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日本人の思想とこころ
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  (3)4〜5世紀の倭国は?
●日本書紀の紀年をあわせる
 上記の広開土王の時代が、倭国のどの時代に当たるかをなんとか知りたい。ところが日本書紀の編年別の記述は、特に、この時代から以前の紀年が編纂過程で大きく粉飾されている。
 そのため、図表-1の記事が倭国のどの時代に対応するかを調べるのは、かなり困難な仕事になる。そこでまず三国の史実と倭国の記録の一致する干支を調べると、図表-2になる。

図表-2 干支による倭国史と朝鮮史の紀年の突合せ
西暦 干支 日本書紀 東国通鑑
    天皇紀 事項 百済紀 事項
375 乙亥 神功紀55年 百済肖古王薨 晋寧康3年 冬11月、百済王近肖古薨、太子近仇首立
376 丙子 神功紀56年 百済王子貴須立王となる    
384 甲申 神功紀64年 百済国貴須王薨、王子枕流王立つ 晋太元9年 夏4月、百済王近仇首薨、元子枕流立つ
385 乙酉 神功紀65年 百済枕流王薨、王子阿花年少、叔父辰斯奪い立ちて王になる 晋太元10年 冬10月、百済王枕流薨、太子阿○幼なく、王弟辰斯立つ
392 壬辰 応神紀3年 百済辰斯王立つ。百済国に失礼あり、辰斯王を殺し、これを謝す。紀角宿弥等,便を阿花に立て、王となして帰る。 晋太元17年 11月、百済王辰斯、狗原行宮に薨ず、枕流王の子、阿○立つ。
397 丁酉 応神8年 百済記にいう。阿花王立つ。貴国に礼無し。故に、わが枕弥多礼、○南、支侵、谷那、東韓の地を奪う。此れをもって、王子直支干を天朝に遣わし、以って先王の好を修める也。 晋隆安元年 百済、倭と好を結び、太子腆支を遣わし、質となす。
405 乙巳 応神16年 百済、阿花王薨ず。天皇、直支王を召し、此れにいいて曰く、汝、国を返し、以って、位を継ぎ、東韓の地を賜り、これに遣わす。 晋義熈元年 秋9月、百済王阿?薨ず。太子腆支、倭国に質し帰らず。太子仲弟訓解、国政を摂す。以って、太子の帰りを待つ。季弟礫礼、訓解を殺すし、自立して王となる。腆支、王の訃を聞く.痛泣して帰を請う。倭主、兵100人を以って衛送す。(以下、略)
420 庚申 応神25年甲寅 百済直支王薨、則、子久爾立ちて王となる。 宋永初元年 春3月、百済王、腆支薨ず。長子久爾辛立つ。
(出典)橋本増吉「東洋史上から見たる日本上古史研究」、東洋文庫、635-637頁から作表

 図表-2の日本書紀の記述部分には、現存しない百済紀の史料が使われた形跡があり、そこでの百済の干支が日本書紀のそれと一致している箇所が見られる。
 しかしその干支は適合するものの、応神天皇の薨去は394年頃と思われることから、日本書紀における天皇年紀はこれに全く対応していない
 さらに、上表の420年の条においては干支も合わなくなる。

 次に5世紀については、倭国の天皇に関する資料が中国の史書に記載されている。
 ただしここでは天皇の名前が日本名ではないため、議論は分かれている。それを図表-3にあげるが、天皇名(太字)は通説に従う。

図表-3  倭の五王に関する中国史料 
西暦 干支 中国年号 事項 出典
421 辛寅 高祖武帝永初7年 倭王讃(仁徳)、万里修貢す 宋書倭国伝
425 乙丑 太祖文帝元嘉2年 讃(仁徳)死し、弟珍(反正)立つ。 同上
438 戊寅 太祖文帝元嘉15年 倭国王珍(反正)を以って、安東将軍とす 宋書文帝紀
443 癸未 文帝元嘉20年 倭国王済(允恭)、使いを遣わして奉献す。また以って安東将軍倭国王とす。 宋書倭国伝
451 辛卯 文帝元嘉28年 秋7月,甲辰、安東将軍倭王倭済(允恭)に安東大将軍を進号す 宋書文帝紀
461 壬寅 孝武帝大明6年 倭国王世子興(安康)を以って安東将軍となす 宋書孝武帝紀
461 辛丑 孝武帝大明6年 済(允恭)死す。 宋書倭国伝
463 癸卯   興(安康)死す。弟武(雄略)立つ。 宋書倭国伝
478 戊午 順帝昇明2年 5月、倭国王武(雄略)を安東大将軍とす。 同上
479 己未 昇明3年 倭王武(雄略)を鎮東大将軍に進む 南斉書夷白伝
502 壬午 梁武帝天監元年 倭王武(雄略)征東将軍を号す 梁書武帝本紀、倭国伝
(出典) 中山久四郎「支那史籍上の日本史」雄山閣、118−120頁から作表

