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(2)明治初期のキリスト教と儒教

小崎弘道「政教新論」 -キリスト教の立場からの儒教論
 1858(安政5)年6月、幕府はアメリカとの間で日米修交通商条約と貿易章程に調印した。これをうけて翌59年5月、早速、米国監督教会のリギンズ、6月にはウィリアムズが長崎に、10月には米国長老教会のヘボンが神奈川に来日した。
 その後、各派の宣教師が来日したが、それでも幕府は依然として「切支丹邪宗門ハ堅ク禁制」であることに変更を加えなかった。そのため宣教師たちは、日本語の習得、英語の教授、聖書などの翻訳に時間を費やして、時期の到来を待つしかなかった。

 ▲横浜バンド、熊本バンド、札幌バンド -日本プロテスタント派の3源流
 上述の来日したプロテスタントの宣教師が日本で開いた洋学校は、横浜、長崎、札幌バンドと呼ばれて、日本におけるプロテスタント派の3つの源流を形成することになった。それがもとになり、「バンド」とよばれるものが形成された。そこで本論に入る前に、「ウィキペディア」の記述を参考に、まず3バンドの概要について述べる。

 横浜バンドは、米国長老教会のJ.C.ヘボン夫妻、米国オランダ改革派のS.R.ブラウンとJ.H.バラなどにより教育され、その門下からは、島田三郎、植村正久、押川方義、井深梶之助、本田庸一、熊野勇七、山本秀煌、奥野昌綱など、キリスト協会で活躍した人々を輩出した。
 1872(明治5)年、日本最初のプロテスタント教会が横浜に設立され、同じ日に押川方義、篠崎桂之助ら9人がバラ宣教師から洗礼を受けた。この9名と以前に洗礼を受けていた者をあわせ、会員11名でバラを仮牧師として日本初のプロテスタント教会が横浜に設立された。この集まりが横浜バンドと呼ばれる。この公会は純粋な福音信仰に徹し、無教会派主義をとった。この福音主義の精神は後に加わった植村正久に受け継がれた。

 熊本バンドは、1871年熊本洋学校が設立され、これに招かれたアメリカ人牧師L.L.ジェーンズが中心になってつくられた。1876年に洋学校の生徒35名が、熊本城外の花岡山で集会をして「奉教趣意書」に誓約した。この趣意書に契約した人々を熊本バンドと称した。この趣意書には「遂にこの教を皇国に布き、大に人民の蒙昧を開かんと欲す。」とあるように、個人的な誓約や教会形成を意識したものというよりは、キリスト教と国家との関係を意識したものであった。
 洋学校は1876(明治9)年に閉鎖されたが、金森通倫、横井時雄、小崎弘道、吉田作弥、海老名弾正、徳富蘇峰ら青年達の多くは、新設間もない同志社英学校に転校し、同志社の大きな位置を占めるようになっていく。

 札幌バンドは、W.S.クラークの感化でキリスト教信者になり、「イエスを信ずる者の契約」に署名をした札幌農学校の学生集団である。青年達は、1878(明治11)年、メソジスト派の宣教師M.C.ハリスから洗礼を受けた。1882(明治15)年、「札幌独立基督教会」を設立してその教会員になっている。
 しかし、その後、宣教師との関係の悪化により、メソジスト派との関係を絶つことになった。後に、新渡戸稲造はクエーカー派の信徒になり、内村鑑三は無教会派を創始する。

 ▲小崎弘道と熊本バンド
 これらの3つのプロテスタントの源流の中で、小崎弘道(1856-1938)は熊本藩の藩士出身であり、熊本バンドの1人であった。小崎は、1876年ジェーンズにより受洗し、その後、新島襄の同志社に学んだ。そして組合派教会の牧師として明治・大正・昭和にかけて日本プロテスタント教会形成のために大きな貢献をした代表的指導者の1人である。

  小崎は、後年、自伝「70年の回顧」の中で、熊本洋学校の初期の頃を詳しく記録している。それによると、熊本バンドに入った士族の子弟たちは、初めからキリスト教を学ぶ目的で入学したわけではなかった。またジェーンズも、初めはキリスト教の教育を意識的に避けていたように見える。
 開校から3年後に、ジェーンズが有志の生徒に自宅で聖書の講義を始めたとき、30-40人の生徒が集まった。しかし聖書教育を受け入れるか否かかを巡り、生徒の間で議論は2分したといわれる。そして明治8年の冬季休業の頃になり、キリスト教を信じる者が30-40人になって、ようやく連夜の祈祷会と聖書研究会が行なわれるようになったといわれる。(小崎「70年の回顧」18頁)

