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  (3)孟子の革命思想 ―孟子の書を積んだ船は沈む!

●孟子の革命思想とは?
 初めて孟子を読んだときの大きな衝撃を、私は忘れられない。その言葉は、梁恵王章句下にあった。そこで斉の宣王が孟子に聞く箇所を、まず下にあげる。
  
 宣王が孟子に尋ねる。「殷の湯王は、夏王朝の桀王を放逐して天下を取り、周の武王は、殷王朝の紂王を討伐して天下を取ったとされている。それは歴史的事実ですか?」「もしそうならば、臣下が君主を殺害する事が是認されているのですか?」

 儒教において臣下が王に叛逆することは、許されることではない。しかし中国史においては、王朝の交替は常にその臣下の王に対する叛逆から始まっている。この矛盾を、宣王は孟子に質問したわけである。まず、ここで宣王が孟子に尋ねた歴史上の事件を簡単に説明する。

 殷の湯王とは、BC1550年頃、河南省の黄河流域に成立した殷王朝の初代の王である。殷の前代である夏王朝の桀王が暴君であったため、諸侯は成湯大乙のもとに結集して、成湯大乙が諸侯とともに桀王を破って殷王朝を作り、成湯大乙が初代の湯王となった。
 また周の武王とは、BC1050年頃、諸侯とともに黄河の渡河点である孟津(河南省孟県西南)から黄河を北へ渡り、殷の紂王を滅ぼして周王朝を作った始祖である。
 宣王は、これらの王朝が臣下や諸侯により滅ぼされて出来上がったことに対する矛盾を、孟子に尋ねたわけである。

 これに対する孟子の有名な回答は、かなり過激である。
 「仁をそこなう者、これを賊といい、義をそこなう者、これを残という。残賊の人は、これを一夫という。一夫紂を誅するを聞けるも、未だ君を弑せるを聞かざるなり」。
 (仁の徳を破壊する人を賊といい、正義を破壊する人を残といいます。たとえ王であっても、残賊の罪を犯した人はもはや君主の資格はなく、ただの人にすぎません。私は武王がただの人である紂を殺したとは聞いていますが、君主である紂を殺害したとは聞いておりません)。(梁恵王章句下)

 つまり王であっても、仁義の背いた場合は、もはや王の資格を失っており、唯の人にすぎない。従って、その人を討ち取っても臣下が王に背いたことにはなりません、と孟子は応えたわけである。
 これは一見、詭弁にも聞こえるが、王権は天から授けられるものとする中国の王権思想からすれば、立派に理屈が通った正論である。
 しかしその正論を言われた王の立場からすれば、孟子の思想は極めて危険であると思うのもこれまた仕方ないであろう。
 この孟子の革命思想は、かつて毛沢東により孔子よりも高く評価されたものである。しかし現代の中国では多分、危険思想になるのではないか!?と私は思う

 中国では王朝がたびたび交替しており、易姓革命の思想が確立している。しかしこの中国でも、孟子の思想は理論として正当でありえても、それが過激思想として見られるのもまたやむをえないことであろう。
 いわんや王朝の交替がない日本では、王朝交代を是認する孟子の思想を危険視する人々が出てくる事は当然である。それが孟子の書を積んだ船は沈むという伝説や、日本においては孟子の書は読まれないとする伝説を、生み出したのであろう。

●孟子の書を積んだ船は沈んだか?
 私は、この孟子の書が日本で忌避された話をプロフィール 「(9)再出発」の中でも書いた。そしてそこでは、平安朝初期の寛平年間(889-)に宇多天皇の勅を奉じて作られた「日本国現在書目録」にも、孟子の書は趙岐注の孟子14巻と陸善經注の孟子7巻が納められているに過ぎないという、日本における孟子の注釈書の普及の少なさからも分る、と書いた。

 実はそのとき、私は日本において井上順理氏による「本邦中世までにおける孟子受容史の研究」風間書房という大著がでていることは知っていたが、未読であった。長年、古書店に通っていても同書を見たことがなく、通常の図書館にあるとは到底思えない。
 そのため同書を読むことをあきらめていたら、風間書房のホームページで僅かな在庫があること知り、発行時(昭和47年)の9270円という安価で入手できた。

 同書は、日本において非常に研究が遅れている江戸時代以前の前期儒学の研究史を、孟子に焦点を当てて研究した貴重な労作であり、到着を待って早速読んでみた。
 そこで孟子の書が日本ではかなり差別的な取り扱いを受けたとする説は、江戸時代以降のものであり、早期儒学における取り扱いは必ずしもそうではない事が分かった。

 平安朝の貴族たちが孟子を忌避した形跡は見られないし、南北朝の太平記の序文などは将に孟子的な立場から書かれている。そのため戦前の太平記は、この問題の序文を読み下し文として載せず、原文のまま掲載していたほどであり、その事を私はこのウェブでも書いた。(日本人の思想と心 「21.歴史はミステリー(その16) -南北朝の内乱」

