信仰という新しい福神信仰が生み出されるという不思議な経過をたどる。

●コトシロヌシ神は、恵比寿(エビス)神になり、夷三郎殿になった!
 つまりもともと、エビス神もダイコク神も、出雲の神々とは全く異なる神であった
 エビス神の出自にはいろいろある。まずイザナギ、イザナギ神から生まれた水蛭子(ヒルコ:古事記)が、葦舟に乗せられて流されたのが、摂津国・西宮に流れ着いたとする説である。
 この蛭子神を西宮の土民が養い奉じて、夷三郎殿と号した。この夷三郎大明神を祭ったのが、大阪の西宮夷神社(現在の西宮神社)であり、漁業の神、市場の神、商業神となった。

 一方、出雲のオオクニヌシの親神であるスサノウ神は、蒼海を治める神として日本紀に伝えられている。その孫のコトシロヌシ神は、美保で魚釣りを愛好し、国譲りの時にも、出雲国の美保ケ崎へ釣りに出ていたといわれる
 このことから、漁民航海者の信仰を集め、航海の安全、漁民の守護神であるエビス天として祭られることになり、さらにここから、コトシロヌシ神は、摂津西宮に夷(えびす)神として祭られるようになった。
 コトシロヌシ神は釣り好きであり、片手に釣り竿を持ち、大鯛を小脇に抱えるとエビス・恵比須神像が出来あがる。これによりオオクニヌシの兄弟神は、ダイコク・エビス神に転身することになる

 西宮の夷社には、もともと三郎社というのがあったらしく、本来、別々であったエビスと三郎が一緒になり、鎌倉時代以降には、「夷三郎殿」という祭神が出来上がってきた。
 コトシロヌシ神は、ここで「夷三郎殿」になった。現在、日本各地にある夷神社が何時から祭られているのかその実態は不明であるが、厳島の夷社は確かに平安朝以降のものであり、石清水、東大寺、竜田、日吉、北野などの夷神社も、平安末期から鎌倉初期に勧請されたものと思われる。
 摂津の西宮にエビス神が祭られるようになったのも平安末期といわれる。しかしこの段階では、夷社と三郎殿は別々であった。鎌倉時代に入り、両方が入り混じり始め、江戸時代には完全に一体化していったようである。(喜田貞吉「夷三郎考」、以下も同書)

 神代史上で魚に縁のある神は、コトシロヌシ神とヒコホホデミ神の2柱しかない。しかも三郎という名前から来る3男という条件では、コトシロヌシ神しかない。
 コトシロヌシ神は、祖父スサノウ神が海原を治める神であり、祖父神以来、海に縁がある家系である。しかもコトシロヌシ神は、美保の崎に魚を釣るを以って業とす、といわれ、国を天孫族に譲ってからは、海中に「八重蒼柴垣」を造って「船竅v(ふなにへ)を踏んで去り、海上の神になったとされている。

●福神として信仰された出雲の神
 神代においてオオクニヌシもコトシロヌシも、共にニコニコ顔の福神のイメージとは遥かに程遠い武神で戦闘の神であった。それが室町時代の中期ころから、まず京都を中心にどこの家にもエビス、ダイコクの木像が飾られ、祭られるようになった。さらに、それは江戸時代に入ると関東に広まった。いわゆる福神信仰である。
 
 この流行の中で、出雲のオオクニヌシ神は福神のダイコク様に、コトシロヌシ神は同じく福神のエビス様になった。これらの祭神は、それを祭る人々に必ずしもよく知られていたわけではなく、従来は寺院のみに祭られていた神像が信者に頒布され、それを受けた人が自宅の神棚に安置して、朝夕祈願を行なったものと思われる。

 「八幡宮神社記」建久3年の鶴岡の勘文に曰く、「三郎殿、月読命・蛭児・素盞鳴尊。是れ広田の西の宮の三殿是れなる也。
    大国主神
    事代主神 これを恵比須という也。
 もともとは夷と三郎が並んでいたものを、大黒天(=大国主神)と夷天(=事代主神)が並んで祭られるようになった。

