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(6)文化大革命 ―毛沢東による思想統一運動
★文化活動に対する介入
 毛沢東は、特に文学・芸術・イデオロギーの領域において、ブルジョアジーの進攻が著しいと考えていた。中国では、60年代の初めに、文芸・学術の分野では比較的自由な空気があり、従来の公式主義的・画一的な作品の枠を破る映画・戯曲・小説などが現われ始めていた。そこで、1962年9月に開かれた八期十中全会において、当時の公安機関を掌握していた康生が、李建?(りけんとう)の小説「劉志丹」を審査し、処罰する事件がおこった。

 この題名の「劉志丹」は、長征紅軍の陜西到着に先立ち、高崗らともここにソビエトを建設し、その後に国民党により殺された革命家である。また高崗は、1949年以来、東北人民政府の主席となり、1954年2月に饒漱石とともに劉少奇を打倒しようとしたとする反党陰謀のかどで逮捕され、獄中で自殺した軍事的指導者である。
 この小説が、この中国建国の初期に粛清された高崗の名誉を回復し、党を攻撃する政治文書として処罰された。

 毛沢東は、63年12月、とくに演劇の現状を厳しく批判し、文芸界の「整風」を指示した。そこで翌64年春に、党中央は彭真、陸定一、羅瑞卿、康生、楊尚昆の5名をもって「文化革命五人小組」を創設した。
 この頃から、文芸関係団体の指導的な作家、評論家、理論家などに対して「修正主義」的作品とする批判・攻撃が始まった。

 この年の秋には、文革における紅衛兵の活動を思わせる事件が起こっている。しかし一方では、65年9月に毛沢東が党中央工作会議で孤立し、10月には北京から上海に脱出するという事件が起こった。当時、表面からは窺い知ることの出来ない指導部内の左右勢力が、水面下で激しくぶつかり合っていたことをうかがわせる事件である。

★文化大革命の開幕
 1965年頃の北京の文化活動は、劉少奇・ケ小平の路線に近い北京市長・彭真の管轄下にあり、一方、毛沢東の妻である江青を中心とした文革4人組は上海で活躍を始めていた。

 問題のきっかけは、61年1月に北京で上演された呉ヨの「海瑞の免官」という芝居で始まった。「海瑞」とは、16世紀後半、明代に活躍した高官の名である。皇帝が政務を顧みないことを諌めたため捕らえられ、免官された。この海瑞に学べ!と最初に言ったのは毛沢東、その人である。

 ところがその後も各地で海瑞劇が上演される中で、海瑞が盧山会議で失脚した彭徳懐将軍に読み替えられるようになった。65年1月になって、江青が後に4人組の1人となる文芸評論家・姚文元に「新編歴史劇「海瑞の免官」を評す」を書かせて、一挙にその劇が政治問題化した。

 66年2月、ケ小平、彭真たちは、この「海瑞」批判を鎮めようとするが、毛沢東が姚文元を支持したため、結局は、66年6月には北京市長・彭真は解任され、このことにより文化大革命が盛り上がりを見せ始める。そして、この月、はじめて「社会主義の文化大革命」という言葉が登場し、江青を中心としたグループが台頭し、林彪は軍隊によって北京を征圧した。

 66年4月18日の「解放軍報」は、「毛沢東思想の偉大な赤旗を高く掲げて、積極的に社会主義文化大革命に参加しよう」という社説を掲載した。そして5月16日には、康生、陳伯立が起草し、毛沢東が修正、政治局常務委員会拡大会議を通過した「5.16通知」が全党に公布された。

 この通知の内容には、「高くプロレタリア文化大革命の大旗を掲げて、徹底的に反党、反社会主義の「学術権威」のブルジョワジーの反動的立場を暴露し、学術界、教育界、新聞界、文化界、出版界のブルジョア反動思想を徹底的に批判して、これらの文化領域における指導権を奪取する」、そのためには、「かならず、同時に、党、政府、軍隊と文化の各領域にもぐりこんでいるブルジョアジーの代表人物を批判して、これらの人物を洗い清め、あるものはその職務を転換する」こと、なぜなら、彼らは「一群の反革命修正主義分子であり、いったん機が熟すれば、政権を奪取して、プロレタリア独裁をブルジョア独裁に変えようとする」からであると述べられている。この通知とともに、「文化大革命」は、大衆運動として正式に開始された。


