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(2)中東の石油とアメリカ
★中東の石油
 イギリス人が、はじめて中東のペルシャ〔現在のイラン〕の石油採掘権を取得して、油田の開発を始めたのは、20世紀の初め、1901年のことである。その後、イギリス、アメリカ、フランスの企業がオスマン・トルコ〔現在のイラク〕の石油採掘権を目指して競争を始めた。当時、石油採掘の利権料は安く、排他的な採掘権を獲得して競争を排除したので、開発に成功した企業は莫大な利益を出すことが出来た。

 第2次世界大戦後、クウェートとサウジアラビアの油田の開発が進み、「中東」は世界最大の原油供給地域に発展した。2000年末での原油埋蔵量は、全世界で10,640億バーレルと推定されるが,そのうち中東が64.2%で世界最大の産油地域である。ちなみに戦前は、世界の原油生産と消費の60%を占めていたアメリカの原油埋蔵量は、現在では、北米・南米合わせると世界第2位で15%を占める。
 さて中東の石油埋蔵量の第1位は、サウジアラビアであり世界埋蔵量の24.6%、第2位がイラクで10.6%、第3位がUAE(アラブ首長国連邦)で9.2%、第4位がクウェートで9.1%である。

 アメリカにとって、中東の第一の産油国サウジアラビアは、アメリカ系メジャー(国際石油資本)の最も強い地域であるだけでなく、米軍が基地を置いて守っている関係にある。また、クウェートは湾岸戦争による貸しがあり、アメリカには頭が上がらない。従って、今回、イラクに親米政権ができれば、中東と米国合わせて、世界の原油の6割をアメリカの支配下に置くことが出来ることになる。つまり石油についてアメリカは、戦前と同じくらいの影響力を世界に対して持つことになる。

★サウジアラビア
 サウジアラビアは、世界第一の産油国であるが、中東のアラブ世界の中で唯一ヨーロッパ諸国による植民地支配を受けなかった。1927年、イブン・サウドは、イギリスと同盟条約を結び、1932年にサウジアラビアを統一し、建国を宣言した。

 国王となったイブン・サウドは、1933年に、アメリカのカルフォルニア・スタンダード石油〔後のシェプロン〕に石油採掘の利権を供与した。この国の巨大な油田を開発するには、同社の販売網では不十分であったため、36年にテキサス〔後のテキサコ〕、47年にはニュージャージー・スタンダード(現エクソン・モービル)とソコニー・バキューム(現エクソン・モービル)が参加した。つまりアメリカ系メジャーは、すべてサウジアラビアに拠点を置いていたことが分かる

 1973年1月、「リヤド協定」により、サウジアラビア政府は、アラムコ(旧カルフォルニア・アラビアン・スタンダード石油)に対する25%の資本参加を実現し、その年秋の「石油危機」をへて、1974年には60%の資本参加を実現した。1979年には完全国有化を76年に遡って実施することで合意が成立した。

 さて欧米系の国際石油資本が保有してきた石油利権に対して産油国が参加することにより、資源主権の確立を図りはじめたのは、1960年9月のOPEC(石油輸出国機構)の創設からである。この機構は、サウジアラビア、イラン、イラク、クウェート、ベネズエラの5カ国により創設された。
 73年の中東戦争においてOPECは、基準原油価格の大幅値上げを決議し、74年1月1日から一方的に実施した。このことによりOPECは、石油価格の決定権を掌握すると共に、資源主権を確立し、石油利権の奪還に成功した

 サウジアラビアが、アラムコなどアメリカ系メジャーの石油利権を一挙に接収した背景には、このような中東における資源ナショナリズムの高揚があった。このことによりサウジの石油収入は、それまで毎年40億ドル未満であったのが、石油危機後には一挙に200-300億ドルという巨額に膨れ上がった。

 サウジアラビアは、現在でも君主制をとっているが、中東の多くの国では、王政が既に壊れている。52年にエジプトではナギブ将軍の軍事クーデターにより王政が転覆した。58年にイラクでは軍人たちが国王を殺害し、エジプト型の民族主義政権に転換した。57年にヨルダンではソ連よりの将校たちによる王政の転覆が失敗した。イランでは、79年にイラン革命で王政が終焉している。

