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  (5)欧州通貨危機(1992-93年)
★為替相場メカニズム
 為替相場メカニズム(ERM)は、欧州通貨制度の中核をなすものであり、1979年3月に発足した。当初はのEC9カ国の内、次の8カ国(西ドイツ、フランス、イタリア、デンマーク、ベネルックス3国、アイルランド)が参加し、参加国は上下2.25%の幅以内の狭い変動幅の固定的な為替レートのメカニズムをとり、そのうち、イタリアのみは上下6%の変動幅が認められた。
 そこでは欧州通貨単位(European Currency Unit,ECU)が、ERMの共通のニューメレールであり、参加国の通貨当局間で決済手段として使用された。ドイツ・マルクは、事実上のERMの中心通貨として機能しており、ドイツのブンデス・バンク(ドイツ連邦中央銀行)の方針が事実上、ERMをささえていた。
 
 現在までのERMのあゆみは、3段階に分けられる。
第1段階は、79年3月から83年3月までのERMの創生期である。この4年間には計7回の平価の改定が行われた。その間の経済の実態も政策運営も各国ばらばらであり、安定した通貨関係をさぐりあてるのに苦慮した。
 第2段階は、83年3月から90年9月まで7年間でいわばERMの黄金時代であった。その間、平価の変更を要するような為替関係の乱れはなくなり、各国の経済関係はインフレ抑制で一致し、インフレ率は5%前後のレベルに収束しつつあった。この7年間に平価調整はわずか4回しか行われていなかったし、89年6月にはスペインがERMに新しく加盟し、90年10月にはイギリスも加盟し、92年4月にはポルトガルメンバーになり、未加入国はギリシャを残すのみになっていた。ところが90年を契機に、世界の通貨情勢が一変してしまった。
 第3段階は、1990年以降の段階である。この頃から、国際的な投機的資本が巨大化して国家間を動き始めて、国際経済を脅かし始めた。その最初が、1992年と93年の欧州通貨危機である。このことによりERMの為替安定化機能は明らかに変調し始めた。そのきっかけとなったのが1992年の欧州通貨危機である。

 1992年はヨーロッパにとって、EC諸国間の規制や障壁を緩和・統一して、域内の経済的国境を取り除いた「単一市場」を実現させる画期の年であった。この市場が実現すると、人口3億2千万人の世界最大の市場が出現することになる。
 この年に向けて、EC諸国は国内の金融市場の自由化と改革をすすめてきた。ECでの金融取引は従来のロンドンでの立会い所取引から離れ、コンピュータで結ばれた新しい金融市場の形成に向かって動きかかつていた。

 よりにもよって、この年から翌年にかけてヨーロッパの為替相場メカニズム(ERM)は、猛烈な投機的攻撃にさらされた。そして各国通貨当局の必死の介入にも拘らず、結果としては、EC側が敗北した。そしてその余波は94年になって、デリバティブ(金融派生商品)投資をめぐるトレーダー側にも破滅的な損失となって現れて、世界最大手の企業や金融機関を震撼させることになった。
 その顛末は、G.ミルマンの名著「ヴァンダルの王冠―国際金融帝国の敗退」(共同通信社)に詳述されている。ここではトレーダーの活動を主眼にしたミルマンの著書によらず、事件の顛末を中心に述べる。
 ちなみに「ヴァンダル」とは、ローマ帝国を滅ぼしたゲルマンの蛮族のことであり、ミルマンは現代の通貨トレーダー達をそれに譬えたわけである。それはまずイギリスから始まった。

★1992年通貨危機―ブラック・ウェンズデー
 たて1992年は「イギリス経済」にとっては「不運の1年」であった。90年の年央から始まった不況局面は、92年末で戦後最悪の10期目を迎えていた。景気後退の幅は、石油・天然ガスを除いたGDP(国内総生産)で3.9%であり、オイル・ショックに次ぐ戦後2番目の落ち込みで、失業者数は300万人に近づいていた。

 9月10日、メージャー首相はグラスゴーで開かれた経団連の支部の会合で、「ポンドの切り下げはありえない。切り下げは弱者が選ぶ選択肢であり、・・われわれの将来を破綻させる選択だ」といって、ポンドのERM平価を断固守り抜く移行を強調していた。
 しかし6月にデンマークの国民投票でマーストリヒト条約の批准が否決されて以来、為替投機の波はポンドを主要な標的にし始めていた。

9月13日、各国の通貨当局が緊急電話会議を持ち、ドイツの利下げ(公定歩合0.5%、ロンバード・レート0.25%)とイタリア・リラの実質7%切り下げを決定した。

 ブンデス・バンクは、利下げにふみきるまでの1週間に、既に240億マルクという規模でリラの買い支えを行っていた。この過剰資金を吸収するためには、公開市場操作による「不胎化政策」を行う必要がある。しかしその政策により市中金利にはますます上昇圧力がかかり、マルク高・他通貨安の原因である内外金利差はいっこうに縮小しないことになる。このためにブンデス・バンクに残された手立ては、金利引下げしかなかった。しかしこの時のドイツは、まさに通過膨張を抑制するために、利下げを実施するという奇妙な政策展開を強いられたわけである。

 ところがこのドイツの利下げによっても危機は沈静せず、9月15日にはポンドの対マルク相場が当時のERM下限値であった2.778マルクを割り込んでしまった。

 翌16日(ブラック・ウェンズデー)、イングランド銀行は最低貸出金利をまず2%、ついで3%、とやつぎばやに引き上げて、15%まで上げた。それでもポンドは当日のロンドン市場の終値で2.7500マルクという安値をつけた。

