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(3)日本の原発事故

●日本の原発事故
 原子力エネルギーが他のエネルギーと大きく異なる点は、一見、些細な事故がやがて制御できない大事故に拡大し、しかも災害の範囲は国内にとどまらず、地球規模の災害に発展する危険性があることである。
 ソ連のチェルノブイリ原発事故が起こったとき、日本の原子力の専門家はこのような事故は日本では絶対に起こりえないといった。しかし後述するように、その後、日本においても信じられない杜撰な事故が多数発生している。

 つまり原子力事故は、絶対に起こしてはいけないものの、どうしても発生の可能性がある。それが原子力エネルギーの宿命的な矛盾であり、全世界的にひろがる反原発の原因もそこにある。それにも拘らず、20世紀以降の地球の爆発的人口増加とエネルギー需要の増加は、どうしても原子力に頼らざるを得ないことが人類の原罪的な宿命ともいえる。

 そこでここではまず、過去に日本で発生した原爆事故のうち、INESレベル2以上のものを図表-2にあげてみる。

図表-2 日本の原発事故(INESレベル2以上のもの)
西暦 月日 企業 事故場所 事故内容
1978 11月2日 東京電力 福島第一原発3号機 日本初の臨界事故とされる。戻り弁の操作ミスで制御棒5本が抜け、7時間半臨界が続いたとされる。騰水型の原子炉で、弁操作の誤りで炉内圧力が高まり、制御棒が抜けるという本質的な弱点の事故。
1989 1月1日 東京電力 福島第二原発3号機 原子炉再循環ポンプ内部が壊れ、炉心に多量の金属粉が流出した事故。レベル2。
1990 9月9日 東京電力 福島第一原発3号機 主蒸気隔離弁を止めるピンが壊れた結果、原子炉圧力が上昇して「中性子束高」の信号により自動停止した。レベル2。
1991 2月9日 関西電力 美浜原発2号機 蒸気発生器の伝熱管の1本が破断し、非常用炉心冷却装置(ECCS)が作動した。レベル2。
1991 4月4日 中部電力 浜岡原発3号機 誤信号により原子炉給水量が減少し、原子炉が自動停止した。レベル2。
1997 3月11日 動力炉核燃料開発事業団 東海再処理施設 アスファルト固化施設火災爆発事故:低レベル放射性物質をアスファルト固化する施設で火災発生、爆発。レベル3。
1999 6月18日 北陸電力 滋賀原発1号機

日本2番目の臨界事故とされる。日本原子力技術協会が、最悪の事態を想定して欠落データを補完した研究によると、定格出力の15%まで出力が瞬間的に急上昇した即発臨界であった可能性がある。ただし、燃料中のウラン238が中性子を吸収し、それ以上の事態になる可能性はなかったという。2007年3月公表、レベル2。

1999 9月30日 ICO 東海村核燃料加工施設 日本で3番目の臨界事故、作業員2名が死亡。レベル4。
2007 7月16日 東京電力 柏崎刈羽原発 レベルについては、1週間を過ぎるが、正確な調査がいまだ滞っている。震災時、火災が発生。また、深層防護の喪失が判明すれば、レベル3以上であることが予想される。2007年8月現在、2000件の事故報告がなされている。
 (出典)フリー百科事典「ウイキペデイア(Wikipedia)」「原子力事故」から作表

 上掲の図表-2からも明らかなように、日本もすでに多数の原発事故を経験してきている。そして90年代にはレベル3,4といった重大事故も経験するようになった。統計的には、小事故が多数重なると大事故が発生するという「ハインリッヒの法則」にわが国も見事に従っている。

 そのような状況の中、2007年7月の新潟県中越沖地震で、東京電力柏崎刈羽原発は設計時に想定した地震強度を遥かに超える大震災を経験した。そして2007年8月現在において、約2000件にのぼる多数の被害が同原発で報告されている。今の段階では、まだ原発の炉心部における被害程度の詳細が明らかではない。今後、その詳細報告が待たれる。

●日本の最悪の原発事故 ―東海村JCOの「臨界」被爆を考える
 チェルノブイリやスリーマイル島の原発事故のとき、日本の原発専門家たちは、このような事故は日本では絶対に起こりえないと豪語していた。しかし1999年9月30日、茨城県東海村のJCO核燃料加工施設内における高速増殖実験炉「常陽」の燃料加工工程で、その信じられない事故が起こった。
 そこではウラン溶液が臨界状態に達して核分裂連鎖反応をおこし、約20時間も核物質の放出が持続するわが国の史上最悪の事故に発展した。
 その事故では、至近距離において致死量の中性子線を浴びた作業員2人が死亡し、事故にかかわった職員や一般市民が多数被爆するという深刻な事態になった。

