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日本人と死後世界
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  (4)菅原道真 -「天神」となった怨霊

 いまなお学問の神「天神様」として、全国各地で信仰を集める菅原道真(845-903)は、平安朝初期のすぐれた文人政治家である。醍醐天皇(885-930)が即位した寛平9年(897)の翌年、藤原時平が左大臣、菅原道真が右大臣に任命された。

 醍醐天皇の親政による積極的な政治は、後に「延喜の治」として公家の理想とされる一時代となり、道真はその基礎をつくった。天皇の即位時、天皇の御歳は12才、時平26才、道真52才である。道真は宇田法皇の信頼が厚く、文人政治家としての実績は十分にある。
 野心的な青年政治家である時平にとって、宇田法皇と結び付いた上に、年長で実力のある道真の存在は、非常に邪魔なものであったと思われる。しかも天皇はまだ非常に若いわけで、道真が落とし入れられる状況は揃い過ぎている。

 延喜元年(901)正月25日、道真が宇田法皇の第3皇子である齊世親王を立てて天皇を廃せんとしたとの密奏があり、宇田法皇の強い抗議にもかかわらず、道真は筑紫に、4人の子は皆4処に分けて流された。時平は、道真門下の諸司にあるものまで一掃しようと計ったが、三善清行の諌言でやめた。

      東風(こち)吹かば にほいおこせよ 梅の花
        主人(あるじ)なしとて 春な忘れそ

 道真が住みなれた紅梅殿を出て、配処へ向かう時のあまりにも有名な歌である。
 筑紫では、ほとんど廃寺に近く壁落ち雨漏る浄妙院という寺に蟄居し、外へ出なかった。日用品も不足し、読書も月の光によるほどで、時には米穀さえ欠乏するほどであった。

 道真は、2年にわたる筑紫の生活での栄養不良に加えて、脚気と皮膚病に悩まされ、延喜3年(903)正月から次第に衰弱し、最後の詩文集である「菅家後草」を紀長谷雄に送り、延喜3年2月25日に亡くなった。最後の詠は次のものである。

      城に満ち、郭に溢れる幾梅花
      猶、是の風光は、歳華を早くす
      雁の足にも、将に帛を繋ぐかと疑い
      烏頭の點着にも、家に帰るを憶う

 異郷の地に一人の幼女を残し、遠く家郷の天を望んで薨じた菅公の気持ちが伝わる。
 「北野縁起」には、筑前国・四堂のほとりに御墓所をつくり、遺体を納めようとしたが、お車が途中で止まって動かなくなってしまった。やむなくそこを墓所とし、それが今の安楽寺であると記されている。

◆雷神となった菅丞相

 道真公の怨念は、死後、天変・災異となって現れ始めた。道真公の亡くなった延喜3年の夏と翌年の夏には、引き続き大雷雨があり、4年の4月7日には、紫宸殿を始めとする所々に落雷した。7月、8月はほとんど毎日のように雷雨があった。この頃から、雷雨は道真の祟りといわれ始めたようである。「大鏡」には、道真が雷となって清涼殿に落ちかかったため、時平が太刀を抜いて天をにらんだ、と書いている。

 6年4月にも雷雨、暴風が数日続き、大きな梅実のような雹が降って人畜に死傷がでた。8年10月7日にも雷雨があり、参議の藤原菅根が死んだ。世人は道真に蹴殺されたといった。翌9年4月には時平が39才で死去し、13年3月には右大臣源光が狩猟にでて死去。延長元年3月には皇太子保明親王が、21才で死去した。
 世人は、これらの災害は菅公の祟りであるとし、妖怪が現れるという流言も乱れ飛んでいた。これらのことから延長元年4月20日には、道真の本官右大臣を復し、正二位を贈り、昌泰左遷の詔書が焼却された。
 しかし菅公の祟りは、さらに続いた。4月に立てた皇太子慶頼王が、6月に死去。つづいて時平の娘褒子が死去。その弟の中納言も死去した。

