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  (8)田中内閣と日中国交回復

 佐藤内閣は、度重なるニクソン・ショックにより完全に失速した。日本の政治では、官僚出身の政治家の政権を保守本流というようである。戦後政治を担当した幣原、吉田、芦田、岸、池田、佐藤の歴代首相は、みな,官僚出身であった。
 官僚出身でない総理大臣としては、片山、鳩山、石橋と非常に少なく、かつ短命であった。長期政権をほこった佐藤政権の後継者として、佐藤自身は大蔵省出身の政治家・福田赳夫を考えていた。
 
 1970年代後半期の日本の国際的な最大の課題は日中国交の正常化である。このように外交の流れを180度転換させる大仕事は、岸、佐藤の流れを継ぐ保守本流の政治家には明らかに無理な課題であった
 一方、国内的にも、高度成長経済は、1970年代後半期には戦前の水準を超える新しい段階を迎えていた。
 この全く新しい時代に、正統の保守本流の政治家が対応することは至難の業になってきていた。そこに登場したのが、保守本流とは全く異質のキャリアで、しかも保守本流の中を歩んできた異能の政治家・田中角栄である。

●異能の政治家・田中角栄 
 田中角栄は、1918年、新潟県刈羽郡二田村(現在の西山町)に生まれた。
 貧困な生活のなか、小学校では優等生を通し、どもりで弱い体を克服して,高等科2年を卒業するときには卒業生総代として答辞を読んだ。
 その後,上京して土建会社に小僧として住み込み、夜は中央工学校の土木科で勉強し、更に建築設計事務所で建築設計の仕事をした。その後に機械設計もやり、土木・建築・機械の設計、製造、施工の技術を身につけた。
 
 その後独立して兵歴、大病を経験したのち、1943年、25歳で田中土建工業(株)を創業し、社長になった。
 敗戦直後の1947年に29歳で衆議院議員に初当選して、衆議院建設委員となる。
 その後、57年、第2次岸内閣の郵政大臣(39才)、62年、第2次池田内閣で大蔵大臣、65年、佐藤内閣の自民党幹事長、71年、佐藤内閣の通産大臣などを経て、72年に自民党総裁、総理大臣となる
 この経歴を見ただけでも、並大抵の政治家ではないことが分かる。その田中が特に外交問題において異能を発揮した例が、日米繊維交渉と日中国交回復である。

●日米繊維交渉
 1969年から71年にかけて行われた日米繊維交渉は戦後の日米関係の一つの曲がり角になると同時に、経済交渉に政治がからむ難しい交渉であった。この難しい交渉を佐藤内閣の通産大臣としてまとめたのが田中角栄であった。

 1969年1月、大統領に就任したニクソンは、大統領選挙で当落のカギといわれた南部の票をまとめるために,南北カロライナ州を中心とする繊維業者の要望をいれて、毛・化合繊の対米輸出を規制する国際協定の交渉を行う事を約束した
 この実行のためにスタンズ長官を任命し、各国との交渉を開始した。

 このような協定自体、自由貿易の原則に反するものであり、スタンズ長官は訪問した7カ国のすべてで要請を拒否された。日本でも、愛知外相、大平通産大臣がスタンズ長官の申し入れを拒否し、国会は満場一致で反対を決議した。

 ところが7月末に東京で開かれた日米貿易経済合同委員会で再度、日本も討議を継続する事になり、9月に日本政府の専門家のよる調査団が米国へ派遣されることになった。
 日本側としては、この調査団はアメリカにおける繊維産業の「被害」の実態調査のつもりであったが、アメリカ側は協定の交渉団と考えた
 調査団が帰国して、アメリカの繊維産業には輸入品による明らかな被害が見当たらないという報告書を出した直後に、アメリカは外交ルートを通じて日本に包括的な自主規制を要求する提案を行ってきた