 茨城県東海村は、1956年に国内で初めての実験用原子炉を作り、翌57年8月にはわが国で最初の原子の火をともした場所である。そしてさらに、1965年11月10日には日本原子力発電所の東海発電所の1号機がはじめて本格的な商業発電炉として営業を始めた、原子力発電所発祥の地でもある。ここで本邦最悪の原子力事故が起こった。
 その顛末から見てみよう。

 ▲東海村の臨界事故の顛末
 1999年9月30日の朝から、東海村にある住友金属鉱山の子会社JCO東海事業所において、高速増殖実験炉「常陽」の燃料となる硝酸ウラン溶液を生産するため、工員の大内久、篠原理人、そして横川豊副長の3人が作業をしていた。

 この日、3人が扱っていたのは、核分裂するウラン235の濃縮度が18.8%という高濃度のウラン溶液の製造であった。これは通常の原発(=軽水炉)で使われる3-5%程度のウラン溶液に比べると、非常に高濃度の核燃料の製造であり、その取り扱いはかなりの危険性があった。

 この危険な核燃料の生産に当たっては、国の管理規定がつくられていたが、実際の作業では作業能率を上げるため、国の正規マニュアルと異なる「裏マニュアル」により運用されていた。さらに事故当日には、「裏マニュアル」からも離れた手順での作業がなされていたことが後で分かった。

 製造工程は、硝酸ウラニル水溶液の均一化であるが、この過程で臨界になることを回避するために、正規のマニュアルでは溶液を「細長い形」の容器に「少ない量」を、専用のチューブで流し込む方法をとることが規定されていた

 ところが注入時間を短縮するために、当日実際に行なわれていた方法は、チューブによる注入ではなくステンレスのバケツによる注入であり、混合する容器も「細長い形」をした「貯槽」ではなく、ずんぐりした大型の「沈澱槽」が使用されていた。作業は5リットルのステンレス製バケツで、沈澱槽の上部から注入する方法で行なわれており、1バッチ(=1回の作業の取り扱い量)を単位として、7バッチ分の均一な溶液を製造することであった。

 作業は4バッチ分(=約9.6キログラムのウラン)を入れたところで時間切れになり、残り3バッチ分の作業は午前中に行うことで休憩に入り、10時10-30分に残りの作業を再開した。そこで2バッチ分の注入は順調に終わり、最後の1バッチの2回目を沈殿槽に注入しているとき、突然、青白い光があたり一面に広がった。そして大内、篠原の2人はその場に昏倒し、10時35分、転換試験塔に臨界事故を知らせる警報が鳴り響いた。

 沈殿槽の中で臨界状態が起こる事は想定していなかったので、3人は放射線を計測するフィルムバッジ(累積線量計)もつけていなかった。突然の事故発生でICOの社員たちは10時40分にグランドに避難し、10時45分にICOの対策本部が設置された。そして被災した3人は、12時7分に水戸病院へ搬送された。

 12時15分には、東海村の災害対策本部が設置された。そして12時30分には村が防災無線で住民に事故の発生を知らせ、住民は外出しないよう呼びかけた。その後も沈殿槽からの放射線の放出は依然として続いているため、15時00分には東海村長は350メートル以内の住民161人の避難を要請し、15時30分から避難が始まった。そしてこの頃、政府は、有馬科学技術庁長官を本部長とする事故対策本部を設置した。

 午後7時9分から22分に、JCO東海事業所の敷地境界の放射線量率、ガンマ線に中性子線が観測されたことから、臨界が継続している事が分かった。午後9時半頃、NHKは「茨城県が10キロ圏内の屋内退避を要請へ」というテロップを流した。小渕内閣の総理官邸では、10月1日に予定されていた内閣改造を延期して、30日午後9時から政府対策会議を開き、午後11時10分に安藤忠夫・内閣危機管理監が現地に派遣された。

 安藤管理監が、10月1日午前1時半に現地につき、ただちに現地対策本部が政府の対策本部に格上げされ、原子力防災法で定められた「緊急事態応急対策拠点施設」の役割を担うことになった。これより少し前の午後10時30分、茨城県の橋本知事は、わが国ではじめてICO施設から半径10キロ以内の住民に屋内避難を要請し、テレビやラジオがいっせいにこれを報道して、県民31万人の屋内避難に踏み切った。

 現地対策本部は、まず沈殿槽の周囲の冷却水を水ぬきして臨界をとめる方法を考えた。それにより臨界がとまる保証はなかったが、その水抜き作業にICOの決死隊が組織された。転換試験棟の周辺では中性子線やガンマー線などの放射線により、計量器の針が振り切れる状態であった。

 そこで国際放射線防護委員会(ICRP)が人命救助の場合の例外的に決めている被爆の許容値の100ミリシーベルトを制限値として、決死隊による冷却水の水抜き計画がたてられた。(読売新聞編集局「青い閃光―ドキュメント東海臨界事故」、中央公論社、107-118頁)

