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1. 日本経済の行方
2. 失われた90年代―日本の「シンス・イエスタデー」
3. 江戸時代のカタストロフとしての明治維新
4. 明治・大正のカタストロフとしての昭和恐慌
5. 昭和時代のカタストロフ −第一部 満州国建国まで
6. 昭和時代のカタストロフ −第二部 日本敗戦への道
7. 平和日本のカタストロフ −第一部 日本国憲法の興亡

8. 平和日本のカタストロフ −第二部 戦後の日米関係(その1)
          −日本占領、講和会議そして自立まで

(1)アメリカの日本占領(その1)
(2)アメリカの日本占領(その2)
(3)日本は自立できるか?

9. 平和日本のカタストロフ −第二部 戦後の日米関係(その2)
10. 平和日本のカタストロフ −第三部 "花見酒"経済の終焉
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  8. 平和日本のカタストロフ −第二部 戦後の日米関係(その1)
          −日本占領、講和会議そして自立まで


 戦争が終わって半世紀以上の歳月が経過した。その間、日米関係はいろいろかわったが、日本国民は、常に「アメリカの戦争」に巻き込まれることを恐れてきた
 特に、「60年安保改定」のとき、日本国民のこの心配は、国民をあげての反対運動となり、アイゼンハワー大統領の訪日が中止になるほどの国民運動となった。

 この「安保世代」が、まだ日本社会の主導的地位にあるにも拘らず、日本国民は戦前と同様に、再び、戦争について考える事を止めた。その中で日米軍事同盟は、「反テロ」という「正義」の下、明確な姿をとり始めた。

 日米共に、イラク戦争以降、最大の経済危機を迎えている中での軍備強化は、もはや正常な理性では理解できないものになっている。その原点としての、戦後の日米関係を見直してみたい。

(1)アメリカの日本占領
●日本降伏の条件―カイロ宣言、ヤルタ会談、ポツダム宣言
▲カイロ会談
 太平洋戦争の末期、その後の日本の運命を規定する3つの会談が連合国側で行われた。その最初は1943年11月22日からルーズベルト、チャーチル、蒋介石によって行われた「カイロ会談」である。その会談の結果は、12月1日に「カイロ宣言」として発表された。
 そこには対日政策の基本が述べられており、日本が中国から「盗取した領土」(=宣言の言葉)を中国に返還することが規定されていた。しかし、その帰属先は国民党政権なのか共産党政権かは明示されていなかった。
▲ヤルタ会談
 次に1945年2月4日、ルーズベルト、チャーチル、スターリンなど米、英、ソの連合国首脳がソ連南部のヤルタにおいて会談を行い、その後の連合国の作戦や戦後処理の話し合いを行った。
 その会談において、秘密裏にドイツ降伏後、90日を期してソ連が日本に宣戦布告すること、その代償として千島列島、樺太の一部、これに隣接する諸島に対するソ連による領有を認めることなどが話し合われた。しかし、その内容は日本側には秘密にされていた。

 ルーズベルト大統領は、この会談の2ヶ月後に急死し、日本の戦後処理に大きな影響を与える会談の内容を日本はまったく知らないまま、アメリカの大統領はトルーマンに代わった
 当時、日本とソ連との間には相互不可侵条約が結ばれていた。そのため、ヤルタの密約を知らない日本は太平戦争末期にソ連を仲介にして終戦工作に乗り出したほどである。
 しかし日本占領をめぐる米ソの暗闘は、戦争末期から既に激しさを増しており、そのために日本は原爆投下、北方領土の占領など、必要以上の大きな被害を蒙ることになった
▲ポツダム会談
 連合国側の最後の会談は、1945年7月17日からベルリン郊外のポツダム宮殿で、トルーマン、チャーチル、スターリンにより行われた「ポツダム会談」である。
 この会談において日本に降伏を勧告する文書がまとめられ、これに出席しなかった蒋介石の承認を得た上で、「米英中3国政府の共同宣言」として7月26日に発表された。これが「ポツダム宣言」である。

 その宣言は13条よりなり、第5条以下の戦後の対日政策は次の5項目に要約される。(正村公宏「戦後史」上、21頁)

