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(3)切り投げされた道路公団の民営化

●抵抗勢力(=道路族)の登場
 その1年前の12月10日、「高速道路建設推進議員連盟」が民営化委員会の意見書を厳しく批判する文書を自民党幹事長に提出していた。そして翌03年の4月16日には、藤井治芳・日本道路公団総裁が、数人の側近と外部の経済人で秘密会を開催し、有力財界人に「ウラ顧問」を委嘱したことを雑誌「選択」5月号がスクープして、マスコミは騒然となった。民営化委員会に対する道路族によるかなり露骨な巻き返しが、このころから表面化し始めていた。

 5月16日の朝日新聞は「債務超過の財務諸表の隠蔽」を報道したが、7月にはいると、改革推進の立場にたち、委員会の事務局にも出ていた片桐幸雄・日本道路公団四国支社副支社長が、「文芸春秋」の8月号に、「藤井総裁が2002年7月に、債務超過になっていた企業会計基準ベースの財務諸表を隠蔽した」事実を、公団の内部からスクープした批判論文を掲載した。

 当然のことではあるが、藤井総裁はこの事実を否定し、片桐氏は支社調査役に左遷する処分を受けた。この際、扇国交相は藤井総裁を擁護する立場にまわり、マスコミは藤井総裁を道路公団民営化の抵抗勢力として糾弾して、世を挙げての大騒ぎになった。
 9月22日の総裁選では小泉自民党総裁が再選されて、内閣改造が行なわれた。この改造により、担当大臣でありながら道路公団民営化委員会には一度も出席せず、藤井総裁の擁護を続けていた扇千景大臣は、行革大臣から横滑りした石原伸晃大臣に代わった。

 石原伸晃国交相は、10月5日の日曜日に大臣室に藤井総裁を呼び、夕方まで辞任を迫ったが説得に失敗した。当日は、民主党が党大会を開いており、その日曜を選んだのは、マスコミの注目を民主党からそらすことにあったといわれた。しかしその説得は失敗し、藤井総裁は翌日、辞表を出さないことを表明した。そのため10月24日に、石原大臣は総裁の解任の手続きを取らざるを得なくなった。はじめから解任すれば済むことを、まったく道路族に対して石原国交相は腰が引けている事を、天下に表明する事件となった。

 藤井氏の後任には伊藤忠の出身で、自民党の参議院議員であった近藤剛氏が決まり、10月28日に民営化委員会は、小泉首相に対して異例とも言える勧告を行なった
 小泉首相への委員会の勧告はつぎのものである。

「・政府は、関係法律案の内容を、政府・与党協議会に付議する前に、相当の時間的余裕を持って民営化委員会に示し、民営化委員会の了解をもとめること。
・このことを国交大臣に指示すること。」

●小泉首相は、実は隠れ抵抗勢力であったのか?
 ところがこの異例ともいえる首相への勧告は、小泉首相によって完全に無視され、さらに国交相にも無視された。道路関係四公団民営化推進委員会設置法は、その第2条2に「委員会は、前項の意見を受けて講ぜられる施策の実施状況を監視し、必要があると認めるときは、内閣総理大臣又は内閣総理大臣を通じて関係行政機関の長に勧告するものとする」と明確に定めている。この委員会の勧告を、委員の任命者である首相が無視すれば、委員会の存立意義そのものが否定された事になるであろう。まさにそのために、委員会は、その後、悲惨な末路をたどることになった

 11月28日、国交省は、政府・与党協議会に民営化の3つの基本方針を提示し、公団民営化の原案を提示した。上記の委員会の勧告にも拘らず、国交省は勧告を無視した。しかもこの国交省の方針の内容は、2002年の民営化委員会の議論で否定されたものであった。つまり国交省は03年10月28日の勧告どころか、02年12月6日の委員会の意見も無視していた。その間に国交相は扇氏から石原氏に代わっており、この委員会無視の責任は総理大臣である小泉氏にある。

 この状況に危機感を覚えた田中・民営化委員会委員長代理は、単独で小泉首相に会い、民営化委員会の意見書の根幹(10年後における上下一体化、債務膨張に繋がる有料道路建設の停止)を反映した民営化法案をつくるよう、国交省を指導されたいと訴えた。そして若しそれが受け入れられない場合は、委員を辞職すると文書で申し入れた。田中氏は、この「直訴」がうやむやにされることを怖れて、事前にこの文書を記者団に撒いている。

 03年12月22日、政府と与党は民営化委員会の意見書を全く無視した民営化法案に合意した。そのため田中、松田、川本の3委員はこれに強く抗議して、田中、松田両氏は委員会に辞表を提出し、川本氏は今後、委員会には出席しない事を宣言した。このことにより内閣府設置法に基づいて発足した民営化委員会は、この段階で完全に機能を停止した。

 田中真紀子議員が図らずも言ったように、「改革だ!」と首相にいわれて進もうとすると、スカートと踏みつけて進めないようにしているのは、実は「小泉首相であった!」
 道路公団民営化の委員会が解体していく過程を見ると、口では「改革」をとなえながら、小泉首相自身が、実は道路族=「隠れ抵抗勢力」そのものであったといわざるをえないことが、明らかになってくる。

 委員会の1年半に及ぶ激しい葛藤を眼にしながら、首相、国交相、行革相は、4分5裂していく委員会の状況に対してなんら具体的な支援をしなかった。それは土光委員会に対する鈴木、中曽根首相の態度とは、全く異なるものであった。この間、日本国民は、将来の道路建設に対してはかない「改革」の幻想を与えられていたに過ぎないことが分かってくる。






 
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