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日本人と死後世界
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  (5)もう一つの仏浄土 -弥勒の浄土

◆弥勒菩薩の天上の浄土 -兜率天

 日本では、阿弥陀信仰による極楽浄土よりも古くから信仰された浄土が、弥勒菩薩の弥勒浄土=兜率天(とそつてん)である。弥勒菩薩は、天上と地上に2つの浄土をもつ仏である。その天上の浄土が「兜率天」である。この浄土は、「仏説観弥勒菩薩上生兜率天経」(略して上生経)に示されている。
 そこには五百万億の天人がいて、補処の弥勒菩薩を供養するために、五百億の宝宮がある。それぞれの宝宮には、七重の垣があり、その垣は七宝でできている。その宝は光明を、光明は蓮花を、蓮花は七宝の樹を出し、五百億の天女は、樹下に立って妙なる音楽を奏でる。五百億の竜王は、垣のまわりをめぐって雨を降らせる。

 ときに、この宮に、牢度抜提という神があって、弥勒菩薩のために善法堂を造ろうと発願すると、額から、自然に五百億の宝珠を出し、摩尼の光は宮中をめぐり、化して四十九重の宝宮となった。九億の天子、五百億の天女が生れ、天楽おのずからなり、天女は歌舞し、その歌を聞くものは、無上の道心を発する。兜率天に往生するものは、みなこの天女にかしずかれる。(速水佑、弥勒信仰 -もう一つの浄土信仰)

 この天上浄土は、阿弥陀仏の極楽浄土に比べると、天上では低いレベルにあるといわれるが、そこに描かれるイメージは、極楽に比べてどのように違うか?といっても、ほとんど分からない。

 説話では、急死した加賀前司藤原兼隆の娘が、のちに蘇生して冥途の有様を人々に語っている。その中で「これは極楽世界か、さもなければ兜率天上か」と思ったという。
 あるいは、一条天皇(980-1011)が、子嶋寺真輿に、「極楽のありさまをみたい」と願ったところ、真輿は、極楽ではなく兜率天の内院を現わしたが、その美しさは筆舌につくしがたく、天皇は真輿の法験に感じたという(「子嶋山観覚寺縁起」)。(速見佑「弥勒信仰」から)

 このように見ると、浄土往生の先として、極楽と兜率天に大きく差をつけていたようには見えない。その差はどこにあるかというと、極楽に往生できれば、魂はそこでの無限の生を保証されるが、兜率天での生は四千歳(その1日は、人間界の400年)である。
 そのため悪心があると、兜率天から地獄へ落ちることもある。(道綽「安楽集」)

◆明恵上人は兜率天への往生を目指した

 明恵上人(1173-1232)は、山城高山寺の開祖であり、華厳宗の中興の祖といわれる。
 上人は、釈迦の思想とその風土にあこがれ、三蔵法師のようにインドまで旅に出ようと考えたほどであった。また修行に夢を取り入れて、その記録である「夢記」を書いたりした。いろいろとエピソードが多い有名な上人であり、それらの話は、徒然草、古今著聞集、謡曲など、いろいろなものに残されている。

 「徒然草」では「栂尾の上人」として登場する。ある日、上人が川で馬を洗う男を見た。この男は、馬に「足、足(あし、あし)」といい、足を引かせながら洗っていた。
 仏教で梵語の「あ」の字は12母音の最初のもので、宇宙一切の本源・種子の意味をもつものである。上人は馬引く男までが、「阿字、阿字」と尊い言葉を唱えながら仕事をするものと、感心する話が出てくる。しかもその馬は、皇居の警備を司る役所のものとわかり、「うれしき結縁をもしつるかな」といって、上人は感涙をぬぐわれた。落語の「豆腐問答」に似た話である。

 また「古今著聞集」では、上人が釈迦の遺跡拝礼のため弟子千人以上をつれて、インドへ渡ろうと考えたが、春日明神の御託宣により中止になる話がある。この話は能の「春日竜神」にもなっている有名なエピソードである。

 春日大社は、藤原氏の祖神・天児屋根命を氏神として祀る神社である。平安末期には、同じ藤原氏の氏寺である興福寺の管理下にある神社であった。摂関貴族が神託を得るために利用されており、僧侶が神社の神託によるのも面白い。

 春日明神のご託宣は、釈迦在世中ならばインドへ渡るのもよいが、春日明神も仏法守護のためにこの国にいるほどであり、上人も国内にいて衆生を済度すべきであるというものであった。春日明神は、このご託宣の正しさを証明するために、いろいろな不思議を見せる。そこで上人も納得し「涕泣随喜して、渡海の事も思い留り給ひけり」と記されている。

 明恵上人の臨終にあたっての儀の沙汰は、弟子により記録された「最後御所労以後事」と、「最後臨終行事事」に詳細に述べられている。その内容は道長の比ではなく、プロフェッショナルの臨終儀式ともいえるものである。ここではその要点のみを記す。