  1. 日本における軍国主義の一掃、完全な武装解除と平和的生産的生活への復帰、戦争犯罪人の処罰。
  2. 民主主義の復活強化と自由および基本的人権の確立
  3. 「本州・北海道・九州・四国および連合諸国の決定する諸小島」への日本の主権の制限。
  4. 「その経済を指示し、また公正なる実物賠償の取立てを可能ならしめるような産業」と、そのための原料入手、将来における「世界貿易関係への参加」は許されるが、「戦争のための再軍備を可能ならしめるような産業」は許されない。
  5. 新秩序の建設まで連合軍による日本占領。

 日本政府は、「天皇の国家統治の大権を変更するという要求は含まれていないと了解する」という条件をつけて、8月10日にスイスおよびスウェーデンに駐在する日本の外交官を通じて連合国にこの宣言を受諾することを通報し、8月12日にアメリカ政府から回答がきた。

 そこには「天皇および日本国政府の権限は、降伏後は連合軍最高司令官に従属するものとされる。」とあった。この回答に衝撃を受けた日本政府は、「従属する」という表現を、外務省が終戦反対派の攻撃をかわすため、勝手に「制限の下に置かれる」と翻訳して小手先の修正を加えた。(正村「同上書」)
 結局、天皇主権は、維持できるかどうか確信のもてないまま、8月14日の御前会議において、それでもポツダム宣言を受諾する事が決定した。

●日本占領
▲米軍による単独占領と間接統治
 日本に先立ちドイツが連合国に無条件降伏したのは1945年5月7日のことである。日本政府は全く知らないものの、その日から90日後の8月8日に、ソ連は日本との不可侵条約を破棄して日本に宣戦を布告することが、ヤルタ会談において予定されていた。

 ソ連軍は、おそらく日本の植民地であった満州、朝鮮、それから日本の領土である樺太南部、千島列島から北海道に対して一斉に攻撃することが予想された。
 アメリカは、このままではドイツと同様に、日本もソ連との分割占領になることを恐れた。そこでアメリカは、ソ連参戦予定の8月8日までに日本に決定的なダメージを与えて降伏に持ち込みたいと考えた。
 
 つまり、そのままの状態では、日本の領土の半分をソ連軍に占領される可能性があった。そこで、あせったアメリカは、8月6日に広島、8月9日に長崎へ原爆を投下して、日本降伏への決定的な実績を作った。そして天皇の終戦の詔勅の中に、原爆投下が日本降伏の原因になったことを明記させることに成功した

 ポツダム宣言は、日本が過去に武力で奪った土地の返還を求める以外には、連合国側に領土拡大の意図のない事を強調していた。しかし、ヤルタの秘密協定により日本に参戦したソ連は、それを無視して領土的野心を露骨に表明していた。
 ヤルタ協定で予定された通り、8月8日に対日宣戦布告したソ連軍は、北満、朝鮮、樺太、千島列島に一斉に攻撃を開始してこれらを占領し、この地域で武装解除された日本兵はシベリアへ送られて強制労働に従事させられた。

 更に、ソ連はアメリカに対して日本占領の連合軍最高司令官をアメリカ人、ソ連人の2名とすること、南樺太、千島列島、北海道の北半分をソ連が占領することを要求した。ソ連は、わずか1週間の戦争により、膨大な日本領土獲得の要求をアメリカに突きつけてきたわけである。

 一方、連合軍による日本占領は、当初は、統合参謀本部が策定した日本分割占領計画案により複数の占領軍による分割占領を予定していた
 その内訳を見ると、アメリカ軍は厚木、横浜、大阪、イギリス連邦軍は呉、広島地帯、中国軍(当時は国民党軍)は名古屋地帯、ソ連軍が北海道、東北地方を分割占領する予定になっており、日本はバラバラに解体・占領される寸前にあった

 しかし、8月18日にトルーマン大統領は、連合軍最高司令官を米人1人にしてアメリカによる一括占領とする「占領軍の基本構成」を決定した
 このように占領計画が大きく変わった理由は、当時、既にドイツ占領において米英仏3国とソ連の対立が深刻化していたことと、今ひとつは日本が大方の予想に反して、本土決戦を行わずにアメリカに降伏したことによると考えられる。

 ソ連に占領された樺太南部、千島とアメリカの軍政下におかれた沖縄、奄美、小笠原を除き、日本本土の分割占領は回避され、日本政府の存続を認めた米軍による間接統治の方式が採用されることになった。
 この占領方式が、日本占領を成功に導いた大きな原因になったと考えられる。当初の予定通り、日本の分割占領が行われた場合には、旧日本軍は本土決戦に備えてかなりの軍事力を残存していたことから、全国的な内戦状態になることは避けられなかったと思われる。

