アラキ ラボ
脳卒中の記録
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  (3)夢
 1945年に盲腸の手術で入院して以来、50年以上経験しなかった入院生活が始まった。左脳の脳梗塞により体の右半身が麻痺していた。妻と子供2人は、医師からここ3日間が非常に危険で、何が起こってもいいように準備しておくようにいわれたそうである。
 脳卒中では自律神経も同時に失調するようであり、体の右半身には異常な汗が出て、寝巻きは汗で絞れるほどになった。そのため、小さなタオルを右側の寝巻きの内側に入れ、夜中には何度もとり変えた。汗でぬれたタオルはベッドの手すりにかけて、干して取り替えるので、まるで物干し場に寝ている状態であった。
 入院した夜は異常に興奮していて、朝の3時から起きているのに、夜になっても眠れる状態ではない。血圧は高く、胸は苦しく、汗はしぼるほど流れる。睡眠薬をください、と看護婦さんに頼んだが、医師から止められた。

 病室は2人部屋であったが、幸い入院後のかなり長い期間、1人であった。特に病気が最悪のときは1人でいるのは有難かった。最初の1週間は四六時中すべて意識がはっきりしていて、夜中もまったく自分では眠っている自覚はなかった。しかし、実際はその間に何度か眠っていたようであり、健康時には見たこともない奇妙な夢を見ていた。それは前世の記憶とでもいうべきものであった。
 第1夜は、私は脳梗塞の経験はないのに、夢の中ではまた脳梗塞にかかったと思っていた。夢の中の自分は片腕を白布でつり、温湿布がなされていた。侍屋敷のような家の広い台所では、何人かの着物を着た女性がかまどの大きな釜に湯をわかしていた。そして中年で白い面長のしっかりした奥方風の女性が下働きの人々にテキパキした指示を与えて働いていた。どうやら私の看病にあたっているようであるが、かなり古い時代のようであり、皆、私の知らない人々であった。

 第2夜は、その続きのようであった。旧満州の地名や人名がいくつも出てきた。私の知らない名称であり、漢字は明確に読み取れたが読み方が分からず、本当にそのような地名があるかどうかも分からない。ただ吉林省だけが読めたので記憶しているが、それに続く地名は分からない。人名は、「金日成将軍」という名前が出てきた。北朝鮮の主席であった金日成ではなく、日本軍と戦った伝説上の人物であり、その人と日本浪人との裏話がいろいろ登場してきた。そこでの話は本で読んだこともないし、まったく聞いたこともない話であった。金日成は、抗日戦を戦った将軍であるのに、実は日本と深いかかわりがあるという大変な話であるが、その真偽のほどは全く知らないし、考えたこともなかった。

 第3夜は、竣工前の巨大なレジャー・ランドに招待された。それはいくつもの山にまたがって作られていた。時刻は夜明けなのか日暮れなのかわからないが、薄明の山の頂に私は1人で立っていた。はるか地平線のところだけが、白く明るく輝いていた。その山の頂を縫うように、青く長く巨大な魚の乗り物が本物のような迫力をもって中空をうねりながら動いていた。そのこの世ならぬ壮大な光景を、私は圧倒されて眺めていた。
 この3日間、幸いにして次の脳梗塞も脳出血も起こらず、私は無事生還した。異常な夢も3夜で終ったが、それは同時に4ヶ月に及ぶ長い入院生活の始まりになった。

(4)入院生活とリハビリ室
 脳卒中による入院生活は、通常の病気の場合といくつかの点で異なる。通常の入院の場合は、ベッドに静かに寝て回復を待つが、脳卒中の場合は静かに寝ていても、死んだ脳が回復することはない。むしろただ寝ていると、失われた機能を代替する他の機能まで衰えていく。従って最近はできるだけ早い時期からリハビリが行われるようになっている。
 私の場合も入院の1週間後から理学療法士の梅津先生から、病室で寝たままでリハビリを受けるようになった。その最初に、先生から「血圧が安定したら、1階のリハビリ場へ行きましょう。そこで1本杖で歩いてみましょう」といわれた。
 その時の私は、ベッドの上で天井を見たまま、寝返りさえできない状態である。右手の指は動いたが、その指でタオルを持つことさえ出来ない。布団の中の右足は金輪を嵌められたように重く、動かすこともできない。私はもはや二度と立って歩くことは出来ないであろうと思っていた。その落ち込んでいた私にとって、梅津先生の言葉はバラ色の夢を与えてくれた。「病室の外に出られる」、「自分の足でまた歩くことができる」、このことは、私にとっては夢の世界であった。

 10月も末になったある朝、担当医師の往診で、ベッドから起きられますかと聞かれた。麻痺した手足は身を起こせる状態ではなかった。その頃、同室に入院されていた方が医師の診察にも応えられない重症の私に、声をかけるのも遠慮されていた。その翌朝、私は突然、ベッドの手すりに手をかけて、身を起こした。このことは、よほど同室の方に驚きを与えたようであり、その後、たびたびそのことを言われた。

 私はその頃、重症の便秘に苦しめられていた。入院直後から1週間、全く便通がなかった。健康時には便秘で苦しめられたことはないのに、横になったままで運動もしないので、腸の調子が全く狂ってしまったようである。はじめの2-3日は気にしなかったが、1週間も便通がないと本当に心配になってきた。
 その時思ったことは、地球の重力の人体に対する影響である。つまり人間は立って生活しているため、自然に重力で食べたものは下に降りて排泄される。しかし寝ていると食べたものに縦の重力がかからなので、必然的に便秘になると考えた。
 今、冷静に考えると、人体の機能はそれほど単純ではないと思うが、その時は真剣にそう思っていた。そこでどうしても内臓に縦の重力がかかるようにしなければならない。そのためには、まずベッドに起き上がる必要がある。そこで私は、ベッドの手すりをつかみ、えい!と起き上がった。やってみたら、意外に楽に出来た。そして体が縦になったら、不思議に便秘もなくなった。

 11月になって、初めてリハビリ場へ車椅子で出た。リハビリ場は1Fにあり、理学療法室と呼ばれていた。広さは2百平米位でかなり広く、そこでは同病で苦しむ車椅子の人々が涙ぐましい再生の努力を重ねていた。見たからに私より重症の方も多かった。立つこともおぼつかない人が、平行棒に掴まって立ち上がり、ようやく2,3歩きそれ以上は歩けなくなった。その患者は前日までは立ち上がれなかった人である。近くにいた患者も先生も皆が拍手をした。その人は泣いていた。それから1日1時間のリハビリの時間が、非常に待ち遠しくなった。

 入院患者はリハビリと関係のない人も多い。重症の寝たきりの病人でリハビリのない病人は、毎日、朝から晩までせまいベッドの上で、同じ天井を見て寝ているわけである。夜になると、「おとうさん、家へ帰りたいよう!」という悲しい女性の声が聞こえてきたりする。私は、病気はつらいが、リハビリに参加できる幸せを感じていた。




 
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