(1)運命の糸で結ばれた日米関係? (その2)
●人や米の援助は要らない、金だけくれ!(閣議決定)
9月2日、アメリカ陸軍省から日本への出動命令を受けたフィリピン駐屯軍司令官ジョージ・リードは、自ら輸送船に野戦病院を乗せて日本に向かった。これを日本で待ち受けたのはフィリピン駐屯陸軍軍務局長フランク・マッコイ少将であった。これにアジア艦隊司令長官アンダーソンとウッズ
駐日アメリカ大使が日本で顔を揃え、災害援助活動に乗り出した。
アンダーソン司令長官は、8日に日本外務省顧問ムーアと会談し、アメリカの意向と彼の任務を日本の外務省に伝えていた。
その内容は、(1)日本政府に奉仕し、アメリカ政府と国民の同情と友愛を示すこと (2)必要に応じて、極東地域にいるアメリカの軍艦及び商船が、無線の便宜を図り、避難民や物資の輸送、近隣諸国からの食料物資の調達輸送をおこなうこと (3)必要に応じて、これらの物資は日本政府に支払いを要求せずアメリカが支払うこと (4)日本政府から特別な要求のない限り、物資の陸揚げに関するすべてを実行すること という4点であった。
アメリカの救援船は、9月6日にサンフランシスコを出港した「プレシデント・タフト」号を皮切りに続々到着し、20日までに日本に来航したアメリカの船舶は19隻にのぼっていた。
その後も物資を積んだ商船が続き、アメリカの救援は社交辞令を遥かに超えた本格的な救済活動であることを示した。
ところがこれを受ける側の日本政府の方は、非常に複雑な対応に迫られ始めていた。まず横浜港は震災により大被害を受けて船舶の受け入れが困難になっているところへ、アメリカを初めとする多くの国々の救援船が入港し始めた。そのため、その受け入れが困難になったことである。
そこでアンダーソン司令官は、港湾施設を整備するために、アメリカの掃海艇を派遣しても良いと申し出たが、日本はこれを断った。そして9月11日には、日本海軍は、当初は黙認していた外国船の品川回航を控えるように外務省に要請してきた。
驚くべきことに、この段階において外国船が自由に入港できる日本の港は、幕末に開港した函館、新潟、横浜、神戸、長崎に限られていたことを、日本人自身が改めて思い知らされたのである。
東京の芝浦、品川は、国防上の理由から、外国船を入れない不開港港であり、更に横浜から湘南地域は大要塞地帯であり、外国船の立ち入りを一切拒否していたのである。
震災発生から10日経った9月11日、政府は閣議で外国からの援助について次ぎの3点を決めた。
(1)米を除く食糧ほか物資の提供は喜んで受ける。ただし事前に交渉がある場合には、日本から希望を出す場合もある。
(2)人員派遣は『言語風俗等の関係上錯綜をきたす虞』れがあるため辞退する。ただしすでに出発したものについては外務省が適宜措置をとる。運輸船舶の提供も同様に辞退する。
(3)被災地の『秩序安寧を保持するにおいて緊要』のための船舶入港は、日本側で調査の上、乗員の上陸陸揚げを行う。
義捐金については何もいっていないので、文句なしに喜んで受け入れる方針であったことが分かる。最近の国際的な支援活動に対して、日本は金だけ出すが人を出さないとしばしばいわれる。しかし上記の閣議決定を見ると、日本は援助を受ける立場になった場合でも、金だけの援助で人による援助は嫌がっていることがわかる。物資の援助についても、米の援助ははいらない、と注文をつけている。米価への影響を懸念してのことであろうか?
この外国の援助要求の方針をアメリカに対しても適用するかどうかで、政府内の意見が分かれた。既にアメリカは東京、横浜で病院などを建設し、大規模な救援活動を展開していた。結局、19日になり、アメリカに対しては例外的に東京築地と横浜との間で駆逐艦1隻の運行を許可した。
人の援助についても、フィリピン駐屯軍と赤十字のスタッフからなるアメリカの救援団は、東京の聖路加病院跡地と横浜に仮設病院を建設する活動に着手した。
この場合、アメリカ軍のマッコイ少将は、日本政府の通告を受けて、細かい配慮をしている。つまり武装兵士の上陸と武器の陸揚げを禁止し、護衛を必要とする場合には、日本側に派出を要請し、言語・風俗の相違からくる誤解の発生に極度に配慮を示した。
それにも拘らず、横浜への病院建設では、市側は病院の敷地がないことから、「目下その必要なし」といって、間に立った日本海軍を困らせるような事態が起こっている。
しかしともかくも、9月25日にはベッド数750床の横浜テント病院が完成して日本赤十字社に引き渡され、10月11日には東京の聖路加病院跡地にベッド数400床のテント病院が作られ、トイスラー院長に引き渡された。
更に、この救援団により最大規模の病院が、麻布の高松宮邸内にも作られた。
10月11日、日本におけるすべての仕事を終わった米国救護団一行301名は、関西地方を観光旅行して、神戸からフィリピンへ帰国の途についた。
日本政府は関西地方の県知事に一行の歓迎を依頼すると共に、鉄道省は運賃無償で一行が観光旅行できるようにはからった。一行は大坂では130台の車を連ねて観光し、大坂中央公会堂において盛大な晩餐会がおこなわれた。
●関東大震災におけるアメリカの援助活動をどう評価するか?
