アラキ ラボ
日本人と死後世界
Home > 日本人と死後世界1  <<  25  26  >> 
  前ページ次ページ
  (2)肉体を離れた心霊は存在するのか -日本のニュー・サイエンスの先駆者福来友吉

◆「天眼通」の女 -御船千鶴子

 明治43(1910)年4月25日の東京朝日新聞は、熊本の御船千鶴子という女性が、普通の人には見ることが出来ないものを透視する「天眼通」の女性であること、そして、その透視能力を東京帝国大学助教授の福来友吉が実験し、その結果を発表することを伝えている。

 日本では、透視能力とか心霊現象などというものは、いかがわしい祈祷師、宗教家などが扱う領域であり、まともな学問や科学の対象になるものでないとする考えが、今なお根強くはびこっている。それが百年も前に、しかも東京帝国大学の先生が問題にするということだけでも、当時のマスコミを騒がせるには、十分なテーマであったと思われる。
 しかもその内容は、見えないものを透視するという、奇術や魔術で行われていて、そのほとんどがインチキな能力を売り物にしたものである。それをあろうことか、帝大助教授という立場の人物が科学の実験対象として扱おうとしたわけである。そのため、福来友吉は本当に真面目にこの実験を行ったにもかかわらず、後に大学を追われ、被験者となった御船千鶴子は自殺するという、悲劇的な結末を迎えてしまう。
 しかし彼女には実際にその能力があったようであり、妹も同じ能力をもっていたが、姉の死をみて、終生、自分の能力を人に見せなかったといわれる。今ではこのような能力の存在が認められ、米国・ロシアなどでは国家的に優遇されているが、日本では今なおそれらの偏見から抜け出しているとはいえない。

 さて福来博士は、すでにその年の2月に、千鶴子に対してカードに書いた名前、住所などを透視させるという実験を行なっており、そのほとんどすべてが正解であるという結果を得ていた。そして、4月には京都大学の今村博士と共同で、立会人には有名人が名を連ねた公開実験で行われた。それが東京朝日新聞に報道されたわけである。

 さらに同様な透視実験が、丸亀市の長尾郁子夫人にも行われた。彼女の場合は、千鶴子の実験に興味をもって始めてみたら、自分でもできたところから始まった。千鶴子は、実験物に手をふれて透視する方法をとったため、いろいろ疑われたが、夫人の場合は全く手を触れずに透視する方法をとった。実験は、半紙に三文字を書き、箱にいれて外から読み取るものであり、そこでも立派に透視能力の存在が立証された。
 透視能力は、さらにその後、北海道の森竹鐵子、岡山の御船常代、神戸の三田光一という被検者でも行なわれて、透視能力をもつ人々が実在することが立証された。

◆透視から念写へ -長尾婦人の念写能力

 明治43年11月18日、熊本で福来博士は、既に撮影されているが未現像の写真乾版の透視実験を、御船千鶴子に対して試みた。千鶴子は、未現像の乾版の文字を読むことは出来ないことが分かった。その帰り道、福来博士は同様の実験を、菊池学士に依頼して長尾夫人に対して試みてみた。その実験の内容は、「高」の字を書いたカードを撮影し、未現像の乾版を長尾夫人が読みとるというものであった。

 12月4日に、菊池学士が長尾夫人に対して「高」の字を写した末現像の乾版を読む実験を試みてみると、彼女は見事にその透視に成功した。更に12月7日には、「哉天兆」という3文字を乾版に写したもので、同様に透視実験に成功した。このことにより、未現像の乾版であっても、そこに写っている文字の透視が可能であることがわかった。

 そしてこの未現像の乾版の透視実験から、「念写」という能力が存在することが分かってきた。それは、福来博士が菊池学士に依頼した上記の実験結果である写真乾版を現像してみると、「高」の字と「哉天兆」の乾版が、2枚とも膜全面が著しく感光していることから分かった。
 このことは長尾夫人の精神の働きによって感光したとしか考えられないわけで、ここから「念写」という次の能力の実験が始まった。