▲マッカーサー元帥の来日、離日
 ポツダム宣言が規定している占領軍の責務は、日本の軍国主義の解体、戦争犯罪人の処罰、経済的自立の達成の3つである。これらが達成されて日本が民主主義国家として再出発した段階で対日講和条約を締結して、占領行政は終結するというのが日本占領政策のシナリオであった。

 1945年8月30日午後2時5分、連合軍最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥は、日本降伏に反対して反乱を起こした特攻隊・厚木航空隊の基地にコーン・パイプをくわえて愛機バターン号から傲然と降り立った。
 しかしこの占領軍を迎えた日本軍の態度は、彼らの予想を大きく越えていて、アメリカの将官を驚かせた。

 マッカーサーが進む厚木から横浜までの沿道には、日本軍の兵士が適度な間隔で道路に背にして並び、彼らを防衛していた。しかも日本軍は丸腰で、自主的に武装解除していた。このようなことは他国に類例を見ないものであり、第8軍司令官・アイケルバーガー中将は驚嘆した。

 この日本人のひとの良さ、従順さは、マッカーサーの帰国の際にも見られた。マッカーサー司令官は、1951年4月、朝鮮戦争の行き詰まりを打破するために、中国本土爆撃、国府軍の中国南部上陸、原爆の使用などの積極的な提言を行っていた。  
 そのため彼の極東戦略から第3次世界大戦への発展を恐れたトルーマン大統領により連合軍総司令官を解任された。

 4月15日のマッカーサー元帥の離日にあたり、彼の宿舎であった米大使館前には早朝から多くの老若男女の市民が集まって別れを惜しんだ。
 出発が翌日に遅れると「門前の日本人市民は夜になっても去らず、何を祈るのか、頭をたれる主婦の姿もあった」と朝日新聞は報じている。
 同紙の「社説」は、敗戦国の国民がこのように「占領軍司令官の風格を慕うことは、おそらく空前絶後のこと」であろうと書いた。

 翌16日、早朝の午前6時25分、家族と車で米大使館を出発する元帥を見送る人々は、彼の「回顧録」によれば「2百万人」にのぼり、沿道で日・米の紙旗を振りバンザイを連呼し、国会では、この日の午後、元帥への感謝決議案が上程、可決された。

 日本国民は、日本の天皇より偉い「マッカーサー元帥」を解任する大統領が本国にいることに驚愕した。この歴史的に偉大な将軍の威徳を称え、「マッカーサー神社」を建立する運動が始まり、発起人には秩父宮、田中・最高裁長官など多数の名士が名を連ねた。しかし、この敬愛するマッカーサーが、帰国後の議会で日本人の知的成長は「12歳の少年」に過ぎない、と証言したため、さすがに善良な日本人たちもその言葉に覚醒して、「マッカーサー神社」の建立は中止になった
 
▲初期の占領政策(1945-1948)
 マッカーサー司令部の日本占領政策は、(1)日本の軍国主義の解体、(2)戦争犯罪人の処罰、(3)経済的自立の達成の3つに要約される。
 それらの政策が達成され、日本が民主主義国家として再出発した段階において、対日講和条約を締結して日本占領を終結することが予定されていた。

 戦争も終わりに近い1944年2月14日に、アメリカの国務省極東地域委員会は日本敗戦後の日本占領の覚書を作成していた。そこでは日本占領は1ないし5年以上にわたるべきとする意見もあるが、主な占領目的が達成され次第、日本を退去すべきとする見解が出ていた
 そこでは、米国・連合国の占領政策の基本が、「処罰と米国の安全保障」にあるとし、日本を平和国家に改変するための「政治占領」は、米国にとって「有害無益」としていた

 ポツダム宣言発表9日後の8月4日、スチムソン陸軍長官は、国務次官のグルーに「日本占領は日本降伏後6ヶ月以内に撤退すべき」と提議しており、8月31日にマッカーサー元帥も横浜ニューグランドにおいて、アイケルバーガー中将に対して軍事占領の早期終了を語り、第8軍司令官のアイケルバーガー中将自身も日本占領は1年間で十分であると考えていた。