関東大震災に対する国際的援助活動については、その他にも多くの国々が日本の救援に乗り出していた。しかしアメリカのそれは、規模において群を抜いて大きいものであった。その概要については、日本の陸軍参謀本部が『震災に対する各国の同情と之に対する観察』という報告書を9月22日付けでまとめている。
この報告書の中でアメリカの援助の特色として、政策決定の早さと的確さ、活動の展開の規模と大量物資の援助に加えて、アメリカの活動においては『物資供給に売恩的態度なく』、日本側の『神経に触れざらんこと』に留意した「真面目にして緊張」ある救援活動であった、と記している。
この日本への救援活動に先立つかなり以前から、アメリカの特に西海岸を中心にした排日運動が盛り上がり、アメリカ全土に展開する動きを見せていた。
それは20世紀初頭の労働組合大会において、日本人の移民阻止が決議されたことから始まった。1913年には日本人移民の土地所有を禁じる外国人土地法が制定され、更に、20年にはアメリカ市民である在米2世にも土地所有の禁止を拡大する「イルマン法」の修正案が、カリフォルニア州で成立した。
そして関東大震災の翌年の1924(大正13)年12月5日には、アルバート・ジョンソン下院議員が、日本人移民の規制をねらいにした『排日移民法』と呼ばれる移民制限法案を下院に提出した。
この法案は、その第10条で、1890年の合衆国人口調査で定められた外国生まれの各国の居住人口の2%に200人を加えた数を、移民の割り当て数とするものとしていた。1890年当時には日本移民が殆どアメリカにいなかったため、この法律は日本人の移民を、事実上アメリカから締め出すためのものであった。
当時、上院にはこのジョンソン法案とはかなり内容の異なるリード議員の法案が提出されており、日本の外務省はジョンソン法案が通ることはないと考えていたようである。
ところが1924年4月14日、日本移民排斥条項を含む新移民法は、わずか5分の討議と322票対71票という大差で下院を通過した。更に、移民に関する日米の紳士協定の存在や、植原駐米大使のヒューズ国務長官宛ての書簡が巷間に伝えられ、状況が変化した。
その結果、開催された上下院による両院協議会において5月6日に表決が行われ、下院案が採択されて、7月1日に新移民法を実施することが決定した。
この『排日』移民法は、日本に強い衝撃を与えた。クーリッジ大統領は苦悩し、上下両院も日本政府も納得できる折衷案を考えたようであるが、それも失敗に終わった。そして大統領は5月26日午前11時、新しい移民法案に署名し、法案は7月1日に発効した。
日本はこの悲報に衝撃を受け、大統領に裏切られたと思った。『排日』移民法の成立に対して、日本人は朝野を上げて怒り、それは第2次世界大戦につながっていく排米感情の高まりを見せ始めた。
大正13年6月30日、増上寺から上野公園にデモ行進をした市民は、対米同志会の名でもって排日法が実施される第1日の7月1日を『米禍記念日』と定め、宣言文を発表した。
そして翌日の東京朝日新聞もまたこれを伝え、「迸る悲憤の叫び、忘れえぬ米禍の日」と書いた。関東大震災の救援活動に対するアメリカへの感謝の気持ちは吹き飛んでいた。
更にここで不思議なことは、排日移民法の創始者のアルバート・ジョンソン氏は、排日運動の巨頭として知られる人物であるが、関東大震災の救援活動においては「手の裏を返したように日本救助の急務を説いた」(「大正大震災大火災」216頁)といわれている。
つまりアメリカの戦略と善意は、縦糸と横糸のように組み合わさって歴史の中を織り成しており、その見事な例が関東大震災を通じて見られる。
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