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  (2)日本の地価と政策 ―日本経済は"花見酒"で亡びた!(その2)

▲中曽根内閣による「民活」のバブル景気とその破綻
 1980年代は、日本が21世紀に迎える高齢化社会に対して、制度的な基礎を整備する最後の時期であった。この重要な時期に、日本は、政治、経済の面で決定的な間違った政策を採用し、日本国民のハピー・ライフの夢は完全に破壊された。

 1980年代の前半期に、日本政府の国債残高は急増し100兆円の大台を超えて、国家財政は破綻状態になった。そのため80年代の最初の5年間は、一般会計の歳出予算が一律50兆円に抑えられ、徹底した緊縮財政が組まれた。
 国債残高の100兆円は、国家歳出予算の2年分に相当する巨大な額である。この財政危機を憂慮した大平内閣は、80年度から一般消費税の導入をはかったが失敗した。その心労で急逝した大平首相の後を受けた鈴木内閣は、80年度を「財政再建元年」とし、4年後には赤字国債からの脱却をめざす財政再建の積極政策に着手した。

 つまり80年代前半の5年間は、かなり真剣な財政再建の努力がなされた。しかしこの流れを大きく変えて、国民経済が破綻への道を走り出した発端は1985年の「プラザ合意」である。
 1985年9月22日、ニューヨークのプラザ・ホテルにおいてG5(先進5カ国蔵相・中央銀行総裁会議)が極秘で開催された。80年代初頭のアメリカ経済は、大恐慌以来の最悪といわれる状態にあり、そのなかでレーガン政権は税率の引き下げを行ない、消費を拡大して景気の回復を目指したが、そのことにより更に税収は落ち込み、アメリカの財政危機は深刻化していった。
 レーガン大統領は「強いドル」を標榜していたが、財政、貿易、経常赤字が深刻化したため、各国が「ドル高」是正のために、為替市場に協調介入する合意が行なわれた。これが「プラザ合意」である。

 1985年に、第2次大戦後は世界一の債権国であったアメリカが世界一の債務国に転落し、日本がアメリカに代わる世界一の債権国になるという驚くべき事態が起こっていた。 この状況を追認したプラザ合意を受けて、猛烈な「円高」が進み始めた。
 当初、政府は1ドル=200円程度を想定していたが、現実はその予想を遥かに超え、1986年7-8月には戦後の最高値である1ドル=150円まで円が高騰した。
 この円高水準は、日本の輸出に致命的打撃を与えると予想され,関係者は恐怖におち入った。    
 
 このことにより予想される「円高不況」に対処して、1987年5月,中曽根内閣は、6兆円の大型景気対策を発表した。ところがその頃から、予想しなかった事態が展開し始めた。
 列島改造ブームの頃と異なり、国際金融の規制がかなり自由化されていたため、ドル安、円高の進行とともに、日本の金融市場は一挙に世界一の規模に拡大し、日本の株価は暴騰を始めたのである。

★株価の暴騰と金融市場の拡大
 まず80年代後半の株価の暴騰と証券市場拡大の状況を、図表-9,10に示す。

図表-9 東証株価指数の上昇



図表-10 株式市場の拡大

 図表-9を見ると、80年代の前半期に東証株価指数は5年かけて2倍になったのが、1985-87年のわずか2年で株価指数は2倍になった。この株価の暴騰により、日本の企業の資金繰りは一挙に好転し、この証券市場の活性化を受けて、多くの企業は資金調達の重点を従来の銀行借入から増資やワラント債などによる直接金融に資金調達の重点を移し始めた。

 また図表-10を見ると、80年に東証株価の時価総額は73兆円であったのが、85年に183兆円、90年に365兆円となり、10年間に300兆円もの市場拡大が進行した。
 ちなみに1990-2000年の10年間、市場規模は350兆円で横ばいしている。
 この証券市場の規模の拡大を受けて、89年末における日本の証券市場の時価総額は、ドルで4兆1千億ドルを超え、アメリカの3兆2千億ドル、イギリスの8千2百億ドルを遥かに越える世界一の規模の市場となった。