 明治43年12月26日、福来博士は1枚の種板を黒紙で幾重にも包み、ボール箱に入れて長尾家へもっていき、さらにそれを白いボール箱に入れて、その上に「心」の字を書いた紙を張った。結果は、種板に字は現れていなかったが、局部的に感光していた。これが念写実験の始まりになった。
 翌日、同様な方法で黒丸を種板に念写する実験を行い、丸い形の念写に成功した。さらに、方形、十字形にも成功した。

 これらの実験結果により念写の可能性が分かり、その後、天照、黒丸、神、仁、一、川などの、形や文字の念写に成功した。
 さらに、念写は、北海道の森竹鐵子、高橋夫人、武内天真、渡部偉哉、三田光一など、多くの人々により実験が行われて、その能力の存在が明らかになった。

◆三田光一における念写と霊能力

 さらに神戸の三田光一によって、遠距離間の透視から文字以外の念写実験に領域がひろがった。三田光一は宮城県気仙沼の出身であり、インド、中国などを放浪し、既に20年も前から関西地方を中心に超能力を売り物にしていた、プロの霊能者であったようである。

 実験は、大正6年2月18日に通信実験として行われた。実験の内容は、木製の箱に2枚の写真乾版を厳封して書留小包で郵送し、その内容を透視すること。それとは別に書面にて、浅草観音堂の裏にかかげてある山岡鐵舟の額面の文字を神戸で透視し、その文字を小包の中の箱に入った写真乾版に念写することであった。
 実験は岐阜県大垣町において、小包の内容の透視と念写を、立会人が参加して公開で行われた。その結果、実験物の中身は包装を解くことなく、正確に透視された。さらにその上、鐵舟の額面の「南無観世音」という文字が透視されたのみならず、開封されないままの小包の中の乾版に、山岡鐵舟の書が字体もそのままに写し出されていた。これらの事実は、通常の常識では全く考えられないことであり、世人が三田光一の能力には、なにか種があると考えたのも止む得ないことであった。
 このあたりから福来友吉の研究は、従来、科学の世界が禁断の領域としてきた霊の実験に入る。

◆三田光一による念写の実験と生霊の出現

 福来友吉による三田光一のさらなる念写実験は、大正5年10月16日の夜9時に岐阜県大垣町の日吉座において、有識者立会いのもと2000人の観客を集めて行なわれた。そこで三田光一は、まだ自分では行ったことのない大垣城を、写真乾版に写し出す実験を行った。
 つまり大垣城へ実際に行ったことがない三田は、念写を行うに当たって会場から生霊となって大垣城を見にいき、そこで見た大垣城の姿を乾版に写し出そうという驚くべき実験であった。

 その実験の結果は、2枚の乾版に見事に大垣城が念写され、実験は成功裡に終わった。その夜、三田光一の「生霊」が、大垣城への道をたずねたという瀬戸物屋の布袋廬三という老人は、三田光一と年齢、服装、容貌がそっくりな人に、ちょうど同時刻に大垣城への道を聞かれたことを証言している。
 しかし残念ながらその道を聞いた人物が、三田光一の生霊である決定的な証拠は示されていない。そのため道をきいた人物は、偶然似た人物であったか、それとも別に手配されていた人物であったかと疑う人々がいても不思議はない。この種の霊現象では、かなり良い状況証拠が示されていても、今一つ決定的証拠がないために、結局は信じる人は本当と思い、信じない人はウソと思う場合が非常に多い。

 立花隆「臨死体験」では、霊現象におけるこのような傾向を、有名な心理学者の名をとって「ジェームスの法則」として紹介しているが、この三田の生霊の大垣城見学も、その一例のようにみえる。