 図表-2では、420年が応神25年になっている。ところが図表-3においては、425年に仁徳帝は崩御されており、このままでは仁徳帝の治世が殆どないことになる。したがって図表-2の干支について、日本書紀は正しく記載しているものの、特に応神天皇の治世は4世紀の後半に移す必要がある

図表-4  応神帝以降の即位年の推定
即位年 干支 天皇名 推定根拠
363 癸亥 応神天皇 星野恒説
394 甲午 仁徳天皇 菅政友説
425 乙丑 履中天皇
438 戊寅 反正天皇 宋書文帝紀,歴研年表
440 庚辰 允恭天皇 干支一致
460 庚子 安康天皇 干支一致
463 癸卯 雄略天皇 雄略前記の記事
480 庚申 清寧天皇 干支一致、南斉書記事
484 甲子 顕宋天皇 干支一致
488 戊辰 仁賢天皇 干支一致
499 己卯 武烈天皇 武烈元年紀、干支一致
507 丁亥 継体天皇 天皇年紀の修正なし。


 図表-4は、図表-2,3などを基にして天皇の即位年を推定したものである。
 ここから見ると日本書紀の記述も5世紀の中頃からは、干支が大体は合うようになる。さらに6世紀はじめの継体天皇頃からは、天皇年紀の修正も減少するようである。

 これから見ると高句麗における広開土王の時代に朝鮮に攻め込んだ倭国の兵は、晩年の応神天皇の軍隊であったらしい。そう考えて、図表-1をいま一度、見直してみると、そこでの倭国の事跡がかなり明らかになってくる。

●倭国の王朝のナゾ −そのいろいろ
 古代倭国の王は、天武帝の頃から「天皇」と呼ばれるようになる。そして万葉集にも「天皇=神」として歌われるようになる。
 しかし4〜5世紀の倭国の時代には、まだ統一国家の「天皇」ではなく、ただ「倭国」という部族国家の「王」にすぎなかった。ところがその倭国の「王」の時代に、すでに名前に「神」が付けられている王が3人ある
 それは初代・武天皇、第10代・崇天皇、第15代・応天皇である。
 
 その中でも高句麗の広開土王の時代に朝鮮に攻め込んだ倭国の応天皇は、生母が仲哀天皇の妃・功皇后であり、親子ともに「神」の名称が付けられている。
 これはただごとではない!

 「王」の名前に「神」の名称がつけられた理由は、そこが新しい王朝の始まりであったことにあると私は考える。
 その最初は初代・神武天皇である。これは倭王朝の初代であるから、「神」がついても不思議はない。しかし第10代と第15代の王が「神」とされた理由を考えるために、まず倭国時代の王の名前と生誕の地、御陵の所在地などのデータを図表-5にまとめてみる。