  当時の熊本藩における士族子弟の教養は儒学であり、保守派(学校派)は朱子学、進歩派(実学派)は陽明学、その他には神風連派があった。しかしそれらがキリスト教の受容をめぐり、どのような対応の違いを見せたかについては、小崎の著書には残念ながら語られていない。

  小崎は、その後、同志社英学校 (神学校)を卒業した後、東京にて新肴町教会、霊南坂教会等を設立。植村正久らと東京基督教青年会を設立。会長に選任される。1880(明治13年に機関紙「六合雑誌」を発行し、一般思想界に大きな影響を与えた。1883(明治16)年に「東京毎週新報」を発刊してキリスト教の啓蒙と宣教に奮闘した。主要著書に此処にあげる「政教新論」(1886:明治19)がある。

 明治政府は、当時(=明治10年代)、江戸時代以来の儒教主義と新しい欧米思想の間に立って、思想的に動揺を続けていた。「政教新論」によれば、「明哲なる我政府にも大いに窮する所ありけん。其為す所を見るに、其主義常に変転して定まらず。或は泰西の修身学を用いんとし、或は旧時の儒教主義に復らんとし、或は一旦儒教主義に倚るべしと定むるも姑くして復之に躊躇するがごとき姿なきあたわず」という腰の定まらない状況にあったと記されている。
 そして国民の大部分は、まだ江戸時代以来の旧世界の中に眠っており、その一方で不満士族の間には自由民権運動の嵐が吹きすさぶという状況にあった。

●「政教新論」の概容 ―明治初期の儒教・キリスト教の理解
 このような状況の中で、キリスト者の立場から江戸時代の社会法としての儒教批判を行なったのが、1886(明治19)年に出版された小崎弘道の「政教新論」である。その小崎による儒教批判の概容を以下にあげる。
 しかしそこでは儒教が朱子学と陽明学に区別して論じられているわけではなく、またキリスト教もカトリックとプロテスタントに分けて論じられているわけでもない。

  そこでは江戸時代以来の古い社会思想である儒教が、明治の新時代の新しい思想的ニーズに応えられなくなっている段階において、キリスト教以外には明治の新しい政教のニーズに応えられないことを説いた書である。そこでの儒教、キリスト教についての解説はきわめて大雑把であり、現代の思想的論争には耐えられるものではない。 

  しかしその直後の1889(明治22)年に大日本国憲法が成立し、1890(明治23)年に忠孝を軸とした教育勅語がつくられて、日本的儒教と欧米の絶対主義体制を組み合わせた日本の絶対主義が確立する。
 小崎の書は、その前段階における儒教、キリスト教のレベルを知る内容となっている。そこでその先駆的な論考を以下、できるだけ忠実に要約し紹介してみる。

  ▲儒教の性質

  1. 儒教は一種の社会法であり、現世宗教のようなものである。その目的は、国家の治安、天下の太平にあり、致知格物(物事の原理を窮めること)は、国家治安、天下平定の道具に過ぎない。わが国では儒教における修身、政治の部分だけを利用しているものの、それは儒教の主旨を誤解したものであり、儒教は修身、政治の一体化したものである。
  2. 儒教における社会組織は、上下、貴賎、尊卑、治者被治者などの区別を明確にし、秩序化したものである。
  3. 社会組織の整頓方法も簡単であり、徳教礼楽刑政であり、徳教礼楽が本で、刑政が末を為している。
  4. 社会の整頓方法はこのように簡易であるが、社会の中心の君主に人を得ない場合には、蒸汽機関や機関士のない蒸汽機関車のようになる。そのために儒教では、聖賢の君主を得ようと努力するわけである。
  5. 天下の宗教、哲学は、すべて理想社会を目的としている。プラトンの共和国、仏教の涅槃、拝火教の光明国、ユダヤ教、キリスト教の天国など、すべそれである。これらの宗教、哲学の、理想社会はすべて未来か、または幽冥の世界にあるとしている。これに対して、儒教では理想社会は過去にあったものとしており、学者士人の畢生の目的は、古代の理想社会の回復にあるとしている。

