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日本人の思想とこころ
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1.死の予感

11.仏教伝来のナゾ
(1)仏教伝来とは?
(2)古代日本の政治危機 ―継体・欽明朝紀年の乱れのナゾ
(3)6世紀の朝鮮半島

12.インド仏教の成立
13.陽明学を体系的に理論化した?西田哲学
14.明治の新思想 ―儒学からキリスト教へ
 
  11.仏教伝来のナゾ

(1)仏教伝来とは?
●仏教伝来は、古代国家の文明開化! ―三国動乱と倭国危機
本項は「日本人の思想とこころ」の一章としてかなり以前に出来上がっていたものである。しかし、その内容が少し専門に偏り過ぎたので、最終的にHPに掲載していなかった。
 今回、このシリーズにおいて仏教思想をとりあげたことから、以前の内容を全面的に修正した上で、掲載することにした。

 わが国への仏教が公式に伝来した時期は、戦前は日本書紀の記事をそのまま踏襲して、552(欽明13)年に百済から伝来したとされていた。しかし戦後は、日本書紀よりも信頼性の高い史料として「上宮聖徳法王帝説」や「元興寺伽藍縁起・流記資材帳」に基づき、532年とするのが定説となり現在に至っている。 
 しかし実際に本邦へ仏教が伝来した時期は、さらにこれより以前に遡ると考えられている。たとえば「扶桑略記」によると、仏教伝来後に日本における仏教の普及に尽力した司馬達等の来日が522年であることから、この段階で既に豪族・蘇我氏のもとには、大陸仏教の仏像や経典が齎されていたと考えられている。

 ここで取り上げたいのは、必ずしも、この伝来時期の正確な確定ではない。むしろ、この仏教伝来から始まり、聖徳太子の摂政への就任(593)でおわる6世紀という時代が、国内では4世紀に始まる河内王朝が断絶の危機を迎えた段階であり、それに対応して日本の古代天皇制を支える豪族の基盤は、神武天皇以来の大伴、物部氏から、新しい渡来系の豪族である蘇我氏へ移行するという大変革の時代を迎えていた。
 その一方で、国際的には隣の朝鮮半島において、高句麗、百済、新羅の3国の間における激しい抗争の時代を迎えていた。その抗争のあおりを食って古代の大和王朝は、それまで特に親密な関係を保ってきた朝鮮半島南部の加羅の国々を百済に譲渡(524-)することを逼られ、さらに、強国・新羅の勢力が海を越えて北九州を脅かす時代を迎えていた。その最大の危機が、九州の国造・磐井の叛乱(527)として勃発した。

 つまり日本への仏教伝来は、単に仏像や経典がわが国へ齎されるという文化的な事件だけではなく、仏像の鋳造、仏寺の建築、医療などの技術者の受け入れにより、国際的な技術の移行を含む古代の国家体制の変革を伴う大きな事件であったのである。
 そのため、朝鮮半島において日本と親密な関係にあった百済は、わが国との関係をより緊密にするための手段として仏教の伝達を考えたし、また日本としては、既に中国、朝鮮で一般化していた仏教の技術や理論や政治体制の受け入れにより、国際的な文化水準に達したことを表明する手段として、仏教の受け入れを考えたわけである。
. 6世紀を通じて、日本の天皇制を支えた豪族は、この仏教の受け入れを巡って、神武天皇以来の大伴、物部氏から、百済からの渡来系である新しい豪族である蘇我氏に代わっていった。
 このことを考えると、仏教の導入がいかに大きな事件であったかわかるであろう。

●仏教伝来の経過
  ▲552年伝来説 ―日本書紀
 720年にできた正史・日本書紀によると、仏教伝来は欽明天皇13年(壬申、552)の冬10月に、百済の聖明王が西部姫氏達卒怒唎斯致契約羅を遣わして、釈迦仏の金銅像1躯、幡蓋若干、経論若干巻を献じ仏教の殊勝なることを上表したことによるとされている。
 この年は天皇紀元では1212年であるため、戦前の日本の歴史教育では、仏教がイチニイチニ(1212)とやってきた、とこの年を記憶した。

 このとき欽明天皇は、それまで目にしたことのない美しい仏像に感動し、礼拝すべきかどうかを群臣に諮った。それに対して、大臣・蘇我稲目は崇仏を奏し、大連・物部尾輿や中臣鎌子らは、蛮神である仏を敬うことは、国神の怒りを招くものとして反対を表明した。
 その結果をうけて、欽明天皇はこの仏像を蘇我稲目に付して礼拝させることにし、稲目は、喜んでその仏像を小墾田の家に安置し、向原の家を清めて寺とした。
 しかし後に疫病が流行して多くの民が死んだため、物部尾輿らはこれを崇仏の祟りとして、天皇の許可を得て仏像を難波の海に投げ捨て、伽藍を焼いたとされている。

 ▲538年伝来説 ―上宮聖徳法王帝説、元興寺縁起、
 746年につくられた「元興寺伽藍縁起幵流記資材帳」(=元興寺縁起)は、平安朝中期に編纂されたものではあるが、7世紀中ごろの史料を編集したものとされており、史料的価値は高く評価されている。
 また聖徳太子の最古の伝記集である「上宮聖徳法王帝説」(以下、「帝説」という)によれば、わが国へ初めて仏教が正式に伝来したのは、欽明大王の7年、戊午の年(538)の10月12日のこととされている。

 「帝説」では、仏像・経典とともに僧が来朝し、これらを大王は蘇我稲目に授け、570年庚寅に破仏が起こったとされる。
 元興寺縁起については、「本文」は現存せず搭露盤銘に引用されたものによるが、同主旨のことが記載されていたと見られる。

 ▲523年伝来説 扶桑略記
 第三は平安末期に成立した「扶桑略記」である。そこでは継体天皇の16(522)年春2月、大唐漢人(梁の人?)・司馬達等が来日し、大和国高市郡坂田原に草堂を作り、本尊を安置して礼拝したとする記事が記載されており、欽明天皇より以前に大陸仏教が伝来していたとされる。
 司馬達等は、その後の百済からの仏教の公伝を受けて、仏教の普及に大きく貢献したと見られる人物である。

 例えば、蘇我馬子が仏像を崇拝するに当たって指導する人がいなくて困っていたとき、播磨に難を避けていた高麗僧・恵便を訪ねて、彼を馬子に推挙した。また彼の娘の嶋が出家して尼となり、別に2女を度して嶋の弟子とした。これが善信尼、禅蔵尼、恵善尼という日本で最初の尼僧になった。
 彼女たちは、その後、朝鮮に渡航して日本における外国留学の先駆者となったといわれる。

 また息子の多須那も出家して徳済法師となり、日本における男性の出家の第1号となった。彼は丈六仏と脇侍菩薩像を作り、大和の南淵に安置し天皇の冥福を祈願したといわれる。さらに、孫の鞍作りの止利は、仏教彫刻や絵画に貢献し、推古14年には、その功績により大仁の位を特賜された。これらをみると、司馬達等の一族は、日本への仏教伝来に当たり、その影で大きく貢献したことが分かる。






 
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