アラキ ラボ
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  (6)清水建設(その1)
★入社
 1955年4月1日、私は清水建設に入社した。当時の本社は、東京駅の八重洲口を東へ出て、昭和通りを南へ曲がった左側に、味の素の本社と並んで建っていた。7階建てのビルで、夜になると青いネオンが輝いていた。その頃、名古屋にはネオンの輝くビルはいくつも無く、そのことだけでも私は都会へ来た喜びに満ち溢れていた。

 4月1日の入社式には、清水康雄社長から渋沢栄一の「論語とそろばん」という言葉を紹介した話があった。そこでは資本主義を象徴する「そろばん」と、封建主義を象徴する「論語」という思想が、建設会社の理念として矛盾もなく見事に統一されていて、私は妙に感心していた。
 技術系の社員の採用数は少なく、数日の講習で現場に配員されたが、事務系の社員は4月半ばまで講習があり、その後に配置が決まった。これも通常の企業とは逆であり、そこでも驚いた。

★ フランス大使館
 事務系の社員は、最初の1年は建設業の仕事を知るため現場勤務となる。私は東京麻布にあるフランス大使館の新築工事の現場に行くことになった。戦前の大使館の設計はレイモンドであったが、戦後の建物は、若いベルモンド氏の設計になり、これもまだ若かった菊竹清訓氏が手伝っていた。私は、この現場で設計者、施主、現場の打ち合わせ記録や見積書の翻訳などを担当することになった。

 古川修氏の「日本の建設業」には、現場の仮囲いの節穴を多くの通行人が覗くので、とうとう覗き窓を作って自由に覗けるようにしたというイギリスの工事現場の話しが出てくる。私も外から伺い知れぬ建設業の生産過程に非常な興味があった。
 しかし見積書の作成や打合せ記録の翻訳をやろうとしても、そこに書かれている日本語がまず分からなかった。例えば、その最初に出てくる言葉が、「根切り」、「遣り方」、「水盛り」、「墨だし」等々、まったく理解不能であり、和英辞典を引いても出ていない。
 そこで東工大の建築学科を出た同期の土谷さんから建築の教科書を借り、同じ現場にいた東大建築を出た先輩の笠原さんから実地に教えてもらった。フランス大使館の1年は、その後、社内で事務系と技術系のどちらでもない経路を歩むことになった私の出発点として非常にいろいろなことを教えられた。 私は、事務所にいないで、できるだけ工事現場を経験しようと思った。

 この年の8月、五味川順平の「人間の条件」がベスト・セラーになっていた。私が現場で体験する世界は、そこに登場してくる鉱山や軍隊の世界と極めて似ていた。
 コンクリートは、当時、現場でミキサーを回して作っていた。そこでセメント袋を開けてミキサーに投入する仕事をしていた女性がねこ車に足を傷つけられた。女性は出血する足をタオルで縛って仕事を続けた。
 ちなみに当時の建設現場では、女性が重要な仕事をいくつも担っていた。セメント袋を開けてミキサーに投入するのは、「空袋屋」と呼ぶ女性の仕事であった。翌日、その女性は病院でアキレス筋の切断と診断された。工事現場の証明がないと、労災の適用が受けられないので、現場主任に証明を頼みにきたわけである。
 しかし主任は、現場の無災害記録に傷がつくため、どうしても証明をしてくれない。私は、事故の一部始終を見ていた。私がそのことをいえば、主任は証明書を出さざるを得ない。しかしその後で、私は大目玉を食うであろう。新入社員の私は体がふるえていた。

 型枠の釘が足に刺さって職人が事務所に担ぎ込まれる事故は、ほとんど日常的な風景である。釘といっても2寸とか3寸という長さで、かなり深く刺さる。これを「踏み抜き」という。放つておくと化膿するので、傷の奥深くまで、真っ赤に焼いた火箸を突っ込む。大の男が「ギャー」と叫んで殆ど失神する。この程度の怪我は、災害の仲間には入らない。当時の工事現場は、ほとんど毎日が戦場であった。
 
 その後、とうとう死亡事故が起こった。若い土工が、コンクリート・タワーを覗いているところへ、バケットが下りてきて頭へぶつかった。すぐに近くの病院へ運んだが、ほとんど即死であった。病院の霊安室に寝かされている遺体の、汚れた地下足袋が悲しかった。

 冬、フランス大使館では、美しく飾りつけが行われ、静かなクリスマス・イブを迎えていた。その中で、私たち現場の人間は、関係なく資材の搬入をしていた。大使館の人々からは、「本当に、大変ですねー」とねぎらいの言葉をかけられて、私たちはマッチ売りの少女になったような哀れな気持ちになっていた。

★建築工務部と新しい工程管理
 経済白書が、「もはや"戦後"ではない」という名文句を書いた1956年の4月、私はフランス大使館の現場から、本社の建築現業、工務部統計課に転務になった。
 工務部の機構は、積算・見積課、工務課、庶務課、統計課からなっており、統計課は、現場の原価管理を行うセクションであった。
 建設現場の原価管理という性格上、この課は現場の事務に精通した少数のベテラン社員から構成されており、私のような新米社員が本来、行くところではなかった。

