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日本人の思想とこころ
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1.日本の首都はどこへ行く?−東京の改造と遷都問題の行方

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21.歴史はミステリー(その16) −南北朝の内乱
22.歴史はミステリー(その17) −足利将軍たちの栄光と凋落
23.歴史はミステリー(その18) −応仁の乱と中世の終焉
24.歴史はミステリー(その19) −キリスト教伝来
25.歴史はミステリー(その20) −倭寇とその歴史
26.歴史はミステリー(その21) −日本歴史のフシギ空間

27.歴史はミステリー(その22) −日本の早期儒学を考える
(1)日本の古来思想に内在化した儒学
(2)早期儒学の伝来
(3)早期儒学の思想
(4)日本の在来思想と早期儒学
(5)平安朝と鎌倉期の早期儒学

28.歴史はミステリー(その23) −儒学から見た日本思想
29.歴史はミステリー(その24) −幕末の長州と尊王倒幕思想
30.歴史はミステリー(その25) −幕末の薩摩藩と尊王倒幕
 
  27.歴史はミステリー(その22) −日本の早期儒学を考える

(1)日本の古来思想に内在化した儒学
 日本に儒学が渡来したのは佛教伝来より100年以上も古い4世紀の後半のことである。それから既に1600年という長い年月が経っており、外来の儒学の大部分は、今では日本文化や生活の中に空気のように内在化して馴染んだ存在になっている。
 そのため、その多くはいまや外来思想ではなく、日本古来の思想と思われているものも少なくない。そのことを本居宣長、渋沢栄一、吉田松陰の3人の例から示してみよう。

●本居宣長の古事記伝
 まず、本居宣長が純粋な和魂の聖典と考えた「古事記」において、すでに儒学思想は日本古来の思想に不可分な形で取り入れられていた。そのため宣長は、あえて古事記の思想的内容への儒学の影響にふれず、文体が純漢文ではないことから、それを日本独自のものと考えて「古事記伝」という大研究を行なったといえる。

 しかし太安万呂が書いた古事記の序文の文体は、唐の長孫無忌の「進五経正義表」の上表文に倣ったといわれる、六朝時代の四六駢儷体の格調高い見事な漢文である。それは中国人も驚くほどの見事な中国文である。
 そのことは既に江戸時代の富士谷御杖(1768-1823)が、「古事記燈」の「大旨」において指摘していたことである。

 御杖によれば、宣長は「古事記」を説くに当たり、「詩の表(おもて)をのみ見」て、言葉の背後にあるものを求めようとしなかった。
 このような宣長の弱点は、平田篤胤になると更に激しくなり、篤胤の場合には儒学といった途端に論理の冷静さが失われてしまうほどである。

 本居宣長の場合、古事記への儒学の影響を文体の面から見ても、その序文にみられる四六駢儷体の見事な漢文はどのように解釈したら良いのか?解釈に苦しむものである。またその内容から見ても、古事記の序文における天地創造の神話は、造化三神の名が違うだけで、記紀の記述と共に中国の「淮南子」の引き写しといえる。

 つまり古事記の場合でも、儒学の影響から離れて純粋な和魂の聖典であることを立証することは、殆んど不可能といえる。
 そのことは、田所義行氏による「儒家思想から見た古事記の研究」(桜楓社)という大著により明らかにされている。
 そこで田所氏が指摘されるように、古事記が成立した8世紀の初頭において、既に日本では儒学思想が導入されてから300年の歳月が経っていた。そのため日本の知識人は中国の儒家思想を既に全身で吸収しており、それらを分離することはもはや不可能であったと考えられる。

 つまり古事記の時代において、既に儒学思想の多くは日本人の生活の中に空気のように日常化していた。そのため儒学思想を明確に外来文化として区別することは、既に不可能な状態になっていたと思われる。
 そのため本居宣長が、大和心とか日本思想と考えていたものの多くは、本来的には中国思想の強い影響の上に成り立っていたと考えられるのである。

●渋沢栄一の生涯の思想を支えた「論語と算盤」
 そのことは、明治以降における日本国家の近代化の旗手を勤めた渋沢栄一を見ても分かる。渋沢栄一の全生涯を支えた思想は、なんと国学でも洋学でもなく、孔子の「論語」であった。つまり儒学は、明治以前の古い思想と思われがちであるが、実は日本の近代化に非常に大きな役割を果たしてきたことを、渋沢栄一の例が示している。

 渋沢栄一は、明治、大正、昭和の3代にわたり、日本の経済界を指導、育成し、日本の資本主義の確立に貢献してきた人物である。渋沢栄一は、幕末にヨーロッパへ渡り、欧米の経済界で学び、それらを日本に移植する仕事をしてきた。しかしこの彼の全生涯を通じての指導理念は、なんと「儒学」であった。