 ▲儒教の利害1

  1. 儒教は高遠邃遠なる理を思弁することを避け、実地実際の行いを尊ぶ。その目的は、国家の治安にあり、直接、これに関係ない思弁や思索はつとめて是を避け、ただ実地実際のことのみを勧奨する性質をもっている。そのため、現在目前のことにつとめる性質をもっている。
  2. また儒教は、現世に対する楽天主義によって立っている。それは古の聖賢が一身を修め、国を平定することを平易であると考えていることからもわかる。プラトンの共和国、トマス・モアの「ユートピア」など、西欧の理想国に比べて遥かに楽天主義の哲学である。
  3. 儒教では単純な道徳教により人心を維持することは困難と考え、政教を一にしてその目的を達成しようと考えた。この政教を一致させて国家真正の治をはかるのは、キリスト教天国における天国の教旨に符合するものである。
 ▲儒教の利害2
  1. 儒教における政教一致の説は、一応、尤もな説と考えられる。しかしこれを実地に移すことは非常に困難である。まず王者名君が常にいるとは限らない。聖賢が仮にいても、実際に位を得て道を行なうことは容易ではない。祭政一致などは儒者の妄想空夢である。
  2. 儒者がこのような妄想空夢に陥った理由は、楽天主義からきた誤解である。王者名君を得ることは、それほど困難ではないが、天下の太平は容易に得られるものではない。
  3. 政教一致の儒教主義を、今日、排斥せざるをえないのは、王者名君が得難いだけでなく、文明の発展に対する理が得られないことである。儒教主義の制度では、一個人は一国に吸収され、人民は君主や政府の政有物のごとくなり、人々は一個人の権利も自由も得ることはできない。人民の権利と自由がなければ、社会の進歩はありえない。

 ▲儒教用ゆべからず
 このように江戸時代の日本において国教として行なわれてきた儒教は、いまや時代に合わなくなり、西欧の合理主義に置き換えられた。それにも関らず、道徳は儒教によるしかないとする主張がある。小崎はこの議論に反論する。

  1. 儒教の徳教は、政治と裏腹で成立しているものであり、そこから道徳学のみを利用することは全く意味がない。それは生きた人を、手足を切って使うようなものである。
  2. 儒教は一種の社会法であり、その社会にこそ必要なものであり、社会が変れば、父子、君民、夫婦、男女の関係も変わらざるを得ない。明治の新日本にはいるとき、旧日本の道徳を維持することは、大人に子供のオムツをつけさせるようなものである。
  3. 社会道徳から離れて、哲学としても儒教は文明世界に生きられなくなってきている。陰陽五行をさしおいても、性理道徳にもそこに新しい思想はない。インド哲学に比べても数等劣るものである。では儒教はすべて追放したほうが良いかというと、万事に誠心誠意を本とするところなどは、遺しておいても良い。

 ▲儒教とキリスト教
 世界の宗教を大別すると、自然宗教と天啓宗教の2種の外にはない。一つは人より出て人の工夫にて神を求め絶対に達せんとするものであり、またいま一つは神より出て神の方法で人を求め、是を救わんとするものである。前者が仏教、バラモン教、フイフイ教などであり、天啓宗教はキリスト教が唯一のものである。
 自然宗教は一時一代の仮教であり、完全終極の教えである天啓の宗教の階梯準備に過ぎない。それはユダヤ教がキリスト教の階梯小学たる所以である。自然宗教は、一神教、多神教、汎神教などいろいろあるが、すべてキリスト教にいたる階梯準備である。

  1. 儒教がキリスト教に対する階梯であることも同じであり、道徳教は吾人をキリスト教に導く師伝にすぎない。儒教第一の準備は消極の点にあり、律法がユダヤ人におけるのと同様に、一般人に罪悪の深さを教え知らしめる力のある教道の必要性を悟らせることにある。
  2. ユダヤ教にては、律法儀式予言がことごとくキリストを指しており、これが実現の記号標章となる。儒教もキリスト教の記号標章が少なくない。それはキリスト教の積極の準備と称すべきではないか。
  3. 儒教では、教化の中心をなすものは君父である。仁慈は君父より臣子に対する教えであり、忠孝は臣子より君父に向って尽くすべき義務である。キリスト教では天国の中心教化の根本をなすところのものは上帝であるキリストである。しかして神人間の教えと称すべきはただ愛の一つである。