 私は、現場から当時、原価管理の神様のように思われていた超ベテラン社員の朝比奈さんの指導の下で、現在の価格でいえば3000億円クラスの超大型現場の原価管理を2つも担当することになった。

 当時、私は毎週、大久保にあった建設省建築研究所の古川研究室へ行っていた。その後、京都大学の教授になる室長の古川さんは、建築のハードウェアの研究が主流である建築研究所の中で、1946年から建築経済という新しい分野の研究室を立ち上げていた。
 そこで私は、1960年代の初めに、アメリカで新しい数学的な工程管理の技術が開発されたことを知った。しかし古川さんも私も、まだその実体がどのようなものであるかは、まったく分からなかった。

 私は、その頃、会社が終わってからソ連政府が東京に開設している「日ソ学院」へ通ってロシア語の勉強をしていた。その理由は、当時のソ連では、数学や統計的管理技術が非常に進んでおり、経済の技術と合わせてその研究をしたいと思ったからである。その感は当り、1957年8月、ソ連はICBMの実験に成功し、10月には人工衛星スプートニクの打ち上げに成功した。
 このロシア語の習得とソ連の実験成功が私の人生に多大な影響を与えることになった。

 米国はこのソ連のスプートニクの成功に大きな衝撃を受け、世界的な対ソ軍事戦略の全面見直しを迫られていた。米国にはまだICBMがないので、ソ連のICBMにより米本土の攻撃を受けた場合、世界中に配置した潜水艦による報復攻撃を行うシステムに切り替えざるをえなかった。

 しかもこの切り替えは、非常に短時間で行う必要があった。米海軍がこの要請に応じて新しいシステム開発の工程管理の技術として開発したのがPERT(Program Evaluation & Review Technique)であった。
 その概要は米国のOR学会の機関誌であるJORSAに1958年に発表されていたが、当時の私たちには簡単にJORSAが入手できる状況になかった。そのため日本のビジネスにPERTが応用されるまでには、まだかなりの時間を必要とした。。

 私は、当時、企業のOR(オペレーションズ・リサーチ)のセミナーを行っていた経営工学協会にたのみ、ORの立場から建設業のための「新しい工程管理技法―PERT/CPMの理論と実際」というセミナーを開催してもらったのは、1963年7月のことであった。

 はじめてのPERTのセミナーなので、建設業以外の一流企業からも多数の人が参加し、セミナーは成功裏に終了した。その一方でスタンフォード大学で建築の工程管理にPERTが応用されている状況を勉強してきた大成建設の社内ツアーに対して、建設業のためのセミナーをお願いしてご快諾を得た。その大成建設の研究の成果は、1964年に加藤昭吉「新しい計画と管理の技法―PERT/CPMの理論と実際」として経営工学協会から出版された。

 この年、日本では、PERT/CPMの著書が一斉に発売され始めて、新しい数学的な工程管理の導入が日本中で始まった。清水建設では、1965年4月に、「新しい工程管理手法の手引き」を社内で出版し、従来と全く異なる新しい建設の工程管理が始まった。

★人事部給与課と統計的方法
 1959年春、私は人事部給与課に配転になった。人事部は、人事、給与、教育の3課からなった。清水建設は、建設企業としては当時、日本一の大企業であったが、それにも拘らず人事部には、スタッフ、ラインの機能が未分離のまま両者が混在していた。
 この頃、清水建設ではようやく近代的経営への脱皮が始まっており、特に古い土建屋的人事諸制度をすべて見直し、改定する必要に迫られていた。そこで人事のスタッフ機能を拡充するため私が配員されたようであった。

 給与課に配属された初日から、資材工場の工員の給与改定の案を作らされた。ところが改定案を作るに当たっての、ポリシーも基準も方法も全く存在しなかった。
 担当者にそのことを尋ねたら、それらのポリシーや基準を含めてその日の内に提案せよ、ということである。

 工員の人数は多くはないが、それでは給与改定案の作りようもない。特に給与の決定に当たっては、単に賃金の思想だけでは何の役にもたたず、「労働の質」を賃金という「数量」に転換する数学的技術が必要であることを痛感した。
 このことが後に、品質管理や統計的方法の導入に道を開くことになった。

 当時、企業の生産部門では、統計的品質管理が導入されていた。しかし人事管理に品質管理の思想を導入するところまでいっている企業はなかった。そこで私は、品質管理の考え方や方法を人事管理に積極的に導入しようと思った。
 増山元三郎氏の東大経済学部における講義録である「推計学への道」や、医学部での業績をまとめた「少数例のまとめ方」、小学生を対象にしてサンプリングや実験計画の考え方をやさしく解説した「数に語らせる」など、非常に教えられることが多かった。
 
 これらの考え方を基礎にして、人事管理の新しい方法を開発して、労務系の雑誌に発表したが反響がほとんどなかった。ところがそれがきっかけとなり、技術研究所へ配転になった。





 
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