 午前2時35分、ICOの決死隊の第1陣2名が、車で転換試験棟に入った。何もしないうちに線量計のアラームが鳴り、インスタント・カメラのシャッターを3回きるわずか3分の作業で、被爆線量は111.92と91.2ミリシーベルトを記録した。

 第2陣は午前3時1分出発、冷却水ポンプの運転を確認、所要時間2分、中性子被爆線量36.2、28.36ミリシーベルト。

 第3陣は午前3時22分から3分間の作業で給水バルブを閉め、排水用バルブを開けた。排出できた冷却水は僅かで効果が少なかったので、配管の一部をハンマーで破壊する事に決定した。被爆線量は、19.49、28.42ミリシーベルト。

 第4陣は3時48分から10分間で被爆線量は、0.04,0.05ミリシーベルト。以下、第10陣まで30人の決死隊が現場に接近した。しかしバルブをあけたが、冷却塔が外にありゴミが詰まっているため、こわしても水が抜けない。そこで第6陣から、管内から冷却水を完全に追い出すために、アルゴン・ガスを吹き込む作業に入った。第10陣が6時4分にアルゴン・ガスを入れ終わり、3時間半にわたる水抜き作業が終了し、ガンマー線が消えた。その後にホウ酸水を注入し、ようやく臨界を封じ込めることに成功した。

●放射線被害
 原発事故は放射線が外部に漏れた場合、広い範囲の住民に放射線被害を齎すことになる。外部に漏れた放射線の単位としては、通常、「グレイ」と「シーベルト」が使われる。

 「グレイ」とは、放射線がある物体にあたった時、その物体が1kgあたり、どれだけのエネルギーを吸収するかを表す単位として用いられる。また「シーベルト」は、その物体が人体にどれだけ影響を与えるかを考慮して補正した値の単位である。ここでは前節でシーベルトを使っているので、それについて以下説明する。

 一般人の年間被爆許容量は、在来、1ミリシーベルト(1000分の1シーベルト)といわれてきた。しかし自然の放射線被爆量が2ミリシーベルト以上あることから、最近では年間被爆許容量が2ミリシーベルトに引き上げられた。また放射線業務の従事者は、年間50ミリシーベルトを限度とされている。

 今回の臨界事故で被曝したICOの作業員の被爆線量は、症状から推定して大内氏が16-20シーベルト、篠原氏が6-10シーベルト、隣の部屋にいた横川副長が1-4.5シーベルトと推定されている。致死量は6-8シーベルトといわれており、大内氏は12月21日に急性放射線症により死去、篠原氏は翌年4月27日に死去した。横川副長は死を免れた。

 その他に被爆量が測定できた範囲では、事故当時、敷地内にいたICO社員49人が、0.6-47.4ミリシーベルト、決死隊の24人は0.7-48ミリシーベルト、防災業務にかかわった政府関係機関の57人は0.1-9.3ミリシーベルト、消防署員3人は4.6-9.4ミリシーベルト、JCO敷地の近くの一般住民7人は6.7-16ミリシーベルトの被爆が記録されている。

 また測定はできないが、被爆したと思われる人々は、ICO社員など96人が0.06-16.6ミリシーベルト、一般市民200人が0.01-21ミリシーベルトと非常に広範囲に被爆が及んでいる。放射線被害は急性のものだけでなく、低い放射線量であっても長期的に人体に及ぼす影響があるため、その後、原子力委員会の中に「健康管理検討委員会」が設けられて、現場周辺の住民に対する健康管理の方針を検討することになった。(読売新聞社「前掲書」145頁)

●原子力政策に対する影響
 ICOの臨界事故は、それが高速増殖実験炉「常陽」の燃料となる硝酸ウラン溶液の生産過程で起こったことから、特に電力各社が進めようとしていた「プルサーマル計画」を直撃する事が懸念された。同計画は、普通の原発でウラン・プラトニウム混合酸化物(MOX)を燃料として使おうというものであり、地元の理解と協力がなければ実現できないものであった。

 そのためICOの事故に当たっては、電力各社の対応は迅速であり、中性子を吸収し核分裂を止めるホウ素や放射線の監視、試料分析の機材やスタッフが応援のために現地に送られた。しかしこのような配慮にも関らず、プルサーマル計画や原発の増設計画に、この臨界事故は大きなマイナス効果をもたらした。さらに、それには99年7月の福井県敦賀市における日本原電敦賀原発の冷却水の漏水事故も、大きく影響していた。

 これらの事故の続発により、当時の橋本首相が「動燃の顔も見たくない」というまでになり、同内閣による省庁再編計画において、旧動燃は解体的再編成を迫られて「核燃料サイクル開発機構」となった。そして親組織であった科学技術庁は文部省に併合され、核燃料サイクル施設などの重要施設の規制権限は経済産業省に移管されることになった。(読売新聞社「前掲書」177頁)






 
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