 そして翌17日、ついにポンドとリラのERM離脱が決定し、あわせてスペイン・ペセタの5%切り下げも実施された。

 92年9月16日のブラック・ウエンスデーから93年8月のワイダー・バンド採用の1年の間に、イギリス・イタリーの2国がERMから離脱し、その上に、ペセタが3回、エスクードが2回、アイルランド・ポンドが1回切り下げられるという激しい展開をとった。

 ブラック・ウェンズデー以降、EC諸国は、ERMから離脱せず平価変更も行っていないERMハードコア・グループと、ERM離脱国および切り下げ実施国の落ちこぼれ国グループに2分されつつあった。
 前者は、ドイツ、ベネルックス3国、デンマーク、そしてフランス。後者は、イギリス、イタリア、スペイン、ポルトガル、アイルランドである。

★1993年の欧州通貨危機
 翌93年の通貨危機は、スペインが標的となって始まった。3月中旬あたりから激しいペセタ売りが続き、5月にはペセタは再々切り下げに追い込まれていた。平価維持のための金利政策には限界があり、短期金利が13%から18%の間をいききする中で、失業率は20%を越えようとしていた。
 
この経済運営のまずさに、政権の金銭疑惑が追い討ちをかけていた。かっては向かうところ敵なしといわれたゴンザレス首相は、この状況の中で6月6日に総選挙の繰上げ実施を決めたが、それでもペセタに対する投機売りはとまらず、スペイン中銀は、ペセタ防衛のために大規模な介入を繰り返していた。

 このためスペインの外貨保有量は、92年秋の600億ドルから、93年5月には200億ドルまで下がり,望ましい保有水準の最低である300億ドルを割り込んでいた。ERM平価の堅持に固執してきたゴンザレス首相も、総選挙直前になってペセタの再々切り下げをせざるをえなくなった。

 このペセタの切り下げで、ERM平価を守ることでインフレを防ぎ、国内経済の健全化を進めてきたポルトガルの通貨エスクードが、巻き添えを食って切り下げに追い込まれた。更に,各国が低為替政策に転じ始めたことにより最も窮地に追い込まれたのがフランスであった。

 フランスが、各国が次々に為替切り下げを実施していく中で、ひとりマルクに対して自国通貨の減価を許さない政策を取っていると、国際競争力の著しい低下を招くことになる。現にブラック・ウェンズデー以降、フランスの他の欧州通貨に対する実効為替レートは、既に8.6%も上昇していた。もっともドイツの利下げにより、当面のフラン安は免れていたが、それは一時的なものであった。

 ブラック・ウェンズデー以降の欧州諸国が当面した現実は、いずれの国かが低為替政策をとると、他の諸国もそれに追従しなければならないという一種のドミノ的状況であった。スペインのペセタにポルトガルがいやいや歩調を合わせたのもそれである。
 同様にイギリスがポンド安の政策を取ったために、93年1月に、アイルランドも自国ポンドを10%切り下げなければならなくなった。
 
 93年7月、独仏の金利差が非常に縮小してきた。7月末、ドイツが公定歩合の引き下げを見送ったことからフランが急落し、そこから投機の嵐がデンマーク・クローネ、ベルギー・フラン、ポルトガル・エスクード、スペイン・ペセタと次々に他のERM通貨を襲撃していった。この時点でERMそのものが解体の危険にさらされ始めた。
 そこで93年7月31日から8月1日の2日にわたって、各国蔵相・中央銀行総裁による緊急会合が開かれ、ついにERM内における各国通貨の許容変動幅を上下15%まで広げる決定がなされた。
 ただしオランダ・ギルダーとドイツ・マルクとの間だけは、二国間協議により従来の上下2.25%のバンドをそのまま維持することになった。

 ERMは、1992-93年にかけて非常な通貨危機にさらされたが、マーストリヒト条約は、1993年11月1日に批准され、施行され、EC(欧州共同体)は、EU(欧州連合)となった。また将来の欧州中央銀行となる欧州通貨機関は1994年1月1日に設立された。

 欧州通貨危機を通じて、効果的な変動レートを管理し、共通通貨を採用して固定レートを維持することは不可能であり、固定レート制と変動レート制の要素を融合した「混合制度」の存続が試されることになった。


(6)欧州通貨危機を越えて
 EUはマーストリヒト条約に基づき、1999年1月1日より、欧州通貨連合をスタートさせ、共通通貨ユーロが通用するユーランドが発足した。98年5月のEU首脳会議における最初の参加国は、ドイツ、オーストリア、フランス、オランダ、ベルギー、ルクセンブルグ、スペイン、ポルトガル、イタリア、アイルランド、フィンランドの11か国であり、2001年1月にギリシャが加わり12カ国になった。
 ユーロは、99年1月から銀行間取引に使われるようになり、2002年1月1日から紙幣や硬貨が市中で流通するようになった。

 1992年6月から12月にかけて、ヨーロッパの中央銀行の個的介入により売却されたドイツ・マルクはネットで2,840億マルク(1ドル=1.5マルクとすると、1,893億ドル、1ドル=120円として,約23兆円)といわれ、そのうち1,880億マルク(約15兆円)という巨額なマルクがERM通貨を維持するために売却された。
 そしてそれでも通貨の混乱をとめることは出来なかった。この投機を仕掛けたといあれる投資家ジョージ・ソロスは、その相場で10-15億ドル(1,200-1,800億円)を儲けて、一躍、金融市場の寵児として勇名をとどろかせた。
 「ヘッジファンド」と呼ばれる妖怪が、実体としての国家を脅かす時代ここから始まった。
 ヘッジファンドは、1997年のアジア通貨危機にも、かなり本格的に登場する。21世紀の国際金融市場では,世界経済の無視できない撹乱要因となって登場することが予想される。この問題については、アジア通貨危機を書いた後で、章を改めて書く予定である。                         




 
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