 結局、この問題は佐藤・ニクソンの首脳会談に持ち込まれた。この首脳会談により、佐藤は「糸」(=繊維の輸出規制)を売って、「縄」(=沖縄返還)を買ったという密約説を流布されることになる。しかし実際には、佐藤首相は交渉を通産大臣(最初は大平、次が宮沢)に任せきりであった。
 そのため、日米繊維交渉は全く進展せず、そのことからニクソン大統領の怒りを買い、2度のニクソン・ショックにおいても、事前に何の連絡もないという冷たいしっぺ返しを受けることとなった。

 日米繊維交渉において、日本の繊維業界は当然、反発・抵抗して情勢は険悪の一途を辿った。佐藤は、宮沢喜一に通産大臣を代えて交渉に当たらせたが、事態は進展しなかった。そして最後には、日本側は全面的に譲歩し、71年3月には日本の繊維業界が自主規制宣言を出すところまできた

 この日本側の大幅譲歩にも拘らず、ニクソン政権は業界の自主規制ではなく、政府間協定にすることを主張して、事態は再び振り出しへ戻った。この間、アメリカの経済情勢はますます悪化して、輸入課徴金制度の導入、輸入規制の方針が発表された。問題を常に先送りする日本の佐藤政権に対して、ニクソンは、日本の頭越しに米中の国交回復を発表して衝撃を与えるところまできていた。

 この最終の段階で、71年7月5日、田中角栄は、第三次佐藤内閣の通産大臣になり、佐藤首相から繊維交渉の早期妥結を要請された。ところが過去2代の通産大臣に亘り混迷を続けた繊維交渉を田中通産大臣は、就任後のわずか3ヶ月でまとめあげ、外交における非凡な能力を内外に示した。

 この田中的解決方法とは、アメリカの要求をほぼ全面的に受入れると同時に、それによる業界の損失を全額補填するという思い切った措置であった。この方法は、現実的ではあるものの官僚出身の政治家にはあまりに多額の費用がかかることから採用を躊躇する方法といえる

 1971年10月15日、日本側は全面譲歩し、毛・合繊輸出の総枠で9750万ヤードの規制水準を3ヵ年維持するというアメリカの当初原案に近い政府間協定を設けて、東京で調印後にただちに実施した。
 
 その一方で、この政策を実施するにあたり、751億円の救済融資を実施した。
 また日本繊維産業同盟と全繊同盟が田中通産大臣を相手に政府間協定の違法性を問う行政訴訟を起こしたため、更に、1278億円の追加救済融資を決めた
 つまり合計2,000億円という巨額な金額を、繊維業界に対する補償に当てた。
 この額は、自主規制による損失額に相当するものである。
 この輸出規制は、その後、74年10月以降やや緩和され、77年2月に全廃され自由化された。

 この田中的解決方法とは、アメリカの要求をほぼ全面的に受入れると同時に、それによる業界の損失を全額補填するという思い切った措置であった。
 実はこの時期、既に日本の繊維産業は主力輸出産業でなくなっていた。そしてこれを機会に輸出産業の主力を繊維、雑貨などの軽工業から、重工業、機械、電気などに転換を図っていったことを考えると、産業行政のトップとしての通産大臣として、極めてあざやかな現実的解決であった。

 このような解決は、保守本流の政治家には殆ど採用が不可能な方法であったが、一方では、アメリカから非凡な政治家として警戒され、後のロッキード事件により失脚させられる原因になったともいえる。

●日中国交回復
 田中が首相になって取り組んだ最大の外交問題が日中国交回復であった。既にニクソンによる衝撃的な訪中が1972年2月に行われており、米中間に国交が回復した以上、日本として中国との国交回復は不可避の課題になっていた
 しかし岸政権以降の日本の保守本流の国際政治は、中国敵視政策をとり続けてきており、日本側からの日中国交回復は非常に困難な課題になっていた。

 この問題に対して、田中内閣は72年7月6日の発足と同時に積極的な取り組みを開始し、周恩来も田中政権発足の翌日、田中内閣による日中国交正常化の歓迎を表明した。そして早速、中国要人の来日が始まった。
 自民党も7月13日に日中国交正常化協議会を発足させ、7月から9月にかけて奔流のように日中国交回復の動きが活発化していったが、むしろ非常に難しいのは自民党内部の「台湾派」=反対勢力の存在であり、しかもそれが「保守本流」として存在していたことである