◆三田光一と死霊の予言

 昭和5年3月、福来友吉は後援者であった不動銀行頭取牧野元次郎の次男二郎の心霊治療を、三田光一に依頼した。当時、牧野二郎は24才の青年であったが、虚弱な上に肺をおかされて既に絶望的な状態にあり、3月29日夜9時40分に東京の牧野邸で死去した。
 その同じ29日夜9時45分頃、神戸市須磨の三田光一が帰宅したところ、すでに牧野二郎は頭髪をきれいに調え、羽織袴の改まった姿で、床を後にして端坐していたが、5、6秒で消えた。三田が精神統一して招霊すると、再び現れて次のことを伝えてくれるよう依頼した。

 (1)2月に三田が二郎に、今度生まれてくる自分の子供は女であると予言したが、実は男の子であること。  
 (2)その子は自分の身代わりであり、相続者であること。
 (3)妻は、再婚しないで、子供を自分と思って養育し、社会的に活動できるように育ててほしいこと。
 (4)霊魂は不滅で、自分は朝夕、妻と子供のそばにいること。

 これらの伝言は、4月4日の初7日に頭取、未亡人、主治医に伝えられた。
 未亡人の出産は、産科医が鑑定した6月中旬ではなく、三田が予言した100ケ日の御逮夜である7月5日夕で、読経僧のならす鐘の響きとともに、霊の予言通り男子が出生した。

◆三田光一と心霊写真

 三田光一の念写は、その後、さらに肖像の念写、つまり心霊写真へと領域を広げた。
 昭和5年10月2日、三田は上京のついでに麻布区飯倉の牧野二郎の未亡人を訪問した際、未亡人の懇請に応じて牧野二郎の肖像の念写を行った。未亡人及び牧野頭取の話によると、実験用の乾版は、出入りの写真材料屋から電話で取り寄せたもので、1ダース原封されたままのもので、仏壇に供えられていた。

 三田は乾版から約5尺5寸(1.6m)の所に座り、夫人はその後ろに座った。実験は、午前10時25分から始まり、1分5秒で終わった。その後、乾版は現像するまで仏壇の中に置かれ、現像は仏間を暗室として、夫人立会いの下、浜豊彦という人が行った。
 現像の結果は、1、2、12枚目の乾版に、陰陽2種で同一の肖像が現れ、頭取、夫人共に、牧野二郎の肖像であることを確認した。(その肖像の念写写真は、福来友吉「心霊と神秘世界」に掲載されている)

 さらに不思議な念写が三田光一により行われている。
 京都市外上嵯峨に通称「舟形屋敷」という400坪の広大な邸宅があった。三田は持ち主の染工業者花村満寿の依頼をうけて、昭和5年1月21日、その邸宅に起こる怪現象の透視を行った。その結果は、驚くべきものであった。 その地は、僧空海が嵯峨天皇の御悩平癒を祈るために、高野山の地主神である丹生都比賣の御霊をここに移し、100ケ日の祈願を行った聖地であり、さらに詳しい歴史的事実が三田光一によって透視された。三田は、弘法大師の信者でもなく、その伝記についても何の知識も持たぬ人であり、しかも透視を行った日は1月21日の初大師の日であることを、知らずに透視を行っていた。

 3月16日には、嵯峨町長などの主催で、嵯峨公会堂で透視念写の公開実験が行われ、念写の題は大覚寺心経殿と決まった。しかし実際に念写実験で出てきたのは、弘法大師の弘仁13年7月15日から百ケ日御修行の時のお姿と思われるものであり、それが1枚の乾版に写し出されていた。その姿は弘法大師の憑依霊のものと思われるが、弘法大師である決定的証拠はない。ここでも「ジェームスの法則」が作用している。

 昭和7年12月1日、福来友吉の研究は、西欧での研究事例の紹介から、仏教や心理学、生理学、物理学などの理論を含めて、573ページの大著「心霊と神秘世界」として発表された。上記で紹介したものは、すべてこの著書によるものである。そこには福来博士自身が日本で行った実験の詳細や、外国のさらに驚くべき実験例、そしてそれらの思想的背景がのべられている。

 




 
Home > 日本人と死後世界1  <<  25  26  >> 
  前ページ次ページ