★紅衛兵 ―文化大革命の担い手
 文化大革命の担い手となったのは、労働者ではなく紅衛兵と呼ばれる大学・高校・中学の学生であり、反対の立場をとった労働者との間では武闘まで起こした例が多いことに注目される。しかも「紅衛兵」は、当初、誰でもなれるわけではないエリート集団であった。

 文化大革命の活動において、民衆は、その出身により「紅五類」「黒五類」に分けられる。「紅五類」とは、革命幹部(1945年以前に革命に参加したもの)、革命軍人(同上)、革命烈士、労働者(1949年以前に労働者であったもの)、貧農及び下層中農である。これに対して「黒五類」とは、地主、富農、反革命分子、不良分子、右派で、彼らの子女は「犬ころ」と呼ばれた。

 「紅五類」がプロレタリア独裁の担い手であり、初期の紅衛兵は、その成員が「紅五類」出身者に限定されたほどである。そして彼らは「紅五類主義」(出身血統主義)に反するすべてを激しく攻撃した。一方では「造反有理」(既存権力に反対することは、正当な理由がある−毛沢東の言葉)を口にしながら、他方では既存の国家支配の原理を極端に純粋化して、それと異なる一切のものを排除した。
 しかもその原理である「紅五類主義」は、特権主義につながるものであり、これと対立する紅衛兵組織が各地にできて、初期の紅衛兵との間の抗争が起きるのは当然であった。

 また労働者との間にも抗争が起こった。学校、研究所、病院、新聞機関など、知識人が多い職場において下積みの仕事をさせられていた労働者たちは、知識人への造反で日ごろの恨みを晴らした。しかし、調整期に増大した臨時工や契約工たちの造反対象は、右派、知識人や右派分子ではなく、国の労働部や常用労働者の組織である総工会へ向かった。

 文化大革命の花形であった紅衛兵は、手に手に赤表紙の毛沢東語録を持ち、毛沢東万歳を叫び、毛沢東賛歌を歌い、首都北京を皮切りに、全国主要都市で次々に四旧(旧思想、旧文化、旧風俗、旧習慣)打破の大旋風を巻き起こしていった。

★文化大革命の結果
 65年11月から本格的に始まったこの「整風」(=毛沢東思想に統一すること)大革命によって、毛沢東・林彪による政治路線は一挙に確立していった。文化大革命は、その途中から各地で流血の武闘に発展した。その上、文革がクライマックスに達した67年には、中ソ関係が異常な緊張を見せて、国交断絶寸前までいっていた。そのため毛沢東は、67年9月に、「大連合」を唱えて、文革の収拾をはかろうとするが、もはや毛沢東にも止められなくなっていた。

 文化大革命が一応の収拾を見るのは、1969年4月14-24日の中国共産党九全大会である。ここで毛沢東・林彪による主導体制が確立した。林彪が「政治報告」を行い、「プロレタリア文化大革命の偉大な勝利万歳!」と叫んだ。そして更に、70年8-9月、かって彭徳懐たちを失脚させて、文革への道を開いた「盧山」で、再び九期二中全会が開かれた。開会初日、林彪は、「盧山も吹き飛ばし、地球の自転も止めるいきおい」(毛沢東の言葉)で演説を行った。しかしその林彪もその翌年9月、毛沢東から逃れてソ連に向かう途中に、モンゴルで謎の墜落死を遂げる。

 文化大革命のために捧げられた犠牲は、計り知れないほど大きかった。
 国家主席であった劉少奇は、1967年2月、「党内第一号の資本主義の道を歩む実権派」として中央文革組に直結する紅衛兵によって逮捕・監禁された。そして、後に江青・康生支配下の審査グループが作り上げた報告書により、建国以前からの「裏切り者」、「スパイ」として断罪され、68年10月には党籍剥奪されたまま、69年1月に開封で獄死した。
 劉少奇の妻・王光美も逮捕され、4月に清華大学で公開尋問にかけられた。

 劉少奇をはじめとして、文化大革命により失脚していった主だった党幹部を見ても、彭真(党中央政治局員)、陸定一(副首相)、羅瑞卿(副首相)、朱徳(全人代常務委員長)、賀龍(元帥・国防委副主席)、江渭清(党中央)、呉ヨ(北京市副市長)、胡喬木(中国文芸界の第一人者)、呉芝園(中南局書記)、伍修権(中央委員)、呉冷西(人民日報総編集長)、周小舟(湖南省第一書記)、曾希墾(安微省第一書記)、譚震林(副首相)、など、夥しい数になる。この文革期に1億人の人々が、殺害され、移住を余儀なくされたと言われる。




 
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