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日本人の思想とこころ
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1.日本の首都はどこへ行く?−東京の改造と遷都問題の行方

2.江戸時代の首都は多機能であった!
(1)3都に機能を分散した江戸時代の首都
(2)3都間のネットワークも巧みに活用された
(3)首都を支える地方都市の機能

3.「愛国思想」―森鴎外風に考えてみる!
4.極刑になった「愛国者たち」―2.26事件の顛末
5.歴史はミステリー(その1) −日本は、いつから「日本」になった?
6.国際主義者たちの愛国 ―「ゾルゲ事件」をめぐる人々
7.歴史はミステリー(その2) −4〜5世紀の倭国王朝
8.歴史はミステリー(その3) −聖徳太子のナゾ
9.歴史はミステリー(その4) −福神の誕生
10.歴史はミステリー(その5) −「大化改新」のナゾ
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  2.江戸時代の首都は多機能であった!

(1)3都に機能を分散した江戸時代の首都
 明治以来、日本の首都機能はすべて東京に集中して発展・拡大してきた。しかし面白いことは、明治時代以前の日本における首都の機能は、(1)皇居の所在地、(2)行政の中心地、(3)経済の中心地、の3つの都市に巧みに分散して配置されていた。そして更にこの3首都は、他の地方都市との間に機能的ネットワークを形成することにより、数百年の長きにわたりわが国の首都機能は安定的に維持されてきたように見える。

 江戸時代の首都機能の第一は、皇居の存在地つまり「帝都」である。江戸時代を通じて、それは京都にあった。
 第二の機能行政の中心地である。それは江戸時代には幕府の存在地の江戸にあった。ただし、幕府が担当した全国的な行政機能は軍事、外交が中心であり、内政機能の多くは各藩の自治にまかされてきた。
 第三の機能は、国民経済の中心地であり、それは大坂にあった。

 つまり江戸時代における首都機能は、京都=天皇の都、江戸=行政の都、大坂=商業の都の3都に分散され、その間に首都機能が巧みに分担されていた。

(2)3都間のネットワークも巧みに活用された
 江戸時代における京都、大坂、江戸の3都は、それぞれの町を中心にして全国的な金融、物流、情報、交通などのネットワークが巧みにつくられていた。
 そしてこの3都と地方都市の間が機能的に結ばれることにより、全国的な社会的ネットワーク・システムが構成されていた。
 そのしくみは、まさに当時の日本が世界に誇るべきものであった

●京都―象徴天皇制の中心都市
 京都は、桓武天皇により平安京への遷都が行なわれた794(延暦13)年以来、1000年の長きにわたり律令体制の中心都市であった。
 勿論、古代の律令制は平安末期から実質的な政治的意味を失っていたが、朝廷における古代からの形式的な官位制は明治初年まで継続して行なわれていた。
 この状況は、現代の象徴天皇制に似ており、日本人がその有効性に気付いたのは、尊王攘夷思想が盛んになった幕末になってからであった。

 その「象徴天皇制」については、神武天皇以来の公卿の官位任免を記録した「公卿補任」(くぎょうぶにん)という朝廷の職員録を見るとわかる。そこには、関白、左大臣、右大臣などという古来の官位の任免が明治元年まで連綿として行なわれてきており、象徴天皇制が1000年にわたり維持されていたことが分る。

 この朝廷による官位の任免は、政治的には殆ど意味を失っており、実質的には儀式に近いものであった。しかしそのことにより京都は形式的には政治の中心として存在していたことを示している。
 その状況は、現在、総理大臣が決めた大臣の認証式を皇居で行なっていることに似ており、その意味で京都は、長い間、現代に似た象徴天皇制の中心都市であったといえる

 京都は、地理的には北に山岳地帯を控えた要害堅固な地であり、更に、全国の主要都市と道路・水路のネットワークで結ばれていた。そのことは927(延長5)年に完成した「延喜式」に、既に「五畿・七道」として明確に規定されていることからわかる。

 「五畿・七道」とは、律令制における地方行政区画のことである。
 五畿とは、京都周辺に位置する畿内における5つの国々のことを指し、大和・山城・河内・摂津・和泉のことである。
 また七道とは、京都を中心とした「諸国」とそれに至る道をさし、東海道(関東)、東山道(信濃)、北陸道(越前)、山陰道(出雲)、山陽道(備前)、南海道(紀伊)、西海道(筑前)のことである。

 これらの国々はすべて京都との間に政治・交通・商業のネットワークを形成していた。また律令国家の防衛の観点からは、中国、朝鮮に対する防衛基地として太宰府が664(天智3)年に筑紫の地に設置され、東国の蝦夷地に対する防衛基地は802(延暦21)年に多賀城が現在の宮城県に設置されていた。