図表-5 初期の王の生誕地、帝都、御陵の所在地
王の名 おくり名 生誕の地 帝都の所在地 御陵の所在地
1 神武 カムヤマトイワレヒコ 九州日向? 奈良県橿原市 奈良県高市郡
2 綏靖 カムヌナカワミミ 奈良県磯城郡 奈良県御所市 同上
3 安寧 シキツヒコタマテミ 奈良県御所市? 奈良県大和高田市 同上
4 懿徳 オオヤマトヒコスキ 奈良県大和高田市? 奈良県橿原市 同上
5 孝昭 ミマツヒコカエシイネ 奈良県橿原市? 奈良県御所市 奈良県南葛城郡
6 孝安 ヤマトタラシヒコクニオシヒト 奈良県御所市? 同上 同上
7 孝霊 オオヤマトネコヒコフトニ 同上? 奈良県磯城郡 奈良県北葛城郡
8 孝元 オオヤマトネコヒコクニクル 奈良県磯城郡? 奈良県橿原市 奈良県高市郡
9 開化 ワカヤマトネコヒコオオビビ 同上? 奈良県奈良市 奈良市油坂町
10 崇神 ミマキイリヒコイリエ 奈良県奈良市? 奈良県桜井市 奈良県磯城郡
11 垂仁 イクメイリヒコイサチ 奈良県桜井市? 同上 奈良市尼ケ辻町
12 景行 オオタラシヒコオシロワケ 同上? 同上 奈良県磯城郡
13 成務 ワカタラシヒコ 同上? 同上 奈良県生駒郡
14 仲哀 タラシナカツヒコ 同上? 同上 大阪府南河内郡
15 応神 ホムタワケ 筑紫の蚊田 大阪市 同上
16 仁徳 オオササギ 大阪市? 同上 大阪府堺市
17 履中 イザホワケ 同上? 奈良県桜井市 同上
18 反正 ミズハワケ 同上? 大阪府松原市 同上
19 允恭 オアサズマワクゴノスクネ 大阪府松原市? 奈良県高市郡 大阪府南河内郡
20 安康 アナホ 奈良県高市郡? 奈良県天理市 奈良県生駒郡
21 雄略 オオハツセノワカタケ 奈良県天理市? 奈良県桜井市 大阪府南河内郡
22 清寧 シラカノタケヒロクニオシワカヤマトネコ 奈良県桜井市? 同上 同上
23 顕宋 オケ 同上? 奈良県高市郡 奈良県北葛城郡
24 仁賢 オケ 奈良県高市郡? 奈良県天理市 大阪府南河内郡
25 武烈 オハツセノワカサギ 奈良県天理市? 奈良県桜井市 奈良県北葛城郡
26 継体 オフトツメ 奈良県桜井市? 大阪、京都、奈良 大阪府三島郡
 (注) 多種の資料によったため、所在地の呼称は戦前のものが混在している。

 ▲王の「おくり名」が異なる3王朝
 神武天皇は、そのおくり名を「カムヤマトイワレヒコ」という。イワレ(磐余)とは、高天原の天香久山が大和に天下ってできた神山・天香久山がある地名である。
 神武天皇のおくり名の言葉をつないで見ると、その名は、「カミ」、「ヤマト」、「イワレ」、「ヒコ=貴人」であり、「ヤマトのイワレ地方の貴人」という意味になる。

 つまり初代・神武天皇から始まる倭王朝は、図表-5からも明らかなように、大和地方の南西部の橿原や葛城地方を拠点にして成立したと思われる。
 この「葛城王朝」は、倭国の中心的な王朝であるが、これに対立する有力な部族が国内にはまだいくつか並存していた

 最初の神武天皇の「葛城王朝」に対立する第1の抵抗勢力は、オオクニヌシに支配される「出雲王朝」であった。そして出雲王朝の勢力は3世紀ころには、出雲地方は勿論、大和地方の大三輪氏を含み、さらに紀国の熊野に到るまでの広い範囲に勢力を伸ばしていた。この強大な出雲王朝の勢力を取り込み、大和と出雲の勢力を合体して作り上げた新しい王朝が、崇神天皇の「三輪王朝」であったと思われる。

 そこでの天皇のおくり名は、「葛城王朝」における「タラシ」、「カムヤマト」、「オオヤマト」、「ヤマトネコ」などから、「イリヒコ」、「タラシヒコ」に変わる。
 そして「三輪王朝」の王都は三輪山を中心とした桜井市に移ったことが図表-5から分る。この「三輪王朝」により、倭国は、それまでの奈良平野の一部族の国家から、日本列島の中央の出雲、大和、紀国を結ぶ一大国家に成長した。
 
 その結果、崇神天皇の10年9月に、全国に「四道将軍」を派遣し、従わないものは討伐するほどの王朝の覇権を国内的に確立した
 「三輪王朝」は、国際的には、朝鮮の加羅との間に任那加羅と呼ばれる軍事同盟を締結し、任那が朝貢するまでになった。
 さらに、垂仁天皇のときには、新羅王の天日槍が帰化してくるまで倭国の國際的地位が上がった。この王朝は、出雲に主体があるため、朝鮮では新羅と加羅と友好関係にあったことが注目される。

 
 しかし国内的には、三輪王朝に対立する大きな勢力がまだ九州にあった。九州はヤマタイ国が存在したとする説もあり、同時にアマテラス族の発祥の地でもある。
 そこで記紀によると、垂仁天皇に続く景行天皇の時代から、九州の「熊襲」=クマ、アソ征伐の話が登場してくる。
 しかし九州の政治勢力の大きさは「クマソ」という山賊のようなイメージとは違い、かなり強大なものであったことが想像される。
 