 円レートと株価の急激な上昇により、日本の銀行、保険、証券会社は、軒並みに世界のトップ企業に位置づけられることになった。ところが日本の金融産業は、大蔵省による厳重な統制と保護の下にあり、製造業の世界的進出のおかげで急に規模が膨張したに過ぎなかった。そのため急に世界のトップ企業になっても経営面において欧米の金融産業に太刀打ちできるわけはなかった。

 その結果、円高,株高と景気対策により金融機関にあふれた資金は、日本では最も安全な投資対象と思われる不動産投資に向かったわけである。しかし、それ以外にも、若干の根拠があった。1980年代、日本経済における円高と国際化を受けて、東京は国際金融や情報産業などのアジアにおけるビジネス・センターになると思われ始めており、そのためには国際企業の事務所を受け入れるオフィス面積が大幅に不足していた。

 国土庁は、1985年に首都改造計画の中で東京23区の西暦2000年までのオフィス床需要を5,140ヘクタール(5,140万平米)と予測(85.5)した。
 この国土庁の不足面積の予想は、日本長期信用銀行が予測した1,787ヘクタール(86.7)、関係省庁連絡会議が予測した1,600-1,900ヘクタール(87.11)を大幅に超えていたが、この強気の官庁予測が不動産投資の有力な根拠を作り出した。

 日本最初の超高層ビルである霞ヶ関ビルの床面積は、161,892平米である。これから計算してみると、国土庁のオフィス不足面積は、なんと霞ヶ関ビルの317棟分、日本長期信用銀行が110棟、連絡会議が99-117棟に相当する。世界一の金融・資本市場となった東京は、これから新しい超高層ビルが更に100-200棟も建設されて、ニューヨークを上回る大都会になることが予想されたわけである。

 そのため東京圏の地価は、87-88年には年率50-60%という驚異的な上昇率となり、東京の中心部では猛烈な地上げが行なわれた。企業が直接金融を進め始めて心配していた銀行は、急騰する地価とバラ色の将来に安心して、不動産を担保にすればどんどん資金を提供してくれた。資金的裏づけのない不動産会社は、大手の建設業者が連帯保証人となって銀行から融資を受けて土地を購入した。
 この東京の地価暴騰は、1-2年遅れで大阪、名古屋に波及し、全国的に都市の商業地の地価が高騰した。

★中曽根「民活」の暴走
 都市の地価暴騰には更に強力な援軍が加わった。既に、国家、地方の危機的財政を受けて、80年代初頭から行財政政改革が進められていた。83年に「第二臨調」の最終答申は、行政の基本的方向として「官から民へ、国から地方へ」を提言し、「国民の活力と創意を基礎にした効率的行政(=「民活」)のありかたを提言していた。

 1982年11月に発足した中曽根内閣は、翌年1月、折から低迷を続けていた景気浮揚の最重点施策として民間活力導入によるアーバン・ルネッサンス政策を打ち出した
 この政官財による民間活力利用の動向は85年頃から大きな流れに乗った。86年には有名な「前川レポート」が出て、内需拡大への第一歩を踏み出し、5月には「民活法」が制定され、87年にはNTT株の売却による資金が民活プロジェクトに投入されることになった。

 この「民活」の路線にのって、民活の事業主体としての「第三セクター」が全国的に組織され、内需拡大の巨大プロジェクトが全国的に着手された。
 84年末における内需拡大のための事業規模1兆円をこえる大民活事業はつぎのようなものであった。
  (1)東京臨海副都心
  (2)東京湾横断道路
  (3)みなとみらい21
  (4)関西国際空港
  (5)本四・明石海峡大橋
 
 この「民活」の組織や事業は、それに関わる政官財のすべての関係者にとって極めて魅力的なものであった。政官にとっては、既に破綻状態にある国や地方の財政状態に関わりない民間の資金を利用した事業になる。その意味で政治権力は通常の公共事業より自由でかつ十分に行使できて、しかも在来の責任から大幅に開放されるわけである。
  
 一方の民間側からみると、事業計画が政官の権力側の承認が得られた上で事業が推進できるため、政官を相手にした面倒な許可申請や陳情、説明などの面倒な業務から開放される。しかも、銀行からの資金融資をうける仕事まで公共事業に準じるため簡単になる。