 また国務省の極東局長バランタインも「占領18ヶ月論」をとなえており、アメリカの占領政策は、遅くても1948年までには終了する日程で進行していた
 
 簡単にその間の占領政策の経過をまとめてみる。
 (1)軍組織の解体
 旧日本軍の組織の解体は、米軍の進駐に先立ち日本政府により自主的に行われ始めていた。8月17日に東久邇宮内閣の成立とともに天皇から陸海軍人には勅語が発布され、8月26日には軍関係の一部の官制も廃止された。その上で、GHQ(連合軍総司令部)は、9月2,3,22日に相次いで指令を出し、軍隊の降伏と武装解除、連合軍捕虜の開放を指示した。
 
 (2)警察組織の解体
 東久邇宮内閣は、治安維持法の廃棄は考えていなかったが、「特別高等警察」の行き過ぎを抑えようとしていた。しかしGHQは10月4日、「政治警察廃止に関する覚書」を日本政府に手交し、日本の在来の警察組織の根本的解体と再編に着手した。それに驚いた東久邇宮内閣は、翌10月5日に総辞職して、10月8日に幣原内閣が発足した。
 GHQの指示により10月10日にすべての政治犯・思想犯は釈放され、10月15日には治安維持法、思想犯保護観察法など、政治・思想犯取り締まり法規が勅令で廃止された。
 
 (3)戦争犯罪人の処罰
 9月11日にGHQは「戦争犯罪人容疑者」の第1回発表を行ない、A級戦犯として39人の逮捕を命令した。その中には東條英機(元首相)、近衛文麿(元首相・公爵)、木戸幸一(内大臣・公爵)をはじめ開戦時の閣僚などが多数含まれており、政府、国民に大きな衝撃を与えた。
 
 A級戦犯として28人が起訴され、1946年5月から東京・市ケ谷で極東国際軍事裁判が開かれた。2年の裁判をへて、1948年11月12日、絞首刑7人を含む判決が出され、12月23日に執行された。そして翌日、残りのA級戦犯19人は釈放された。

 A級戦犯のほかに、戦争中の捕虜・抑留者に対して虐待や残虐行為を行った容疑でB級、C級戦犯の追及が行われ、現地の軍事裁判で処断された。
 その数は、死刑937人、終身刑358人、無期刑1046人、有期刑3075人という多数に及んだ。(正村公宏「戦後史」、上、56頁)

 (4)軍国主義者の公職追放
 GHQは、1945年10月に行われた旧内務大臣以下・警察関係者の大量罷免を拡大し、「軍国主義的人物」を公職から一掃する方針をとり、10月30日に「教師と教職者の調査・精選・資格決定に関する覚書」を日本政府に手交した。
 この覚書により、職業軍人、軍国主義鼓吹者が追放され、逆に戦前・戦中に自由主義・平和主義を理由として解職された人々を教職へ復帰させることを指示した。
 政府は1946年5月7日に勅令を公布し、この勅令により教職から追放された人は7000人にのぼった。
 
 続いてGHQは,1946年1月4日に「望ましからざる人物の公職罷免排除に関する覚書」を日本政府に手交した。公職追放の範囲はその後に更に拡大し、政府はこの指示を勅令などで忠実に実行したため、その数は公式統計で20万人を越えた

 (5)財閥解体
 戦前の日本を経済面で作り上げてきた日本的特徴に「財閥」があった。そして日本の主要産業の大部分は、これらの財閥によって支配されてきた。この財閥の解体経済面における占領政策の大きな目玉になった。

 1945年10月以降、財閥解体案は政府の手でまとめられていたが、GHQは更にこの解体を強力に押し進めるために、1946年4月4日に「持株会社整理委員会」に関する覚書を日本政府に手交し、4月20日に勅令として公布した。

 持ち株会社整理委員会は、1946年8月9日に発足し、財閥解体の作業を開始した。そして1946年9月6日から1947年9月26日までの5次にわたる指定により,各財閥本社、持ち株で多くの子会社を支配していた83社が指定され、持ち株が処分された。
 処分方法は、財閥家族が個人的に指名されてその所有株式が処分されるほど徹底しており、純然たる持ち株会社であった財閥本社は解散させられた。
 1946年12月、財閥家族56人は、事業上の責任ある地位から追放され、1947年1月には、大企業245社の重要な地位にあった約1500人が公職追放の指定を受けた。更に、1948年1月の「財閥同族支配力排除法」により、財閥系企業約1600社の役員約3600人が調査され、2200人が職を追われた。