 このような動きを背景にして、72年9月25日、田中首相を中心とする日本政府代表団が北京を訪問した。中国側は、国交回復に当たり、3原則を提示していた。
 つまり(1)中華人民共和国政府が中国の唯一の合法政府であること、(2)台湾は中華人民共和国の領土の不可分の一部であること、(3)日本と台湾政府の平和条約は不法、無効であること、である。
 このうちの(3)は、「共同声明」ではふれず、共同声明の調印後に大平外相が発表した政府見解で、「日華平和条約は存在の意義を失い、終了したものと認められる」という見解を述べることで解決した。

 日中の国交正常化は、ニクソン訪中にも拘らず、保守本流の岸、佐藤政権下では取り組むことが非常に困難な外交課題であった。それが田中政権に代わることにより、田中首相、大平外相というコンビで僅か2ヶ月という短時間で達成された。

 一方、アメリカの方は、ニクソンの歴史的訪中の以後も、米中間の国交回復は容易に実現せず、ニクソンは74年8月にウォーターゲート事件で失脚した。
 75年12月にフォード大統領がキッシンジャーと一緒に訪中して、ようやく米中国交正常化を確認するというように非常にもたついた歩みを見せていた。
  

 一方、田中内閣の日中の国交の方は、73年5月に海底ケーブル敷設の協定調印、76年には工事完了、74年4月には、非常に難航した日中航空協定も調印に到った。
 つまり田中政権の誕生により、折角、先手をとったアメリカの対中交渉は逆転の危機にさらされていた。
 ニクソン失脚の後を継いだフォード政権と米中国交の裏舞台を勤めたキッシンジャーは田中政権による日中国交の進展に対し非常に危機感を持ったと思われる。

 田中は、74年9月、メキシコ、ブラジル、アメリカ、カナダを巡る旅に出た。資源の安定供給の確保を目的にした経済協力を目的にしたことから「資源外交」といわれた。その途中にアメリカで、フォード大統領との首脳会談に臨んだ。
 その前月の8月8日にニクソンはウォーターゲート事件で失脚して、フォード副大統領が大統領に昇格していた。

 かつて72年8月のニクソン・田中の首脳会談は、「日米対等」を演出してハワイで行われた。ニクソン大統領は、わざわざワシントンから陸軍軍楽隊を呼んで田中首相を出迎えたといわれる。
 ところが2年後の74年9月の田中首相のワシントン訪問に際しては、「歴代首相の訪米で、こんなに静かな光景は一度もなかった」と特派員が伝えるほどのアメリカ側の冷たい対応になっていた。(中野士朗「田中政権・886日」、221頁)
 しかも首脳会談は、わずか1時間で終わり、その意義が日本でも問題になった。

 その間の状況変化の原因は、田中の訪中と中国による田中歓迎にあったといえる。これに危機感をもったアメリカが仕掛けたのがその後の田中失脚のシナリオではなかったか、という説がいまなお囁かれている。
 ロッキード事件で田中に贈られた5億円は、実はロッキード社から丸紅を通じてアメリカに還流し、ニクソンの再選資金に使われたともいわれている。

 同時にこのことを利用して「ロッキード事件」なるものをデッチ上げて、邪魔な田中を倒す。これはアメリカにとっても、日本の保守本流にとってもうまいシナリオである。それは、いまでも一部の人々に信じられている話である。(中野士朗「上掲書」223頁)
 ロッキード事件は、76年2月、アメリカ上院多国籍企業省委員会の公聴会におけるロッキード社の社長コーチャン証言から始まり、7月には田中前首相(74.11.26退陣)自身が逮捕されるという日本を震撼させる事件に発展した。

 日本の戦後の大事件には、裏にアメリカの影がちらつくものが多い。




 
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