 サウジアラビアでも、52年には油田労働者による労働運動が発生したし、55年には軍によるクーデター未遂事件がおこっている。このような政治状況を心配したサウジの王家は、石油危機以降の厖大な収入をアメリカからの近代兵器の調達と米軍の軍事基地の建設にあてた。たとえばクウェート市から南西に300キロほど離れた場所に作られた「ハリド国王軍事都市」は、実は6万5千の兵力を擁する米軍駐留基地の町であるという。(田中宇「イラクとパレスチナ アメリカの戦略」(光文社新書))

 サウジアラビアは、巨大な石油収入を利用したアメリカからの軍需物資の購入と、米軍の駐留により、王制を国内の軍隊によるクーデターから護る。それと同時にアメリカも、自国の軍需産業や石油産業の利益を確保できる王家とアメリカの共存関係にあるといわれる。

 更にサウジは、上記のハリド国王軍事都市のほかにも、メッカや、南のイエメン国境近くにも新しい基地を作り、アメリカから高価な設備を購入して軍事産業を喜ばせた。また石油産業は政治資金を提供して、アメリカ・サウジの関係は、極めて緊密になっていた。

★オサマ・ビンラディン
 同時多発テロの首謀者といわれるオサマ・ビンラディンが出た「ビンラディン家」は、サウジ政府の公共事業を受けて大きくなったサウジ最大の建設会社「サウジ・ビンラディングループ」の一族である。そしてサウジのサウド国王の大番頭ともいわれている。

 ビンラディン家は、ブッシュ大統領一族と非常に似た面があり、実際にかかわりもある。ビンラディンもブッシュも共に、サウジアラビアからの間接的な政治献金により政界への影響力を強めてきた。また、現在のブッシュ大統領が、父親の庇護の下、最初の会社である石油会社「アルプスト・エナージー」をテキサスで設立した時、ビンラディン家が出資をしていたといわれる。(田中宇「前掲書」)

 このビンラディン家出身のオサマは、ソ連がアフガニスタンに対する介入を強めた1978年にムジャヘディン・ゲリラを支援するためにアフガニスタンにやってきた。当時、サウジアラビアをはじめとする中東諸国のイスラム教徒たちの中では、ソ連に侵略されたアフガニスタンを救えというキャンペーンが展開されていた。そして多くの若者たちが、アフガニスタンに行って、ソ連軍と戦うことを志願した。

 これらのキャンペーンは、アメリカの同盟国であったサウジアラビアやパキスタンが率先して行い、志願兵となった若者たちは、アフガニスタンやパキスタンにあったアメリカのCIAが運営する訓練センターで訓練を受けた。
 この際ビンラディンは、豊富な資金を使ってこのプロジェクトに協力した。彼はアフガニスタンの「イスラム聖戦」への志願兵を募る事務所をイスラム教徒の多い国に設立し、軍事訓練をする事業を手がけた。

 1989年にソ連軍がアフガンから撤退した後、ゲリラ同士の内戦にいやけがさしたビンラディンはサウジに帰って、一族の会社経営に復帰した。しかし90年に湾岸戦争が始まると、彼はアフガン帰りの元兵士を率いてクウェートの国境に塹壕を掘り、イラク軍と戦う計画をたて、国防相であったサウジの王子にもちかけた。
 ところがサウジの王室はビンラディンの作戦では、生物化学兵器をもったイラクに勝てないと考え、米軍をサウジ領内に駐留させた。

 ビンラディンは、聖地メッカを擁する祖国の防衛を異教徒であるアメリカの軍隊に頼った王室とアメリカを非難して、その演説をモスクで行った。この演説に対する支持者が多数現れたため、驚いたサウジの政府はビンラディンを拘束し、ジェッダの自宅に軟禁した。
 サウジ政府は、91年にビンラディンを国外追放し、そのため彼は、家族や支持者たちと共にエジプトの南にあるイスラム国スーダンへ亡命した。

 スーダン政府は、イスラム原理主義を掲げており、ビンラディンの思想に共鳴して、イスラム過激派の人々を積極的に受け入れていた。スーダンで最も有力なイスラム指導者ハッサン・トラビは、アフガン戦争へも参加して、ビンラディンとは親しい関係にあった。その後、スーダンは、アメリカと関係改善を望む政権に代わり、ビンラディンは、1996年にスーダンからも追放され、アフガニスタンに移った。