 要するに、倭国家が統一国家になるための最大な課題は、奈良地方を中心とした王朝と九州を中心にした王朝の統一の実現であったと思われる
 ここで九州の部族国家と三輪王朝を合体して、統一国家としての倭国を確立したのが、応神天皇に始まる「河内王朝」であった、と私は考える

 ▲応神朝のナゾ
 応神朝の成立は、九州の部族国家を取り込んだニホン国の第3の建国であったと私は思う。そのため記紀では、応神天皇と生母・神功皇后の事跡であるクマソ征伐と朝鮮遠征が大きなウエイトを持つことになり、そこからともに名前に「神」がつけられた、と考えられる。
 しかしこの第3の建国過程の記述にはかなりの無理があり、その多くは殆ど史実とは考えられず、多くの事項がナゾとして残されている。
 それらをまとめてみると次のようになる。

(1) 応神天皇紀と神功紀の併記と長い治世
 日本書紀では、応神天皇の年紀と神功皇后の年紀が併記されている。このことは正史としては異例のことである。しかもその内容はともに激しい粉飾が目立ち、殆ど史実として扱えない話が多く掲載されている。
 これは神功皇后の旧王朝における事跡を神功紀の段階でまとめ、その後に応神天皇の新王朝の事跡を応神天皇紀として残す必要からきたと考えられる。
 そのため応神紀の治世は、人間の寿命を遥かに超える110年という長さになった。
(2) おくり名
 応神天皇の生母・神功皇后のおくり名は、オキナガタラシメである。この「タラシ」系の後に登場する応神天皇のおくり名は、ホムタであり、その後の仁徳帝はオオササギ、履中帝はイザホワケ、反正帝はミズハワケなど、おくりな名の系統は応神帝を境に大きく変化する。
 しかも応神天皇の出生の地は、九州筑紫の蚊田であり、今までの天皇の系列とは全く異なる九州の有力部族を主体にした新しい王朝が、ここから始まった事が分る。
(3) 王都
 応神天皇以降、倭王朝の都や御陵が、在来の奈良周辺から河内平野に移る。このことは、従来、水路と縁がなかった奈良盆地に対して、浪速の津を介して王都から直接、国内・国外への水路利用が可能になり、朝鮮半島への直接的水路も開かれたことになる。

 ▲応神・仁徳朝の日朝関係
 この王朝に先立つ神功紀から、国内、外ともに、朝鮮への軍事攻撃の記事で満たされるようになる。それはまさに391年の広開土王の碑文がいうように、「倭、渡海して百済、新羅、加羅を破り、臣民とす」という言葉に表されるものであった。
 この応神、仁徳帝に相当する日朝関係の記事を図表-6にあげる。

図表-6 応神、仁徳帝代における日朝関係の年表 
西暦 干支 倭国の王 事項 出典
363 癸亥 応神天皇 応神天皇の即位? 星野恒説
364 甲子 同上 甲子、卓淳国=任那国の別種、わが国と通ず。この頃から日朝の関係が明らかになる。百済が来服しようとしていた。百済、近肖古王来貢、新羅に、4月倭兵大いに到る 三国史記など
366 丙寅 同上 斯摩宿弥、朝鮮の卓淳国へ行く。使者を百済へ使わす。神功皇后摂政紀46年 日本書紀
367 丁卯 同上 百済、わが国に帰服 三国史記など
369 己巳 同上 この頃、任那日本府が成立?己巳、新羅征伐、百済記?9月に高句麗、百済を攻撃、11月に百済が高句麗を破る。 三国史記など
382 壬午 同上 新羅朝貢せず。襲津彦(沙至比跪=百済紀)を遣わし、新羅を討つ。 神功紀62年条
391 辛卯 同上 倭、渡海して百済、新羅を破り、臣民とする。 高句麗広開土王碑文
393 癸巳 同上 夏5月、新羅,倭人来たり、金城を囲む。 三国史記など
394 甲午 仁徳天皇 仁徳天皇の即位? 菅政友説
397 丁酉 同上 百済、倭国と好を結び、大子を人質にする。 三国史記など
399 己亥 同上 百済、高句麗を討たんとし,大いに兵馬を徴発。民、役に苦しみ、多く新羅に走る。新羅、高句麗に救援をこい、倭に備える。百済、誓いに違い、倭と和を通じた。新羅、使いを高句麗に遣わし、倭人その国境に満ち奴客をもって民となすを告げ、以って請明す。 高句麗広開土王碑文
400 庚子 同上 高句麗、新羅を救援して、倭を打つ。高句麗、5万の兵を出して新羅を助け、男居城より新羅城にいたる。城中に倭軍満ち、高句麗の官兵、倭賊を退け、追撃して、任那・加羅にいたり、しろを攻略して帰服させる。安羅人戊兵、反撃して新羅城を奪回。(碑文) 同上
402 壬寅 同上 新羅、倭国と通好氏、人質を出す。百済、使いを倭国へ遣す。高句麗、燕を攻める。 三国史記など
404 甲辰 同上 倭軍、帯方郡の故地に出兵し、高句麗軍と戦い、敗退する。 高句麗広開土王碑文
405 乙巳 同上 高句麗、燕王来たり、勝たず帰る。倭兵新羅に来たり攻める勝たず帰る。 三国史記など
407 丁未 同上 倭国、新羅の東辺を侵す、又南辺を侵す 三国史記など
408 戊申 同上 新羅王、倭人を対馬に討つ。高句麗、使いを燕に遣わす 三国史記など
409 己酉 同上 高句麗、国東に6城を築き平譲の民戸を移す。百済へ倭国の使者きたる。 三国史記など
413 癸丑 同上 倭国、東晋に方物を貢ず。(晋書)。安帝のとき、倭王賛在り。梁書諸倭伝・倭) 三国史記など
415 乙卯 同上 新羅、倭人と風島に戦い、此れに勝つ 三国史記など
421 辛酉 同上 倭国王讃、宋に修交し、武帝寄り除授の詔を賜る 宋書倭国伝
425 乙丑 履中天皇? 仁徳天皇崩御 宋書倭国伝