 また融資を担当する銀行側からすれば、第三セクターは形式的には株式会社の形をとっていても、その実態は公共事業と同じ安全性が確保されているため、担保がなくても文句なしに無制限融資が可能になる。
 第三セクターが取り組んだ事業対象は、商業、住宅ではなく、リゾートが中心になったことも中曽根民活の特徴であり、それがバブル崩壊後の被害を深刻化させた。
 87年6月に成立した「第4次全国総合開発計画」(4全総)は、新たな国土開発の戦略プログラムとして大規模リゾート地域の整備を含んでいた。これを受けてリゾート法が制定され、全国的に大規模なリゾート開発が行なわれた。そしてそれらのプロジェクトは今、全国に無残な残骸を晒している。

 要するに、無責任な日本的"花見酒"事業の典型ともいえるものが、「民活」の名のもとに80年代に国家により形成され、バブルを引き起こし、そして崩壊した。

★バブルの崩壊と平成不況
 80年代末から90年代初期にかけてバブルは崩壊した。その発生期における幾多の失政を見てきたが、その崩壊期にも政治家、官僚、財界人たちによる隠蔽、先送り、市場の軽視などにより、平成不況は必要以上に深刻化していった。

 89年12月、日銀は公定歩合を3.75%から4.25%に上げ、更に翌年3月、5.25%に引き上げた。その結果、東証株価のみか債券、円まで、「トリプル安」の様相を呈した。これに追い討ちをかけるように、90年3月、大蔵省は土地関連融資の総量規制と3業種規制の通達を出した。この頃から、地価は低落傾向に変わりはじめた。
 この地価の低落が明らかになり始めたところに地価税、特別土地保有税、遊休土地保有税などといった懲罰的重税が課せられるようになった。

 これらの金融・税制などの経済政策がとられ始めたときは、既に地価の下落が始まっていたのである。それ以来、16年にわたり地価は下がり続けており、しかもその下げ幅が大きくなってきている。土地に対する政策がないために地価が暴騰したが、90年代以降は逆に土地政策がないために、地価は低落を続けている
  
 日本では、企業は銀行から土地を担保にして融資を受けているケースが多い。そのため地価の上昇期には、担保物件の価値が上がるため、含み資産が上昇するメリットがあった。しかし現在では、逆に地価の下落のため、不良債権を処理しても、処理しても増え続ける状態になっている。
 そこで不良債務を減らすために不動産を売却すると、更に地価が下落し、そのためにまた不良債権が増えるという地獄の悪循環に突入している。

 90年代に入ってからの地価下落の状況を図表-11にあげる。
  

図表-11 全国市街地価格指数


図表-12 土地等総資産


 上掲の図表は共に1980年から95年までは5年ごとで、95年以降は各年の推移を示している。これから全国市街地価格指数の全用途平均は、2003年の時点で1980年ころの地価水準まで下落していることが分かる。また土地等の総資産価値も80年代初期の水準まで下落している。
 
 85年の段階で日本の「土地等の総資産」は約千兆円と評価されていた。それが90年には2千5百兆円まで拡大した。日本の領土が拡大したわけでもないのに、地価の上昇により日本の「土地等の総資産」の額は、一挙に1千5百兆円も上がったことが分かる。

 このバブル崩壊による不良債権の総額は、90年代を通じて殆ど正確に把握する努力すらなされず放置された。橋本内閣で金融恐慌寸前までいってはじめてその片鱗に気がついた。小渕内閣では形振り構わぬ財政資金の投入が行なわれて、日本の財政は完全に再起不能に陥ってしまった。そして現在でも、残る不良債権の総額は不明である。

 2004年段階において、私が日本国の国民に対して負う債務をざっと積算してみると次のような恐ろしい額になる。

国債残高
600兆円
借入金
100兆円
短期証券
50兆円
地方公債残高
70兆円
特殊法人債務
500兆円
その他
?兆円
合 計
1,400兆円+?

 「日本の行方」の最初の項で、日本の借金の合計が2005年には、1000兆円になる恐れがあると書いた。しかし、実際の債務はもはや、それどころではないことが分かった。
 その額は、日本人の個人金融資産が1400兆円といわれるが、殆どそれに匹敵する。
 2005年は、敗戦から丁度60年で、いわば日本国の還暦の年である。日本人は、その間、一生懸命に働いてきた。そして汗水流して貯金した成果は、すべて政府の借金に変わっていた。これが"花見酒"の終焉である。




 
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