 (6)憲法改正
 アメリカの占領政策としての日本解体は、日本政府の当初の予想を遥かに超えてかなり徹底的に行われた。それは明治以降の日本の軍国主義の再度の復活を阻むものであり、その占領政策の主体をなしたのが、明治憲法の改正であった。
 これは第1部で詳しく述べたのでここではふれない。

 (7)その他の占領政策
 その他にも、重要な占領政策がいくつか行われた。たとえば戦前の日本思想の源泉であった神道思想を政治から切り離す「政教分離政策」、戦前の日本の封建的な制度、思想の源泉となった寄生地主制を崩壊させる「農地改革」などいくつかあるかある。ここではこれらのアメリカの占領政策が、明治以降の日本国家の源泉を絶つために、かなり徹底的して行われたことを語れば十分である。
 
▲米軍の占領政策は、1948年から変貌した!
 さてアメリカは、軍国日本の徹底した解体を行う中で、大きな矛盾にぶつかっていた。それが日本の防衛問題である。
 アメリカが単独で日本を占領しその軍備を解体したのであるから、その占領期間中の日本の防衛責任は、当然、アメリカ占領軍にあった。しかし占領終了後、日本が独立国家となった時、誰がこの武装放棄した日本を防衛するか? という問題が残る。

 アメリカが日本に与えた平和憲法は、その第9条により一切の交戦権や戦力の保持が禁止された。当初、アメリカは日本が民主化され、講和条約の締結後には、独立国として憲法を改正して自衛軍をもてばよいと簡単に考えていたふしがある。
 しかし日本国憲法の改正手続きは非常に難しく設定されており、憲法改正は容易ではないことに、意外に気がついていなかった。

 日本国憲法は、アメリカ占領軍総司令部の民政部のスタッフにより作られた、世界に例を見ないほどの理想主義的な思想をもつ歴史的な傑作ともいえるものである。その占領軍が作成した憲法草案を、日本政府はほとんど手を入れないまま、1946年11月3日に日本国憲法として公布し、翌47年5月3日に施行された。

 ところがこの憲法施行の翌1948年から、日米共に国際環境が激変した。そして、日本国憲法に対する考え方もその後の1年ですっかり変わってしまった。この状況変化の原因は、米ソの国際対立関係の激化である。
 「帝国主義戦争を内乱へ」は、レーニン以来のコミュニズム革命理論の原則である。この理論を受けて第2次世界大戦の終了後、ヨーロッパやアジアの多くの国々で、共産勢力の活動が活発化していた。
 そしてその運動は、1948年にヨーロッパとアジアで一段と激化した
 その結果、1940年代末から1950年代にかけて、アメリカの出方次第で、いつ第3次世界大戦が起こっても不思議ではない状況に突入していた

 ヨーロッパにおいて、アメリカは1947年6月、マーシャル・プランを発表して、アメリカ主導による西ヨーロッパの復興を進め、ソ連勢力の封じ込め政策を推進し始めていた。
 これに対抗して、ソ連は10月に9カ国が参加したコミンフォルム(欧州共産党情報局)を設置し、東および中部ヨーロッパを中心にソ連主導の世界を展開しようとしていた。

 
 この米ソの対立は、1948年に入ると更に激しくなった。4月にソ連はベルリン封鎖に踏み切り、6月にはソ連はベルリン・西側管理地区間の陸上交通を全面的に遮断した。そのため、ドイツでは西側諸国によるベルリン大空輸が開始され、ほとんど第3次世界大戦の前夜の様相を呈し始めていた

 一方、アジアの情勢では、戦後の中国の内戦において最初はアメリカの支援を受けた国民党軍が優勢であったが、1947年6月から人民解放軍(=共産軍)の反攻が一斉に開始され、1948年には両軍の形成は逆転していた
 東北、華北、中原、山東、西北の各戦場において共産軍は勝利を重ね、解放区が拡大していった。解放戦争の勝利を決定づけた「3大戦役」は48年秋から冬にかけて展開され、1949年1月には天津、北京を共産軍が占領し、1月1日に蒋介石はついに総統辞任に追い込まれていた。