 まず、兜率天を選択する理由は、そこで弥勒書薩の教えを聞くことにある。弥勒は釈迦の弟子として実在したとされる仏であり、釈迦の入滅後に未来仏として、再度この世に下り、竜華菩提樹の下で釈迦の教えを説く。それまでは天上の兜率天において、釈迦の教えを説き続けるといわれる。
 明恵上人は、釈迦の教えを弥勒菩薩から直接聞きたいために、兜率天への往生を選択したといえる。臨終の儀には弥勒仏が安置された。それは弥勒仏を釈迦と同体とし、兜率天への往生を願ってのことであろう。

 寛喜3年(1231)は大飢饉の年で、春から京都の町は餓死者が道にあふれるほどであった。5月には飢餓民の暴動がおこり、7月にはさらに餓死者が増える状態であった。
 この年の秋から上人の病は悪化し、自分が5色の糸になって閻浮台をまわり、人々をみな縫い取る夢とか、虚空を呑んでしまい、すべての衆生草木河海が我が虚空の中にあるといった夢を見る。

 翌寛喜4年(1232)1月19日、上人は亡くなった。既に前年の10月から弥勒仏が安置されて、その前に端座して宝号を唱える臨終の儀が開始された。1月10日から病状が悪化した。
 上人は手を洗い、浄衣を着て袈裟をかけて、結跏趺座して行法座禅に入った。その間、弥勒菩薩のとばりの前の土砂が、紺青色になり、焔を発して部屋中に散った。この行法座禅は、1月の始めから1日に2~3度繰り返していた。

 1月11日には、「置文」つまり「遺言状」を書いた。1月12日から人々を集めて、昼夜不断に文殊の五字真言を唱えさせた。この陀羅尼は、1遍唱えると8万4千の陀羅尼蔵を誦する効果があるといわれる。この間も座禅し法を説いた。この間、何度も呼吸が止まった。弟子たちは、ひたすら宝号を唱え真言を誦した。

 16日の座禅では左脇に不動尊が現れた。この日、弥勒の像を学問所に移し、五聖(毘廬舎、文殊、普賢、観音、弥勒)の曼荼羅を東に掛け、南を枕として右脇臥の儀別にならった18日には、諸衆のダラニをやめ、一人しずかに座禅念誦を行った。

 19日午前7時頃、手を洗い、袈裟を付け、念珠をとり、看病者に寄りかかり安座して、臨終の時であることを告げ、高声で心地観経と華厳経の一節を唱えた。そして人々には、慈救呪、五字真言と宝号を唱えるように頼み、右脇に臥した。
 「南無弥勒菩薩」と数変唱え、目を閉じて、静かになった。最後の言葉は、「我戒ヲ護ル中ヨリ来ル」(弥勒が善財につげた言葉)であった。
 既に、1月の始めから多くの人の夢に明恵上人の往生が現れていたが、19日には、信然阿闍梨の叔母が、西方からたなびく紫雲の中に明恵の立つ夢を見た。

◆弥勒下生 -この世を浄土に!

 仏教では、その思想が釈迦の入滅後、一定期間の間は正法が保たれるが、その後、像法の時代を通して衰退し、最後に末法の時代を迎えるとしている。
 それぞれの年数は教団により異なるが、藤原時代以降は、正法千年、像法千年としており、日本では永保元年(1081)頃から末法の時代に入ったとされている。(「扶桑略記」)

 さて弥勒菩薩は、釈迦の教えが絶える末法の世までは、天上界の兜率天に住み、そこが弥勒浄土である。 しかし末法の世に入り、五十六億七千万年の後に弥勒仏はこの世に下生(げしょう)する。この時、閻浮台は化して金色になり、この世に弥勒の浄土が実現されるとしている。

 一念弥勒を礼拝すると、死後に兜率天に生まれなくても、未来世において、竜華菩提樹の下で、弥勒に値遇することができる。つまり弥勒は地上に下生することにより、地上の閻浮台(=人間世界)は化して金色となり、この地上そのものが仏国土になる。

 このような現世の弥勒浄土の思想により、死後の浄土往生のねがいから、長生きする生き物に姿を変えて、この世で修行しながら弥勒の世を待つとか、輪廻転生を繰り返しながらも、弥勒下生のときにこの世に生まれることを切望するという、多様な修行・生き方の道を開いた。

 道長は、死後に極楽浄土への往生を目指して、涙ぐましい努力をした。毎日十万回を超える念仏を行い、死に際しては阿弥陀如来と五色の糸で手を結び、死んでからも、口が動いて念仏を唱えているようにみえたといわれる。
 これほどにも極楽往生を祈求した道長が、同時に弥勒菩薩の下生の暁には、極楽浄土から再びこの世の弥勒浄土に転生したいと考えていた。

 道長の弥勒信仰は、吉野の金峰山での埋経のかたちをとっている。
 平安の中期以来、吉野の金峰山は、弥勒浄土の地とされていた(道賢「冥途記」)。このことから「金の御嶽は(兜率の)四十九院の地なり」(「梁塵秘抄」二六四)などと歌われていた。
 寛弘4年(1007)8月、道長はこの地を参詣し、法華経や阿弥陀経などに加えて「弥勒上生経」、「弥勒下生経」、「弥勒成仏経」などを金箔の筒に納め、金銅の燈篭を建ててその下に埋めて、「金峰山経典願文」を捧げた。