 ビンラディンによるとされる対米テロの最初は、91年にアメリカ軍が定宿にしているイエメンの軍港アデンのホテルに爆弾を仕掛けた事件である。この時は、米軍の関係者に被害はなかった。次が93年にニューヨークの世界貿易センターに爆弾が仕掛けられ、この時は6人の市民が犠牲になった。

 ビンラディンは、アフガンに移った頃から、アメリカに対する宣戦布告を行い、すべてのイスラム教徒にアメリカ人を殺す「イスラム聖戦」を呼びかけた。この思想に共鳴してアフガン戦争を戦った若者たちが、サウジアラビア、エジプトやヨルダンに帰国後に、「世直し運動」として行われ、いずれも政府に弾圧されて、地下に潜った。

 彼らは、アフガニスタンでアメリカから教えられた軍事技術を活用し、米軍施設の爆破などテロ活動を始めた。96年にはサウジアラビアの米軍施設が爆破され、98年にはケニアなどのアメリカ大使館が爆破された。アフガン戦争時代、志願兵募集のために世界各地に作られたビンラディンの事務所は、その後、「拠点」(アラビア語で「アルカイダ」)と改称され、祖国に戻った後の志願兵たちをつなぐ世界的規模のOB会となった。そしてアルカイダの国際ネットワークは、アメリカを攻撃するテロのネットワークとして再編された。

★イラク
 中東第2の石油大国がイラクである。この国は、第一次世界大戦後にオスマン帝国が崩壊した後、イギリスにより3つの異質の地域を合わせて、人工的に作られた
 この国の3つの地域とは、キルクーク油田に近接する北部のクルド人の居住地域バクダッドを中心とする中部のイスラム教スンニ派のアラブ地域、そして南部のバスラを中心にしたシーア派のアラブ地域である。

 1932年、イラクは王国としてイギリスから独立した。1958年にカセム将軍の率いる自由将校団の革命により共和制に移行した。1961年にイギリスがクウェートの独立を承認すると、イラクは、クウェートはバスラ州の一部でありイラクの領土であると主張して、イギリスがクウェート防衛のために軍隊を派遣したことがある。

 68年にバース党のパクル将軍がクーデターで全権を掌握して大統領になった。サダム・フセインは、パクル大統領の下でバース党の要職を歴任した人物である。そしてサダム・フセインは、79年7月、パクルの引退と共に大統領に就任した。

 サダム・フセインの政権は、ティクリートという町の出身者を中心とするイスラム・スンニ派を主体とした政権であり、上記のイラクの地域構成からすると、中央政権が弱体化すればすぐに分裂の危険にさらされる危険性をもっていた。

 フセイン政権は、その成立の翌80年9月からイラン侵攻に乗り出した(イラン・イラク戦争)。侵攻の原因は、両国間の領土問題にあった。イランは、79年1月に「イラン革命」がおこり、王制から共和制に転換していた。
 イラン革命の自国への波及を恐れた湾岸のアラブ諸国は、イラクに財政援助をした。またサダム・フセインは、イラクの政策を親米に大転換させており、国際的にはイランが孤立化する半面で、アメリカ政府もフセインに好意的姿勢をとり、ミサイルなどの兵器開発に関連する技術や機械をアメリカ企業が売り込むのを黙認した。
 更にイラクは、西ドイツからは化学兵器や核兵器の製造装置の技術、部品、フランスからはミラージュ戦闘機などを購入し、軍備を増強した。

 イラン・イラク戦争は8年間続き、イラクにとりあまり得るものはなかったが、ペルシャ湾をめぐる情勢は大きく変わった。戦争の結果、イランの軍事力は弱まり、国際的に孤立し、ペルシャ湾での影響力を弱めた。その半面で、イラン・イラク戦争により、イラクは軍事力を飛躍的に高め、湾岸諸国に対する新しい脅威となった。しかしイラクも、このことにより増大した軍事費と累積債務に悩ませられることになった。