 更に、1948年9月には北朝鮮において金日成の朝鮮民主主義人民共和国が建国して、朝鮮半島は明確に南北に分断されるなど、まさに1948年はヨーロッパでもアジアでもソ連の勢力を背景にした共産勢力の攻勢が一斉に激化した年となった
 まさに米ソによる第3次世界大戦の前夜を思わせる状態になっていた。
 
 1948年の新春には「講和の年」と考えていた日本国民も、急速にその希望が消えていくのを感じた。ヨーロッパでもアジアでも、共産勢力の進出が目覚しい状況をうけて、アメリカ政府は、アメリカ軍による日本防衛を放棄するか、それとも日本軍を再建して日本を自衛させるかの選択をせまられていた

 1948年3月10日、日本防衛に当たっていた第8軍司令官アイケルバーガー中将は、国務省ケナン部長との会談において、「我々には、日本を守りきる力はない」、「ゆえに強い日本、すなわち武装した日本が日本自身のため、アジアの平和のためにも不可欠だ、と私は確信する。」と述べていた(児島襄「講和会議」)。
 このアイケルバーガー中将の提言は、後にマッカーサー元帥による警察予備隊となって実現することになる。

 翌1949年2月に来日した陸軍長官ロイヤルは、記者会見において「米国の防衛線は、沖縄、アラスカ、台湾であり、日本は費用がかかりすぎるので、在日米軍は引き上げを考慮すべきである」と述べて、アメリカは日本を放棄する見解を語った

 マッカーサー元帥は、年頭の辞において「日本の経済自立の年」であるとしてアメリカの占領政策が最後の段階に入ったことを語っていた。
 1950年には講和会議を開催して日本は自立し、日本防衛は日本自身が行う体制に移行させようとしていたと思われる。
 事実、3月16日のワシントン発AP電は、アメリカ政府は1950年に「対日管理を軍政から民政に移管することを真剣に検討している」ことを伝えていた。連合軍総司令官マッカーサー元帥は、50年1月には70歳の高齢を迎え、国務省は「年内に日本占領の民間移管の実現を確信」というUP電も伝えられた。

 しかしこの予定は再び大幅に遅れ、しかも日本の防衛問題も単なる日本の防衛から日米の共同防衛、更には軍事同盟への変貌をしていった
 その大きな国際的な事件が、1949年に起こった。

 その最初は、4月4日に西側12カ国によって結ばれた北大西洋条約である。この条約により軍事同盟機構としてのNATO(北大西洋条約機構)が創設された。
 これはソ連の侵略に対する集団的自衛権の行使(条約第5条)を前提にして作られたものであり、当然、ソ連側の大きな反発を招いた。
 中共放送は、「米帝国主義者は、『北大西洋条約』によって、新たな世界大戦を起こそうとしている」という声明を発表した。
 この条約調印により、49年内の対日講和条約の締結は不可能になった。

 この年、共産国側にも大きな事件があった。8月29日にソ連が原爆実験に成功して、米ソが核兵器を保有する冷戦構造が出来上がったことである。
 10月1日には中華人民共和国が正式に発足して、社会主義諸国と資本主義諸国に世界は2分されることになった。
 そしてソ連と中国は、NATOに対抗して、1950年2月14日に「中ソ友好同盟条約」を締結し、アメリカ、日本は共に彼らの「仮想敵国」となった

 しかし不思議なことには、49年に東西の勢力が均衡して冷戦構造は逆に安定した。49年5月には48年6月から始まったベルリン封鎖は解除されて第3次世界大戦の緊張はひとまず回避された。
 ところがヨーロッパではなくアジアにおいて、第3次世界大戦の代理戦争とでも言うべき朝鮮戦争が1950年6月25日に勃発した

 朝鮮戦争により、アメリカの極東戦略に占める日本の地勢的重要性が一挙に高まった。そして、経済自立達成のための「ドッジ・デフレ」により、殆ど瀕死の状態にあった日本経済は、朝鮮戦争の「特需」によって一挙に息を吹き返し、経済的自立へ向かって歩き始めた

 その出発点が1951年9月5日の対日講和条約の締結であり、その同じ日に、日米間で、「日米安全保障条約」が締結された。

▲対日講和条約
 アメリカ軍による日本占領は、1945年8月下旬から1952年4月下旬まで6年8ヶ月の長期に及んだ。このように占領が長期化した原因は、日本の占領目的が当初の軍事大国日本の解体と戦犯の処罰といった直接的なものから、極東の対ソ戦略基地としてのアメリカの同盟国になる、という大きな変化をしたことにある。