 朝廷では、時平の弟忠平が左大臣になり、祟りの恐怖と悔悟により、道真の子息をことごとく赦免し、本位本官に復して、ひたすら祟りを鎮めようとした。
 ところが延長8年(930)6月には大地震が発生、26日には、公卿達が殿中で雨乞いの事を議しているところへ落雷して、清涼殿の柱を焼き、道長謀反を報告した藤原清貫は衣焼け胸裂けて即死したほか、多くの死傷者が出た。この頃から、醍醐天皇も病気になり、9月に崩御された。

 天慶3年(940)7月、右京七条の文子というものが、菅公神の託宣を受けたとして朝日寺の僧最珍とはかり、北野に祠をたてて祀ったところ、一夜で千本の松が生えたとする奇瑞が現れた。このことから朝廷から、正暦4年5月に道真公に正一位左大臣、十月に太政大臣がおくられ、天満天神の宮号を許された。(「国史大観」第2巻)

◆天神信仰

 「北野縁起」によると、菅丞相(=菅原道真)は死後、兜率天にのぼり、天満大自在天神になったといわれる。
 同縁起によると、金峰山の日蔵上人は、金剛蔵王の行導により三界六道をすべて見てまわったといわれる人であるが、承平3年(933)8月に一度死んで蘇った。その死んでいる間に、冥界で天満大自在天神に会った。そこでは天満天神は太政威徳天とよばれていた。天神のよそほひは、国王にも勝るもので、無数の侍従・眷属・異類・異形のものが付き従っていた。それらは雷神、鬼王、羅刹のようであった。住所は極楽国土のように荘厳であった。
 そこで天神は、16万8千の眷属悪神を率いてこの国に祟る理由を述べる。しかし逆に天神の名号を唱えて信心すれば、人々を加護すると語る。さらに、日蔵が地獄へ行くと、延喜の帝と三人の臣下がいて、苦しんでいたと語った。延喜の帝とは醍醐天皇、臣下とは時平達のことである。
 つまり菅原道真の霊魂は、死後に天上に昇り、天神となった。彼をおとしいれたものへの怨念は雷神となって祟り、彼等の多くが死んだわけである。

 そこで道真の死後39年の天慶5年(942)と天暦9年(955)に神託があり、神殿を建立して道真を祭った。そのことにより、以来、祟りは鎮まった。

 天神社は、京都北野と九州太宰府の天満宮から始まり、全国へ広まっていった。
 主なものをあげると、京都-五條天神、長岡天満宮、河内-道明寺天神、大阪-天満宮、周防-松崎天神、鎌倉-荏柄天神、東京-湯島天神、亀戸天神があり、全国に五千余の分祀が行われた。
 信仰の対象としての天満天神は、鎌倉期には正直者を守り邪悪をこらす神であったが、室町期には文学・諸芸の守護神となり、江戸時代には学問・書道の神になった。

 北野とは、平安京大内裏の北にある野という意味であり、紫野、平野などとならび、京都七野の一つに数えられている。「続日本後記」承和3年(836)2月1日条に、遣唐使の出発に当たり、海路の平安を祈り、天神地祇を北野に祇る、という記事がある。また「西宮記」巻七の裏書には、延喜4年(904)12月19日に、左衛門督を北野に派遣して、雷公を祇らせた記事がある。
 つまり北野は、道真を祭る以前から、天神・雷神を祇る神聖な祭場であったようである。「菅家御伝記」に引用されている「外記日記」永延元年(987)8月5日条には、朝廷の手ではじめて北野聖廟を祇る、とある。また、北野天満宮の創始者の一人である僧景鎮(珍)の「景鎮記文」には、北野寺(貞元2年/977)という記述があり、北野の社は、聖廟とか寺と呼ばれていたといわれる。

 道真公の怨念は、「御霊」のレベルを越えて「天神・雷神」のレベルに達したわけで、この御霊に対する天皇家と藤原氏の恐怖が、雷神・天神を祇る北野の地に、北野天満宮を建立させることになった。そこで「本朝世紀」長保元年(999)6月14日条には、「祇園御霊会」とは書かないで、「祇園天神会」という言葉で書かれている。




 
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