 ダイコクとエビスのあい並んだ偶像画幅が盛んに信者に頒与せられ、あるいは叡山の大黒天と西の宮の夷神とを取り合わせて、遂には「一家一舘に之を安置せずということなし」といわれるまでに、大国・夷の二信仰は広がりを見せ、2福神の対立並祇は七福神の成立前に既に立派に出来上がっていた。(喜田貞吉「大国・夷二福神並祇の由来」)

 大和の大三輪神社における江戸時代の案内書「大三輪社略縁起」(19世紀はじめ?)も、福神のことに触れている。
 「我国にて大黒神と申は此大国玉尊をいうなり。恵美須の神と申も、此神の御児、事代主の神を申奉る、諸家の幸福神とはこの2神を号す、即ち三輪初市の祭神なり。」(大神神社史料,第1巻、資料編)

(4)七福神の誕生

 平安時代までの仏教は貴族を中心にしたものであり、死後に阿弥陀浄土への転生を願うものであった。しかし平安中期以降に登場してきた民衆仏教は、この世での幸福の実現を求めていた。これが福神信仰である。
 室町時代に、エビス・ダイコクの福神信仰が成立した。家々には、エビス・ダイコクの神像が並べて祭られるようになり、各地の福神を祭る寺院が繁盛するようになった。
 室町末期の「塵塚物語」には、次のようなことが書かれていて、その流行の様子が分る。
 「或る人が言うには、ダイコクとエビスを一対にして木像を造り、絵に描いて富貴を祈る守り神としている。世間では、世を挙げて、どこの家にもこれを安置する様になった。(後略)」

 室町時代には、類を集めて名数的に物を数えることが流行った。例えば、幕府の職制に三管領、四職、寺院の格式に五山、十刹、近江八景、奈良八景などというのがそれである。神仏に対しても三所明神、五社明神、七社、七観音、などというのがそれである。なかでも33箇所観世音霊場から、7所を選んで巡拝することなどが流行った。
 このような風潮の中から、竹林の七賢人にならって、七福神が成立した。

 樋口二葉「七福神の研究」(歴史地理・100号記念号)には、延徳年間(1489-)、僧秋月の図として、鐘馗、大黒、福禄寿、布袋が小舟に乗って居る図があり、現在の七福神乗り合い宝船の濫觴としている。(喜田貞吉「前掲書」80頁)

 江戸時代には、それまでは京都が中心であった七福神信仰が江戸に及び、江戸でも七福神詣でが始まった。「東都歳時記」の七福神詣でには、
    大国神・恵比寿 −神田社地あるいは上野清水堂の傍
    弁天       −不忍池中
    毘沙門      −谷中天王寺
    寿老人      −同所裏門前、長安禅寺
    布袋       −日暮里
    福禄寿      −田畑西行庵
があげられている。最後に七福神の本地などを図表-1にあげる。
  

図表-1 七福神の本地と所在地(東京周辺)
福神名 ご利益 本地 所在地(東京周辺)
大黒天神 福財の神 インドの闘戦神、オオクニヌシ神 上野 護国院、神田明神、三囲神社
エビス天 商業の守護神 コトシロヌシ神 日暮里、青雲寺、三囲神社、上野護国院、神田明神
弁財天 福財の神 本来はインドの土着神、竜神 江の島の岩本院、上野不忍池畔、向島の長命寺
毘沙門天 仏教の守護神、福財 四天王の1仏の多聞天 愛宕山の主神、谷中の天王寺,向島の多聞寺
布袋 大人物になり、子宝に恵まれる 弥勒菩薩の化身 谷中の長安寺?、向島の弘福寺
寿老人 長寿,冨財、子宝、諸病平癒 本地はない、中国からの渡来神 谷中の長安寺
福禄寿 不死、長命 同上 田端の東覚寺



 
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