 1950年4月6日、トルーマン大統領はニューヨークの弁護士、ジョン・フォスター・ダレスを国務省顧問に任命した。ダレスは、民主党のトルーマン政権と対立する野党・共和党の外交政策のエキスパートであった。
 ダレスは、青年時代にベルサイユ講和会議に出席したという豊富な国際経験をかわれて対日講和の推進役として起用された。

 対日講和会議の準備が始まった6月に朝鮮戦争が始まった。そのためアメリカの軍部は対日講和の延期を強く要求していたが、ダレスは事態の急変にも拘らず軍部を説得して、対日平和条約の準備を進めた
 対日講和条約の第1次案は既に6月に作られていたが、9月にダレスは最終案の基礎になる7原則をまとめて、関係国との個別交渉に入った

その対日講和の原則とは、次のものである。

  1. 条約締結国は、対日交戦国のうちで、意見の一致を見た国とする。
  2. 国連へ日本の加盟を考慮する。
  3. 領土に関して、琉球・小笠原をアメリカの信託統治, 台湾・澎湖島・南樺太・千島列島は米英ソ中が将来決定する。(講和1年以内に未決定であれば、国連総会で決定する。)
  4. 安全保障については、日本、アメリカ,その他の国々が責任分担を継続する。
  5. 新通商条約締結まで、日本は最恵国待遇を受ける。
  6. 条約締結国は、戦争によって生じた賠償要求を放棄する。
  7. 要求に対する紛争は、特別中立裁判所で解決する。

 この諸原則は、サンフランシスコ講和会議の最終草案に盛り込まれたが、台湾以下の領土問題は、最終草案では日本による放棄のみが規定された。
 平和条約に対して日本側は討議や交渉に参加する資格を奪われているため、公式には講和に対して連合国と交渉する機会を与えられなかった。
 それにも拘らず、日本の国内ではすべての交戦国との全面講和か、それともアメリカを中心とした国々との単独講和か、そして独立後の非武装中立に関する議論日本中で沸騰していた。

 対日講和条約の米英共同草案がまとまった1951年7月9日、ダレスは,吉田首相に書簡を送り、講和会議には吉田首相・自身が出席してほしいこと、講和全権団の構成は「超党派的なもの」が望ましい事などを伝えた。
 日本側全権団は、社会党は参加を拒否したが、他の野党は代表を送り、一行は8月30日に日本を出発した。
 しかし9月4日からサンフランシスコ市内のオペラ・ハウスで開催された対日講和会議は、講和問題を協議する場ではなく、ただ調印のための儀式にすぎなかった

 9月8日の調印式には日本を除いて51カ国という多数の国が参加して全権団を驚かせた。講和条約には、ソ連、チェコスロバキア、ポーランドの3カ国が署名を拒否し、48カ国が署名した。これらの国々は、日本と直接,交戦しなかった国が多いが、ドイツと戦争した関係で日本とも交戦関係になっていた。

▲日米安全保障条約
 平和条約の調印式の終了後、その日の内にサンフランシスコ市内のアメリカ第6軍司令部で日米安全保障条約の調印が行われた。
 これには日本側は吉田首相1人が署名し、アメリカ側はアチソン、ダレスなど4人が署名した。吉田は、平和条約以上に安全保障条約には反対の空気が強いことを考慮して、自分1人で責任を負う形にしたといわれる。

 日米安全保障条約(以下、安保条約という)は、その第3条において日本の国内およびその付近における米軍の配備に関する規律は、「日米行政協定」によって決定する、としている。そしてこの行政協定に関する交渉が、1952年1月26日にアメリカからラスク特使が来日して始められた。

 野党は行政協定反対の共同声明を出して、国会での審議を要求したが、2月に衆参両院で否決された。2月28日に行政協定は調印され、行政協定は国会の審議・承認なしに、安保条約の発効と同時に発効することになった
 アメリカ上院は、1952年3月20日をもって、対日平和条約と安保条約を承認した。従ってこの日をもって両条約は正式に成立した。
 この安保条約を巡る問題点を事項で述べる。




 
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