アラキ ラボ
脳卒中の記録
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  (9)退院
 普通の病院では、患者はそれぞれ病気の種類も違うし、病院での生活も人それぞれであり、食事も各人が自分のベッドで自由にとる。要するに患者はそれぞれが互いに無関係に生きている。ところがリハビリ専門病院の生活は、かなり違ってくる。まず食事は、食堂に自分の席が決められていてそこでとる。毎日同じ顔ぶれで食卓を囲むので、自然にグループができる。グループ間でも、気の会う同士がまた自然にグループをつくる。
 病状の重い人、軽い人、男性、女性ごとにも自然にグループができる。それらのグループの間、またグループの内部に微妙な好き、嫌いがでてくる。これが嫌で食堂に出ず、ベッドで食事をとる人もでてくる。
 
 病院生活が長くなると、病院での生活は快適になるが、このような病院内の人間関係が大変、鬱とおしいものに見えてくる。これは病院の責任ではなく、すべて患者である自分の責任である。これに気付いた時、私は早期に退院したいと思い始めた。発病から4か月がたっていた。そこで誕生月の3月に、私の病気を心配してくれたきょうだいと家族を温泉に招待し、快気祝いをして退院しようと考えた。

 3月9日、予約しておいた山梨の温泉ホテルに、妹たちとその家族は名古屋から、また弟たちとその家族は東京から、そしてホスト役としての妻と子供2人も東京から山梨の温泉に集まった。私は午前中に最後のPTとOTのリハビリをおわり、昼過ぎには1階の理髪店へ行ってピカピカにしてもらった。

 夕方、息子の車で皆の待つ温泉ホテルへ行った。病院から外へは1度も出たことがなく分からなかったが、ホテルは病院から車で1-2分の近いところにあった。その日のホテルは週末の湯治客で賑わっており、私は別世界に来たように嬉しかった。
 エレベータに車椅子で乗ると、出入りする人々がすべて歩いているのに驚いた。当たり前のことなのに、しばらく病院生活をしていると、健常者ばかりがいる世界が奇異に見えるようになっていた。前日の夜、私は宴席でしたたか飲んで酔っ払った夢を見ていた。
そこで当日は、久しぶりのアルコールを楽しみにしていたが、残念ながら飲ませてもらえなかった。

 翌日は、山梨の美術館へ皆で行った。車椅子に乗っている私は、無料の上、VIPのように大事にされ、申し訳ないような気持ちになった。ミレーの絵などが多数蒐集されていて驚いた。私の病気のおかげで皆が集まり、2日間も楽しい日が過ごせて、なにか不思議で複雑なうれしさであった。昼、レストランで名物の「ほうとう」を食べて別れた。母は叔父と南紀旅行にいっていて参加できなかったのは残念であった。

(10)照る日・曇る日
 脳卒中の退院の多くは、生涯続く新しい闘病のための退院である。私の場合も同じで
あった。そこで退院後に3つの目標を目指すことにした。
 第一は、車椅子からの脱却である。それはこの病気の象徴からの脱却でもある。私は、退院の翌月から毎日、フラワーパークで歩行訓練を始めた。入院中は日に数十米であった歩行距離は、五百から千米に伸びた。
 第二は、自主リハビリの実施である。自己流にならないように、最初の病院のリハビリ室の先生の指導を受けることにした。
 第三は、社会復帰の実現である。私は企業などの経営指導などを生業としてきた。しかし今後は、通常の交通機関を利用していろいろな所へ行くことは難しいであろう。そこで自宅で仕事ができるように、エクセル、ワード、インターネットなど、パソコンの訓練を始めることにした。
 人生終わりに近いのに、今になって、再び私はよちよち歩きを始めた。

 退院から2ヶ月間は、希望がいっぱいの毎日であった。家の近くに京王電鉄のフラワーパーク「Ange」(アンジェ)が、4月に開園した。フランス語で「天使」という名の美しいイギリス式庭園で、私は妻に付き添ってもらって毎日1本杖による歩行訓練を始めた。
 そこにはなによりも車が一切走っていない。道は、適度な上り坂、下り坂、砂利道、でこぼこ道が配置されており、道の両脇には四季を通じて花が咲き乱れている。私にとっての新しい「天国散歩」であった。
                              
 Angeより前、3月の帰宅早々、久しぶりに前の病院へリハビリの相談に行った。梅津先生は前と同じようにリハビリの指導をされていた。「では早速歩いてみましょう」と言われて、リハビリ室から外へ出て病院を1周した。私は山梨の病院では歩くのはリハビリ場の中だけで、病院の外を歩くのは始めてである。それが初日から、先生についてもらったとはいえ、数百米歩けて非常に嬉しかった。リハビリ室では、前に難しいと思っていたことが、比較的容易に出来るようになり自信が出てきた。

 私はそれまで知らなかったが、5月25日から31日まで「脳卒中週間」があり、毎日新聞の広告で、「脳卒中体験記」を募集していた。上記のように快調な滑り出しですっかり自信がついていた私は、これに応募するためにすぐに体験記を書き上げた。私は、最初の出だしですっかり舞い上がっていた。しかし、この病気はそれほど甘いものではなかった。

 6月8日、土曜日の朝、私は自宅の前を電動車椅子の方について伴走する梅津先生に偶然、ばったり会って、「頑張ってください!」と手を振った。思えば、これが私の最高潮のときであった。 その直後、私はいつものようにAngeのマグノリアの林の中を歩いていた。その頃は、私は付き添いも要らなくなっていたので、妻は押し花の展示場の方に行っていた。歩いている私の前の方を、近くの療養施設の車椅子の人々が何人も横切って行った。其の時、突然、私の体にシビレが走って全く歩けなくなった。
 私は、かろうじて近くのベンチまでたどり着き座った。近くの人に助けを借りようかと思ったが、妻が間もなく来るだろうと思い、ベンチで待っていた。

 強いストレスは2日たっても取れず、6月11日の火曜日の朝になって、まったく歩けなくなってしまった。症状は、昨年の脳卒中発症のときと極めて類似しており、私は完全に再発と思った。すぐに救急車にきてもらい、また前の病院へ行った。前のときにこりているので、私はすぐにMRIをとってほしいと頼んだ。朝9時過ぎの病院は、外来でごったがえしており、今回もストレッチャーの上で長い時間、待たされた。前と同じく最初にCTスキャンをとったが何も出なかった。昼近くになってようやくMRIをとると、予想に反して何も出なかった。医師からは、まず再発ではありません、といわれて安心したものの、その後の状態も前回の脳卒中の時ときわめて似ていて、念のため1週間、24時間点滴をして入院した。



 
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