 関所は646(大化2)年以降、畿内防衛の観点から東海道鈴鹿、東山道不破、北陸道愛発(あらち)に設置され、その他にも駿河横走、相模足柄、上野碓氷,陸奥白河・菊多・衣川・出羽念珠などにも設けられた。
これらの「関(所)」の考え方は、その後も幕府・諸般に利用され、江戸時代には全国50箇所に及び、治安確保のために利用されてきた

 これらのことから京都は、古代から天皇制を防衛し、維持するための「帝都」として機能してきたことがわかる。
 しかし現実的な軍事・防衛機能―例えば、国内では関東以北の豪族たちからの軍事的防衛、中国、朝鮮その他の外国の侵略からの軍事的防衛,更には外交などの行政的機能は幕府が分担してきた。
 そしてその軍事・外交機能は鎌倉幕府以来、地理的に朝廷の勢力の及ぶ最果ての地である「関東」にその本拠を定めていた。それが関東の首都である鎌倉や江戸であったと考えられる。

●大阪―海上交通の要衝と商業・金融都市
 大阪は、古代から国内および海外との海上交通の中心都市であった。かつて「帝都」が大阪に置かれたこともあり、国外・国内との海上ネットワークは大阪を中心にして結ばれていた。
 鎖国政策をとった江戸時代には、外国との海上交通の窓口は長崎に移ったが、国内各地との海上交通の中心地として繁盛した。

 江戸時代には、米が商業における最も重要な商品であった。その米市場として、大阪は全国一の重要な位置を占めていた。大坂には各藩の蔵屋敷が作られ、産米は大阪に海路で輸送されて、ここで貨幣に換えられた。
 そのことから大阪は米取引と両替を通じて江戸時代の商業における物流と金融の中心地となった。

 豊臣秀吉は、大阪を政治・経済における天下統一の中心都市としてのみならず、朝鮮、中国への侵攻の軍事都市として発展させることを考えた。
 そこで織田信長に滅ぼされた石山本願寺の城下町を利用して本格的な街づくりを行なった。それが現在の大阪城を中心にした地域である。

 秀吉は、1583(天正11)年から大阪城の築城を開始し、船場・島之内のデルタを開拓し街区を整えた。東横堀川・天満堀川が掘削され、堺の商人が呼び寄せられ、天王寺、住吉、堺の3里の間に町屋ができた。さらに阿波座,土佐座もできて各国の商人が集まってきた。
 この秀吉による街づくりは、大阪夏・冬の陣により町が崩壊した後も徳川に受け継がれ、松平忠明が大名となり大阪を復興した。

 江戸時代初期に松平忠明は、大阪へ伏見京町の商人を招き、大阪の下船場に来住して京町堀(伏見堀)を開いた。このように大阪には堺、伏見、平野郷の商人に加えて、江州商人が加わり、江戸時代の商都としての基礎が作られた。

 大阪は、1619(元和5)年に松平忠明が郡山へ移ってからは、幕府直轄の「天領」となった。江戸時代は「米遣い経済」といわれ、米を中心にして全国の大小名に物納された貢租は、大阪堂島の米市場で貨幣に代えられた
 この堂島の米相場は、日本国中の標準相場になった。さらに米だけではなく大豆,塩,紙,蝋などの蔵物も売られ、大阪は「天下の台所」といわれ、「諸国融通取引第一の場所」、つまり江戸時代の商業の中心都市になった

 商品経済の発展と共に貨幣流通量も増加し、更に預手形、振出手形、為替手形や約束手形も行なわれるようになり、その関係から両替屋が発達し先物取引まで行なわれるようになり、大阪は江戸時代において内国経済では、世界の最先端の金融都市になっていた

 大阪の都市行政は、城代(=幕府直轄領において将軍に代わり政務をみる役職)が行ない、その下に町奉行、与力同心が治める形をとった。
 惣年寄(=江戸時代の調整機関、町奉行の下で調整一般をつかさどる)はある程度の自治権を持っており、また3郷はそれぞれ法人格を持っていた。そのため武士が支配する通常の藩とは異質の、商人勢力による自主性の強い町になった

 大坂では歴史的に常に時の権力=行政機能に一定の距離を置いており、民間の商人たちが独自の自治的な都市経営を行なってきた。そのため江戸時代においても幕府への忠誠より、町人の町としての奉仕志向を強く持っており、これが大阪の地域性を作ってきたといえる。

 その伝統は明治以降に受け継がれ、大阪の財界は東京とは異なる市場志向の強いことが特徴であった。しかし1960年代の高度成長期以降、大阪財界の独自性は急速に失われ、そのことが東京への一極集中を更に加速したように思われる。

●江戸―近世における軍事、外交、行政の中心地
 江戸の地名は、関東土着の一族である江戸氏からきている。その本拠の江戸館は、現在の皇居のあたりに築かれていた。1457(長禄元)年に、この江戸館の跡に扇谷上杉氏の家宰・大田道灌が、「江戸城」を築き、海辺の一漁村であった江戸は、大田道灌の築城により城下町、港町として賑わい、道灌の名も江戸城と一緒に関八州に広まった。