 ▲倭の五王の時代と倭国の危機
 大阪の空の玄関口が伊丹であった頃、着陸態勢に入った飛行機は河内平野の上を高度を落として飛んだ。その下に展開される応神、仁徳陵をはじめとする巨大古墳群は、空から見て初めて分るほどの壮大な規模さで我々を驚かせた。
 それらは、我々の考える日本的なスケールを遥かに越えており、エジプトのピラミッドに並ぶ世界的な迫力を持っていた。

 この日本的スケールから外れた「河内王朝」については、かつて江上波夫氏によりユーラシア大陸から来た騎馬民族であるという説が唱えられ、細かい議論の多い日本の歴史学界に大きな衝撃を与えた。
 そしてこの「河内王朝」=騎馬民族説は、一時は圧倒的な影響力を社会に与えたが、史実の裏づけに乏しいため、その後は次第に消滅していった。
 しかしこの倭の五王の異質性の指摘は、大きな功績であったと私は思う。

 倭五王の時代の性格は、雄略天皇が昇明2(476)年に宋の順帝に上表した有名な文章により、宋書夷蛮伝に残されている。
 そこには天皇みずから甲冑をつけて絶え間なく国の内外を征服し、その範囲は、東は毛人(=蝦夷)55カ国、西は衆夷(=熊襲)66カ国に及び、さらに海を渡り海北95カ国を平定し、「王道融泰、土をひらき、畿(さかい)を遠くした」と立派な漢文で書かれている。
 ここでいう海北95カ国とは、魏志には三韓78カ国と書かれており、倭の征服が更にそれ以上に及んだことを物語っている。

 雄略天皇は、このとき近々、大軍により高句麗の征服に乗り出す了解を宋に求めており、この「五王の時代」はまさに倭国の征服王朝とも言うべき時代であったことが分る。
 ところがこの河内王朝は、6世紀初頭の武烈天皇に跡継ぎがないことから、王朝の断絶の危機に立つことになった。日本書紀では「みつぎ絶ゆべし」と述べている。

 そこで第一の後継の候補者として、丹波に住む倭彦王が上がったが、王は身の危険を感じて逃げてしまった。そこで第二の候補者が、越前三国のオホト王になり、継体天皇が擁立された。
 このとき朝鮮半島では、512年に任那の4地方が百済に併合され、翌年には己○・帯沙の2地方が百済に分割されるという事件が起こっていた。さらに新羅は任那に圧力をかけ始めており、朝鮮半島に占めていた倭国の勢力はかなり脅かされ始めていた。
  
 この国際状況を踏まえて、527年に倭国は朝鮮半島に6万の大軍を派遣して軍事行動に出ることを計画した。ところが、この段階で北九州の豪族たちが、筑紫の国造(くにのみやつこ)=地方官である磐井を擁して叛乱を起こした。
 この磐井の乱は、中央政府に深刻な打撃を与え、さらに、継体天皇とその王位継承をめぐり、6世紀初頭の倭国は建国以来、最大の国家的危機に突入した




 
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