 孟子の書を載せた船は沈むといわれ、日本では孟子の書を購入する事は忌避されているという浮説の出所は、中国における明代・随筆の「五雑爼」といわれる。
 そこには「倭奴もまた、儒書を重んじ、仏法を信ず、凡そ中国の経書は皆重価をもってこれを購う、独り孟子無しという、この書を携えて往く者あれば、舟すなわち覆溺す、これまた一奇事なり」(巻四・地部二)と書かれている。(世界の名著、孔子・孟子、39頁)
 そこには日本では、漢籍は高価な値段で購入されるが、孟子だけは購入されず、それを積んだ船は沈没するといわれている、と述べられている。

 井上順理氏の前掲書によると、このように孟子の書が日本で異端視されたのは、どうも近世であり、むしろ四書の一つとして孟子が読まれるようになってからのことらしい、とされている。その理由が、孟子の革命思想にあることは明らかであるが、平安朝頃に、孟子の書が日本にあまり存在しない理由は、当時の儒学が中国においても「五経」を中心にしていたことにあり、孟子を含む「四書」が重視されるのは、鎌倉期以降のことによると私は思う。

 では近世における尊王思想のイデオローグである吉田松陰が何故、幕末になり特に孟子に傾倒したか?ということである。そこでまず講孟剳記の問題箇所を見てみよう。

●吉田松陰における孟子の革命説
 吉田松陰は、同じ帝王でも中国と日本では、その性格が全く異なると考える。中国では、帝王とは天が人間をこの世に下したものである。つまり、そこでは君主となり師となる人物がいないと、国がおさまらない。そこで必ず億兆の民衆の中から傑出した人物を天が選んで、帝王に任命する。尭・舜帝や湯、武などの帝王は皆それである。
 従って、その人物が職責にふさわしくなく、民衆を治めることが出来ない場合は、天はその人物を地位から引きずり下す。桀王や紂王、それに周の幽王、厲王などはその例である、と松蔭は記している。(講孟剳記、巻の1)

 わが国の天皇は、中国とは異なる。そこではアマテラス大神以来、その子孫が天地とともに永遠に天皇の地位にあり、日本国民は天皇と杞憂をともにした生活を送ってきている。このように日本の天皇は、中国の帝王とは全く違う体制にある、と松蔭は語る。

 松蔭は、わが国において中国の帝王と同じような関係にあるのは、天皇ではなく征夷大将軍であるとしている。征夷大将軍の場合は、皇室が任命する人物であり、そこで職責を果たすことのできないものは、直ちにこれを廃してもかまわない。例えば、足利氏などがその例である、と松蔭は語っている。
 この考え方は、平安朝以来、孟子の革命説に対するわが国の標準的な見解であったと思われる。しかし征夷大将軍が職責を満たさないとして討伐する場合には、天皇の命令が必要になる。
 一方の中国の場合、春秋、戦国時代の戦争では、周王の討伐命令を受けて行なわれているわけではないので、「春秋に義戦なし」と松蔭は述べるわけである。

 日本の明治維新では、まさに松蔭がいうように、天皇から倒幕の密勅が薩摩、長州に下り、はじめて倒幕運動が正式に始まった。このことは、日本人の思想と心「30.歴史はミステリー(その25) -幕末の薩摩藩と尊王倒幕」に書いた。
 そこではまさに孟子における革命が、日本ではその手順を踏んで行なわれていた事が分かる。

 つまり日本の天皇制では、天皇による親政が行われていた時代は少なく、その殆ど大部分は実際の政治を豪族や将軍が行い、天皇の職責は現在の天皇制に似た祭祀や任命を中心にした象徴天皇制として行なわれてきた。
 日本において孟子的な革命が問題になるには、天皇親政のときだけである。その意味で、孟子の革命説を平安貴族たちは平気で読んでいたわけである。
 従って、天皇の親政が行なわれていた南北朝時代の後醍醐天皇のとき、はじめて太平記の序文などに天皇親政に対する批判的な文章が書かれたといえる。

 ところがその日本でも、明治から昭和の戦前期までは、天皇親政であった。そのため、その天皇親政の批判を気にして、大正元年に出版された現代語訳「太平記」の序文は、漢文による原文を翻訳もしないで出版したわけである。
 その序文には、まさに孟子の革命説に沿った歴史観が書かれていたことは、日本人の思想と心「21.歴史はミステリー(その16) -南北朝の内乱」に記した。

 江戸時代は、象徴天皇制の時代であった。そのため、孟子の革命説が憚られたのも、実は、天皇制に対する配慮ではなく、むしろ幕府に気を使って孟子の解説を遠慮したというのが本当であったと私は思う。

 日本人が天皇制についていろいろ気を使うようになったのは、むしろ明治以降のことであろう。江戸時代には、孟子は幕府の官学として四書五経の一つになっていたため、孟子の危険な箇所は、講義の際に平気で飛ばして解説されていたと思われる。






 
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