 この内政に行き詰まったフセインが、打開策として考えたのが91年のクウェート侵攻であった。イラクがクウェートを併合したとすると、原油の埋蔵量はほとんど、世界第一のサウジアラビアのそれに近くなり、一挙に世界の石油のほぼ20%を支配することになる。このことからイラクのクウェート併合は、財政危機の打開と中東諸国に対する覇権の確立を実現する一石二鳥の政策であった。しかもアメリカは、当初、イラクのクウェート侵攻に対して、不介入の姿勢をとっていたのである

 イラクのクウェート侵攻は、湾岸諸国を脅かし、結果的には「湾岸戦争」となり、戦後の中東諸国の安全保障はアメリカに大きく依存することになった。つまりイラクとイランを封じ込めるために、アメリカは、ペルシャ湾岸に空軍・海軍を主体とした「2重封じ込め政策」をとった。このことにより90年代をとおして、アメリカにより湾岸諸国の安全保障が守られることになった。

 湾岸戦争後のイラクは、国連の制裁下に置かれ、国連による大量破壊兵器の査察と米英軍による監視飛行を受けてきた。しかしイラクは、アメリカ主導の国連査察にしばしば不服従の態度をとり、それによりアメリカとの軋轢を生み、米英軍によるイラク爆撃も何度も行われてきた。アメリカは、更に98年以降、フセイン政権を倒すために反政府勢力の支援に乗り出していたが、支援の成果はあまり出ていなかった。

 一方、国際的に孤立したイラクは、90年代末にかけて、アラブ諸国との関係改善につとめ、アラブ諸国では次第に同情の声と共に、イラク支援の動きが出てきて、アラブ諸国との外交・経済関係は改善の方向に向かっていた。2000年夏には、バクダッド国際空港が10年ぶりに再開され、更に、2002年3月にはクウェートが、アラブ首脳会議でイラクとの和解を原則的に受け入れるなど経済制裁は有名無実化していた。

 ところが、ブッシュ大統領が、2002年1月の一般教書演説で、イラン、イラク、北朝鮮を「悪の枢軸」と一方的に名指しで非難したことから一挙に緊張が増した。

★イラン
 アメリカのブッシュ大統領によって、イラクと共に悪の枢軸と名指しされたイランは、1979年1月のイラン革命で王政が倒れ、「イスラム共和国」として成立した国である。イスラム・シーア派の最高指導者ホメイニ師が、亡命先のパリから帰国して支配機構や社会のイスラム化に着手した。

 89年6月のホメイニ師の死後、伝統的なイスラムの教義を奉ずるハーメネイ師と「現実主義路線」のラフサンジャニー大統領による2頭政治が始まった。この体制には、イラン・イラク戦争で荒廃した社会・経済の再建が期待されていたが、十分達成されず、「改革」を求める声が高くなっていった。

 97年5月のイラン大統領選挙で、「自由の拡大」を唱えたハタミ元イスラム指導相が70%の得票で圧勝した。しかしハタミ政権下での4年間に、改革は当初期待されたようには、進展しなかった。その理由は、保守派のハーメネイ師が絶大な権力を持つ最高指導者の位置にあり、立法をイスラムの価値観に応じて審査する「護憲評議会」を支配していたことにある。改革の潮流に危機感を持った保守派は、改革派の政府関係者を逮捕したり、辞任に追い込むようになった。

 イランでは、王政の頃は対米従属的な傾向が強かったが、イラン革命では、極端な反米イデオロギーが革命のシンボルとなった。更に、「革命輸出」政策が、イラン外交の特徴となり、西側諸国や中東諸国の警戒感をまねき、イランは次第に国際的に孤立していった。
 
 反米や「イスラエル国家の解体」を唱えるイランに対して、アメリカは96年8月、国内ユダヤ人社会の働きかけで、イランとリビアのエネルギー産業に投資を行った企業に制裁を課するイラン・リビア制裁法を成立させた。しかしハタミ政権ができてから、現実的傾向が強くなった。

 イランは、天然ガスの埋蔵量は世界第2位、石油の埋蔵量は第5位であり、ソ連の中央アジアやコーカサスのガスや石油を、南アジアやヨーロッパに送出するパイプラインに最も安いルートを提供できる地の利を得ている。このことを考えると、ブッシュ政権としては、イラクの次に、武力をもっても根強いイスラム保守派の勢力を排除したい地域としてイランが登場することになる。 




 
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