 道灌の死後、江戸はふたたび昔の寂しい漁村に戻ったが、1590(天正18)年に秀吉が関東8カ国を家康に与えたことから、その状況は一変した。
 家康が入国した頃の江戸は、町屋などが百戸あるかなしかの寒村であったが、家康はこの地に積極的な街づくりを開始した。1603(慶長8)年2月、家康が征夷大将軍に任ぜられたとき、ここに江戸幕府が開かれ家康は開府とともに江戸の大改造に着手した。

 江戸市街の大改造は、その後十数年にわたり延々と続けられた。その完成は、1590(天正18)年の家康入城から47年後になる。外郭の完成した江戸城は、その周囲4里、大小名の邸宅と数万の民家を抱えて、その繁華と賑わいは京都、大坂の旧都市を凌駕し、一躍世界的な大都会になった

 江戸市街の人口は、1725(享保10)年の統計では、男32万人、女21万人、合計53万人である。この町方の人口に、武家屋敷に居住する人口を加えると、この頃の江戸の総人口は150万人にのぼったと思われる。
 1801年に欧州最大の都市ロンドンの人口が86万4千人、パリが54万7千人、ウイーン、モスクワが25万人程度であったことから見ると、当時の江戸は世界一の人口を擁する大都市であったといえる。
    
●参勤交代が江戸と地方都市を繁栄させた!
 江戸幕府は、1635(寛永12)年から大名統制のために「参勤交代」を実施した。この制度では、諸大名の妻子を人質として江戸に常住させ、諸大名は原則として在府・在国を1年交代で繰り返すことになっていた。
 幕府はこの制度により、諸大名の財政支出を促進させ、その経済力を奪うことにより、幕府に反旗を翻すことを未然に防ぐことをねらった。
 しかし諸大名の参勤交代による膨大な出費は、江戸と諸街道の地方都市の繁盛を作り出す結果になった

 まず参勤交代の制度により、江戸には幕府直属の旗本8万騎をはじめ、全国30諸侯を2分してその半分と、諸侯の妻子が常住することになった。そのため江戸の武家人口は一挙に増加し、全国の富の大部分が江戸消費に振り向けられることになった。その結果、江戸は封建体制下では世界に類例を見ない大都市に成長することになった

 江戸時代の経済学者・海保青陵によると、諸藩共に江戸藩邸の経費は藩財政支出の大半を占めたといわれる。そのおかげで江戸は日本一の大消費都市に発展した。
 諸大名の江戸屋敷の規模を見ると、大名は通常、江戸市内の4箇所に屋敷を有しており、そのために大名屋敷の数は600を越えた。
 その他にも数千の旗本屋敷があった。そのため幕末においても江戸の武家地の面積は1,169万坪を越えており、寺社地266万坪、町地269万坪に比べて圧倒的な規模を持っていたことがわかる。

 この武家屋敷の消費需要を満たすには江戸の商人だけでは賄いきれず、その大部分は大阪から海路で江戸港に輸送され、そのため江戸の日本橋周辺には膨大な消費需要を背景にして、多くの問屋・巨商が成立した。

 大阪からの海路の輸送を見ると、1624(寛永元)年に大阪に江戸廻船問屋が開かれ、同4年に菱垣廻船、1661(寛文元)年に樽廻船が輸送を開始した。1716年(享保年度)の大坂における江戸積高を見ると、酒が18−20万樽、醤油11−16万樽、油5−8万樽、木綿81−200万端、繰綿7−14万本という膨大な量が大坂から江戸に輸送されており、江戸がいかに巨大な消費都市になっていたかがわかる。
 
 さらに、隔年に行なわれる諸大名の参勤交代により、東海道159家、水戸街道25家、中仙道34家、奥州街道37家、甲州街道3家の諸侯が家臣をつれて上下に移動した。この諸大名の移動とともに一般市民の多量の物資も同時に移動するわけであり、沿道の地方都市の経済発展に大きな影響を与えた。
 東海道を例にとると、最も多い月には1ヶ月に40余の大名が東海道を通過した例もあり、宿(しゅく)ごとの繁忙さは大変なものであった。

 参勤における諸侯の休泊は宿ごとの本陣であり、従者の大部分は脇本陣、旅舎に分宿した。大規模通行の例として、1718(享保3)年4月における将軍吉宗の生母浄円院による川崎宿の通行では、馬1300匹、人足18000人、また1757(宝暦7)年における門跡下向には馬47匹、人足741人(大熊喜邦「東海道宿駅とその本陣の研究」)という記録がある。
 これらを見ると、参勤交代が街道周辺にいかに大きな経済効果を与えたかが推察される

 つまり江戸時代の日本では、京都、大坂、江戸の地域的な機能分担が巧みに設定されており、さらに参勤交代という人為的な制度を利用することにより、世界に類例のない巧みな経済・政治・文化の国つくりが行なわれた事を示している。




 
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