 渋沢栄一の生涯を通じての経営思想の根源は、儒学の中でも「宋学=朱子学」ではなく、「論語」を中心とする「儒学原理主義」とでもいえるものであった。
 つまり渋沢栄一は、「論語と算盤」という言葉で、儒学の倫理と企業経営を実践的に統一する経営学を考えだしたのである。
 その経営理論は、「論語と算盤説」もしくは「経済道徳合一説」などと呼ばれるものである。
 経済史家の土屋喬雄氏によると、渋沢栄一の思想は、民主主義、人道主義、合理主義の3つから成り立っており、民主主義のことを渋沢は、「官尊民卑打破」といい、人道主義を「仁」、合理主義を「道理」と表現したとされる。

 「仁」や「道理」は、まさに儒学の中心的思想であるが、渋沢はその儒学の実践倫理を「論語と算盤」という言葉で企業経営の思想に導入しようとした。
 その思想の導入を図るために、渋沢は大正11年に「論語」を日本の社会を例にとって、実践的に解説した、「実験論語」という大著を書いた。
 さらに最晩年には、「論語」に本格的な注釈を加えた理論的大著「論語講義」を書いている。つまり渋沢の論語との長いつい合いは、6歳から始まり90歳に及ぶものであった。

 渋沢秀雄氏の回想によると、渋沢家における子供たちの教育のために、論語の私塾「克己寮」がつくられた。さらに親類の青少年を招集して「論語会」が催され、日本の経済界においても論語の研究会や講演会を重ねて、「論語」の普及に貢献した。
 渋沢の「孔子」に対して、「孟子」を取り上げたのが吉田松陰である。

●吉田松陰の「孟子」
 嘉永6年6月3日(1853年7月8日)、アメリカのペリー艦隊が4隻の黒船により来航した時、吉田松陰は、まだ24歳の若者であった。
 松陰は、「知行合一」を標榜する儒学の一派・陽明学の徒である。早速、佐久間象山の識見を見直し、外国の軍艦に乗せてもらって海外へ渡航しようと考えた。
 そこで早速、ペリーから少し遅れて長崎へきたプチャーチンのロシアの艦隊により海外渡航をすべく長崎へ向ったが、着いてみると既にロシア軍艦は去っていた。

 翌安政元年1月11日(1854年2月8日)、軍艦7隻からなるペリー艦隊は再び伊豆沖に現われて、江戸湾内の羽田沖まで進んだ。そして3月3日に日米和親条約の調印をすませて下田に帰ったペリー艦隊に、吉田松陰は金子重輔とともに密航を願い出た。しかし願いは拒否され、2人は下田奉行所に自首・逮捕されて江戸へ送られた。

 9月18日に在所での蟄居を申し付けられ、23日に江戸を出発して萩に到着、直ちに野山獄に投ぜられた。密出国は当時では大罪であり、松陰はもはや生きて世に出ることは2度とないと考えていた。
 この激動の幕末期に一切の行動の自由を奪われてた獄中において、松陰が取った行動は非常に興味深いものがある。
 2度と外に出られない獄中で、松陰は3人の友人と孟子の勉強会を始めたのである。

 最初に行なわれたのは、吉田松陰による「孟子」の講義であり、安政2年4月12日から開始されて、2ヵ月後の6月10日に終わった。
 それが終わった直後の6月13日から、次の勉強会を始めた。この勉強会は、囚人が替わり番で講師を務めて「孟子」を読み、研究する形破りなものであった。

 その勉強会では、吉田松陰が同囚の人々と「孟子」の輪講を行ない、そして松陰自身が「孟子」の各章について批判的な感想を記録した。それが「講孟箚記」(こうもうさつき)であり、その内容は、渋沢栄一の「実験論語」に非常に似ている。
 そこでは、字句の細かい注釈はなく、その章句が言おうとしている事を、身の回りの事例を題材にして実践的な解釈を試みており、非常に面白い。

 吉田松陰は、安政2年12月15日、自宅預けになり、実家である杉氏のもとに帰り、孟子の輪講は孟子の「万章下」のところで止まっていた。そこで「講孟箚記」が中断される事を心配した家族たちは、さらに家で継続することを勧めた。
 そこで12月17日夜から松蔭は再び自宅において孟子の研究会を継続し、安政3年6月18日、孟子全巻の研究を終わり、「講孟箚記」は完成した。

 安政4年11月、杉家内の小舎を修復した「松下村塾」を松蔭自身が指導する事になり、安政5年7月頃には塾はその全盛時代を迎えた。松下村塾には、その後に明治維新の大業に挺身した人材の多くが集まり、松蔭の教えを受けた。

 しかしこの年6月、井伊直弼が大老に就任し、いわゆる「安政の大獄」が始まった。幕府に批判的な人材は一斉に摘発され、安政5年12月29日、松蔭は再び野山獄に囚われの身となり、さらに翌安政6年5月に江戸に送られた。
 そして、7月伝馬町の獄に下り、10月27日同獄内で斬刑に処せられた。まだ30歳の若さであった。

 松蔭がこの最も大変な時期に、何故、王陽明ではなく孟子の研究を選択したかは、非常に興味のある問題である。私には、渋沢の場合と同じ「儒学原理主義」が、幕末から明治の日本思想を支えていたと思われるのである。






 
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