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日本人の思想とこころ
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1.死の予感
2.身近な他界 -日本庭園
3.日本人と死後世界
4.美人の死後伝説
5.孔孟思想は21世紀に生きられるのか?

6.秦帝国と呂氏春秋
(1)中国古代の帝王と国家
(2)秦帝国と始皇帝
(3)呂子春秋の世界

7.四書五経の形成 ―新儒学への展開
8.朱子学と近思録
9.陽明学と伝習録
10.東洋医学と黄帝内経素問
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  6.秦帝国と呂氏春秋

●なぜ今、秦帝国を取り上げるのか? ―統一国家・中国の過去と未来
 BC221年、後に始皇帝と呼ばれるようになる秦王・政が、戦国6国のうち最後に残っていた斉王国を滅ぼし、中国史において初めての統一国家である秦帝国を作った。
 この帝国は僅か20年たらずしか存在できず、BC207年には滅亡した。しかしその後には、本格的な古代国家である大漢帝国が成立し、その大漢帝国はその後、400年あまりの長きにわたり続くことになる。
 つまり秦は非常に短い期間しか存続しなかったが、漢に続く中国古代国家の基礎を作った初めての統一国家であるといえる。

 その意味で、中国最初の統一国家である秦帝国は、現代中国とその未来を考えるためにもいろいろなヒントを与えてくれる。それが秦帝国をここで取り上げる第一の理由である。

(1)中国古代の帝王と国家

●三皇五帝 ―中国古代の理想の帝王
 中国の歴史は、所謂「三皇五帝」という理想の帝王(=先王)の時代に始まる。この「三皇五帝」という言葉が初めて正式に使われたのは、秦の始皇帝の時代に作られた「呂氏春秋」といわれる。始皇帝が、初めて中国全土を統一したとき、自らの祖神を神話時代に設定して、その出自を明らかにしようとしたのであろう。

 フシギなことであるが、中国史の冒頭に登場するこの理想の「三皇五帝」に誰を当てるかには、従来、定説がなく極めて混乱している。そのため司馬遷は、史記を書くに当たり、「三皇」をその記述から除外して、「五帝」から始めたほどである。
 現在の史記には、「三皇本紀」が掲載されているが、それは唐代に史記の注釈書である「史記索隠」を書いた司馬貞により、付加・記述されたものである。
 中国の文献において「三皇五帝」に誰が当てられているかについては、津田左右吉氏の「シナ思想の研究」(全集、第28巻所収)に詳しい記述がある。

 ▲三皇とは?
 司馬貞による史記の「三皇本紀」では、「三皇」を、太皞庖魏氏、女媧氏、炎帝神農氏としている。また十八史略のような通俗書では、天皇氏、地皇氏、人皇氏とある。つまり三皇とは、五行説の順序にあわせて、後世の史家が中国の歴史の始まりに勝手に設定した、3人の神皇のことである。
 従って、史家によって神皇がいろいろと想定されるのも、自然の姿かもしれない。

 ちなみに「皇」と「帝」は、中国・古代史家の飯島忠夫氏によれば、ともに神または神人の意味であったという。そして「皇」には、特に「大」また「光り」の意味があり、「皇」とは光輝があって偉大なる主宰者の意味がある。
 また「説文解字」によれば、「皇」は「自」と「天」の合成語であり、自を鼻と解釈して、「皇」は「始めの王」を意味するとされる。
 そして三皇以後の王では、「皇」という文字は、秦の始皇帝において初めて利用された

 ▲五帝とは?
 フシギなことには、五帝も史書によりその構成が大きく異なる。史記における五帝は、黄帝軒轅(こうてい・けんえん)氏、顓頊高陽(せんぎょく・こうよう)氏、帝嚳高辛(ていこく・こうしん)氏、帝尭陶唐(ていぎょう・とうとう)氏、帝舜有虞(ていしゅん・ゆうぐ)氏からなり、その関係は次のようになる。

 
黄帝軒轅氏―五行説で「黄」は、大地、中心を意味しており、中国におけるすべての王の始祖が黄帝になる。黄帝は姫姓であり、生まれは河南省の丘、姫水のほとりで育ったとされる。
中国古代国家である夏、殷、周を通じて、その中心地は河南省にあり、その地の王の祖神こそが黄帝ということになる。
顓頊(せんぎょく)高陽氏―黄帝の孫で秦王の祖神とされる。
帝嚳(ていこく)高辛氏―黄帝の曾孫、
帝尭(ていぎょう)陶唐氏―帝嚳の子、50年にわたり天下を治めたとされる。
帝舜(ていしゅん)有虞氏―顓頊の6代目の孫

●夏、殷、周王朝 ―中国古代の理想国家 
 私が旧制中学1年生で中国史を習ったときは、尭、舜、禹、夏、殷、周、春秋、戦国、秦、前漢、後漢、西晋、東晋、南北朝,隋,唐,五代、宋、元、明、清、中華民国と暗記させられた。
 つまり、そこでは中国の人王の始まりが尭(ぎょう)帝であり、史記の五帝における4番目の帝尭陶唐氏から始まった。

 最初の三帝である(帝尭陶唐氏)、(帝舜有虞氏)、(夏后氏禹)は、治山治水をよくし、世襲ではなく後継者として有能な人物に王位が禅譲された。これが、いわば人王の始まりであり、中国における理想政治の時代である。
 
 3番目の夏后氏・禹(う)は、顓頊の孫にあたる人物である。身を労し思いを焦がして、洪水をふさぎ、道を作り、橋を作るなど力を尽くし、中国の最初の国家である夏(か)を作り、夏王朝の初代の王になった。

 私が中国史を習った頃、夏(か)王朝は殆ど神話の時代であると思われていた。しかし、最近の中国における考古学の発掘により、夏代の遺跡が続々と出土しており、そこから中国史における最初の古代王権国家としての夏は現実にあったことが明らかになってきた。その時代は、BC1800-1700年頃と思われている。

 さらに、夏に続く殷(いん)王朝は、亀甲・獣骨に刻まれた古代文字(甲骨文)が発見されており、青銅器の文字である金文より、さらに古い文字であることが分かってきている。つまり文字文化をもった殷王朝は、BC1550年頃、大乙が伊尹を宰相として王朝を開き、都を亳(はく)においたところから始まった。
 そして周の武王によって滅ぼされるBC1050年頃まで、500年続いた。

 周王朝は、BC249年に東周が秦に滅ぼされるまでの800年間、一応は続いていたが、BC771年に西周が亡び、都が東に移ってからは、王権は諸侯に移り、春秋、戦国時代という諸侯が分裂して戦う戦乱の時代に入った。
 春秋、戦国時代は、孔子、孟子をはじめとして、諸子百家が活躍し、いろいろな中国思想が花開いた絢爛たる文化の時代でもある。






 
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