 この両教の優劣関係を知るのは容易である。道徳を教えるのに空理をもってせず、感化力と権威とを有する生けるものを以ってその中心とすることは同じでも、儒教は不完全であり、キリスト教の準備を為すに過ぎない。

  師伝は、幼年の時にのみ必要である。記号標章は真実の実体あることを示すだけである。ユダヤ教がキリストが出現するまで必要であったように、儒教もまたキリスト教が出現するまで必要であった。従って、真教であるキリスト教がきた今、儒教者の多くはキリスト教により宿望宿願を達し、その救いを得ることである、というのが、小崎の論考の結論である。(現代日本思想大系6「キリスト教」筑摩書房、所収)

●小崎弘道「政教新論」を考える
 
小崎の儒教論は、儒教、仏教などすべての宗教や道徳論は、キリスト教にいたる一階梯に過ぎないとする極論であった。小崎弘道の「政教新論」が出版されたのは明治19年。明治18年に自由民権運動が終わり、明治22年に大日本国憲法が制定されて、日本国が「忠孝」を柱とする日本的儒教と欧米の絶対主義的政治体制として統合される前に発表されたものである。

 この小崎の儒教論については、隅谷三喜男氏による「絶対主義の政治思想とキリスト教 ―小崎弘道「政教新論」をめぐって」(隅谷三喜男著作集第8巻所収)という論文がある。そのなかで隅谷は、明治14-18年を、自由民権運動が終わり明治絶対主義体制が急速に整備されつつあった反動期として捉えている。その段階においてキリスト教の伝道も再び種々の障害に遭遇するに至っていたと述べている。その意味で小崎の著書は、「反動と開化の2つの時代を背景として現れたものであった」(同上書、118頁)。

 小崎は、同上書において、明治の「新日本」の建設において変革すべき政教におけるキリスト者の役割、とくに国家、愛国心の問題を論証しようとした。そこで取りあげた題材が、儒教であったわけである。そこで「民治政治の考えあらざる」日本社会においては、「天子は即ち日本なりしと云て可也。彼の天下は天下の天下にあらずして、一人の天下なりとは実にそれ是を言うや」と小崎は書いている。

 そしてそこで明確に小崎は政教の分離を主張した。「泰西の新学問入り来るにおいて、政教は一致に非ず、之を分離せざるべからず、治国平天下、誠意正心は一途にあらず、別途なりとの思想起こり、(中略)政治家たる者は宜しく宗教にて独立すべしとて、宗教のことを論ずるには、予め己は政治家たるが故宗教には関係なきことを明し、己の宗教に淡白なるを誇るを常とす。」

 明治初年以来、明治の絶対主義政府は、儒教主義と欧米思想の中にたって動揺を続けてきたことは前章で述べた。その中で政府は、明治15年以降、日本的儒教主義による社会倫理の回復を図りつつあった。
 明治15年の「幼年綱要」、明治23年の「教育勅語」において、明治政府は「忠孝」を柱にした日本的儒教思想を明確に打ち出した。小崎の論考は、このような日本的儒教思想をとり入れることにより、明治政府の政教の柱にしようとしている時期に、それを儒教の一般論に置き換えて批判を展開したものと見られる。

 隅谷氏によると、明治初期におけるキリスト者の社会的課題は、絶対主義との戦いとブルジョア民主主義の確立にあったといわれる。それがウィリアムスが待望した「第3階級」である。
 しかし当時、既に帝国主義段階を迎えていたヨーロッパでは、社会主義運動が展開される時代を迎えていた。小崎は、日本における最初の社会主義解説者になった人物とされるが、この段階における日本の社会的課題は、まだ民主主義こそ革命思想であり、進歩の担い手であるとしていた。その立場から、小崎はキリスト教の進歩性を説いたとされている。

 人はすべて神の前に罪人であり、キリストの贖罪の対象と成る。その故に、世俗における貴賎に関り無く自由・平等であるというのが、小崎の信仰が教えるところであった。このようなパラドックスのなかで、彼は民主主義の不動の位置を見出したといわれる。
 敗戦を経て、なおかつ日本の民主主義は微弱であり、教育勅語や君が代の精神は、いまなお日本社会をその深層において支配しており、小崎の論文がいまも生きるのはそのためである。




 
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