 その願文によると、「法華経」は釈迦の恩に報い、弥勒に値遇し、金峰山の蔵王権現(本地垂迹説では、その本地は、釈迦=弥勒とされる)に親近するため、また「阿弥陀経」は、臨終のときに心身乱れず極楽世界に往生するためである。
 そして「弥勒経」は弥勒仏が下生してこの世が浄土になったとき、弥勒の法華会を聴聞いて成仏の記をうける際に、この庭に埋めた経典が自然に湧出して、会衆を随喜させるためであった。(「大日本史料」ニノ五)

 このような埋経は、道長の娘である上東門院彰子も、長元4年(1031)に行っており、「私は、のちの世に三界を出てかならず極楽浄土に生れ、菩提の道を修し、・・・弥勒の世にも逢って、この経で人々を済度しよう」と記されている。(「平安遺文目録」五、六八号)
 このような弥勒下生信仰は、貴族社会ではあまり発達しなかったが、院政期に民間で全国的に流行したといわれる。(速水 侑「弥勒信仰 -もう一つの浄土信仰」)

 つまり道長の段階では、阿弥陀と弥勒の浄土はあまり深刻な矛盾は示していない。しかし、浄土を死後に求めるか、生前に求めるかは、実は深刻な問題をはらんでいる。通常、「欣求浄土」と、「厭離壌土」は一対の言葉として結合されているが、必ずしも一対の言葉とはいえないわけである。

 平安末期から鎌倉初期にかけて、浄土教家の中にも極楽・兜率天への往生に絶望した人々の中から、弥勒下生に活路を見つけようとする人々がでてきた。「古事談」には、後三条天皇(1034-1073)の護持僧の勝範は、「極楽・兜率に往生するのぞみはともにとげがたい。そこで私は幼年から「法華経」を読誦し、この善因によって長寿鬼となり、慈尊(弥勒仏)の下生に会いたいと願っている」と語る。
 また覚空という僧も、「十八の年から両界供養の法(密教の修法)を勤め長寿鬼となって、慈尊の下生に会おうと願っている、と語る。

 叡山西塔の性救という僧は、極楽・兜率往生の望みはとげがたいので、死後、天皇の眷属(けんぞく 家来)となれば救われる日は早いかと思う。また、後に法然門下に入る出雲路の上人覚愉は、はじめ、毘沙門の眷属となり、弥勒の出世を待とうといった。

 あげくのはてに、入水・焼身などにより蛇身・長寿鬼になって、弥勒の出世を待とうという行為まで見られるようになった。法然の師であった肥後阿闍梨は、宏才博覧で智恵深遠な僧であったが、おのれの劣機を覚り、浄土往生は難しいと考え、蛇に身を変え長命の果報を得て、弥勒下生に値遇し得道しようとした。
 そこで叡山を去り、遠江国笠原荘の桜他に入水して、大蛇となって弥勒下生を待つことにした、という「桜池伝説」が、法然上人の伝記に残されている。(「源空上人私日記」)

◆便同弥勒 -親鸞聖人の浄土

 親鸞(1173-1262)は、阿弥陀信仰において死後に極楽往生を求める思想と、弥勒の世の実現を通して現世に回帰する思想の、矛盾した2つの道を統一的に把握するという、困難な仕事を行った。
 親鸞が清廉した鎌倉期には、日蓮(1222-1282)による日蓮宗、栄西(1141-1215),道元(1200-1253)による曹洞宗などが登場し、貴族を中心にした宗教から、武士や民衆までが参加する新しい宗教に変わりつつあった。

 この中で、親鸞は南宋の王日休の『竜舒浄土文』のなかの、「一念往生・便同弥勒」という言葉を重視した。
 この意味は、晩年の「御消息集」の中で、「まことの信心あるひとは、等正覚の弥勒と、ひとしければ、如来とひとしとも、諸仏のほめさせたまひたりとこそきこえてさふらえ」と記されており、臨終を待たずとも、阿弥陀の本願を信じたときには、往生が決定するという意味である。このことにより、死後の極楽往生とこの世における弥勒浄土の実現は、統一的に理解されることになった。

 この意味は、「正像末和讃」の中で、やさしく解説されている。

(原 文) 
五十六億七千万
弥勒菩薩はとしをへむ
まことの信心うるひとは
このたびさとりをひらくべし

念仏往生の願により
等正覚にいたるひと
すなはち弥勒に同じくて
大般涅槃をさとるべし

真実信心うるゆえに
すなはち定聚にいりぬれば
捕處の弥勒におなじくて
無上覚をさとるなり
(意 訳)
ミロク菩薩は、56億7千万年という
長い先に人間界へ如来として降臨されるが、
まことの信心をうる人は、
このたびさとりを開くことができるであろう

念仏往生を願って
等正覚のくらいに達した人は
そのくらいは弥勒と同じであり
臨終の夕には仏果にいたるであろう

真実、信心がえられるために
正定聚の位に入ることができるので
捕處の弥勒大士とおなじく
無上覚を悟り仏になることができるであろう






 
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