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  (4)アメリカの対日戦略と敗戦 ―日本はなぜ負けたか?
●日本の対米戦略
 昭和59年に「失敗の本質―日本軍の組織論的研究」(ダイヤモンド)という著書が発表されてベスト・セラーになった。その内容はノモンハン事件から太平洋戦争までの日本軍の5つの作戦を分析して、その失敗の原因について個別作戦を通じて明らかにしたものであった。

 同書はこれらの日本軍の個別作戦における失敗を分析した上で、第2,3章において、日本の国家戦略上に共通する失敗の原因についても述べている。
 それらの作戦に共通する日本の戦略上の問題点は次のようなものであった。

 (1)作戦に当たり、常にその目的が曖昧であったこと、
 (2)戦略指向として、常に短期決戦的性格が強かったこと、
 (3)戦略が主観的、帰納的であり、ムードに支配されていること、
 (4)作戦の誤りに気が付いても、その新しい状況に対応できなかったこと、
 (5)戦略のオプションが極めて狭く、進化・発展しないこと、
 (6)戦闘技術体系がアンバランスであること、
 (7)組織構造において人的ネットワークを偏重したこと、
 (8)属人的組織が統合?されていたこと、
 (9)学習を軽視した組織になっていたこと、
 (10)結果よりもプロセス(やる気)を評価したこと、

 驚くべきことに、これらの昭和の戦争における失敗の原因は、日本企業が戦後の経済戦争に敗れた原因と見事に一致している。更には、2004年の春に小泉内閣がイラクにおいて展開しようとしている自衛隊派兵のあいまいな動機や国家戦略とも見事に一致していることに驚かされる。
 もしそうであれば、日本人は、あの悲惨な戦争と敗戦から残念ながら、ほとんど何も学び取らなかったことになる

 これに対してアメリカは、明治36(1903)年に世界戦略の一つとして陸海軍統合会議(Joint Board)による「オレンジ・プラン」という対日戦略を作成していた。
 この名は、アメリカの世界戦略ではアメリカがブルー、日本がオレンジなど、国が色分けされていたことからきている。そのため1939年に作られた東西両半球の多彩の国々が入り乱れる大戦略は「レインボウ・プラン」と呼ばれることになった。

 驚くべきことに、このオレンジ・プランは、実際に行われた太平洋戦争の実施状況に極めて合致しており、アメリカの戦略計画が極めて安定していたことが分かる。
 これに対して、日本の戦略は猫の目のように変わっていった。これだけ見ても、この戦争における勝敗の行方は明白であったといえる。

 日本の対外戦略は、明治40(1907)年に山県有朋が作成した私案をもとに、ロシアとアメリカを仮想敵国とした「帝国国防方針」が作成されて、明治天皇の裁可を得ていた。この帝国国防方針は、第一次世界大戦直後の1918年、ワシントン会議後の1923年、満州事変後の1936年の3回にわたって改定されていた。

 そこでの仮想敵国に対して、1918年に中国、1936年にイギリスが追加され、第2次改定から以降はロシアとアメリカの順序が入れ替わり、陸軍はロシア、海軍はアメリカを仮想敵国として分裂したままで太平洋戦争に突入した。
 太平洋戦争の最中、昭和天皇が陸軍大学へ行幸された際、そこでは、まさに日米戦争の真最中にも拘らずソ連軍との戦争シミュレーションが行われていて、天皇を驚かせた。

 太平洋戦争の開戦直前になっても日本の国家戦略は大きく揺れていた。そのことは開戦の年である昭和16(1941)年の、4回にわたって行われた御前会議を見ると分かる。
 その最初に行われた7月2日の第5回御前会議では「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」が議題となった。そこでは、日本が自立自衛の基礎を確立するための「仏印進駐」による南方への進出、6月22日に始まった独ソ戦が有利に展開した場合の「対ソ武力発動の準備」、日本の南進による「対英米戦」を予想した持久戦略体制の整備が論議されたが、松岡外相による北進論と参謀本部の南進論が分裂していた
 松岡外相は、そこで英米、ソ連の双方を敵にした武力発動の準備を進言して、天皇を驚ろかせた。

 この頃、日本はドイツの軍事力を明らかに過大評価していた「対英米戦」の準備だけでも大変な開戦直前の時期に、独ソ戦を背後から支援するため大本営は満州に70万の兵力を投入して、対ソ戦を想定した「関東軍特別演習(関特演)」を実施した。そのくせソ連が日本に宣戦を布告した4年後の段階では関東軍の兵力はほとんど南方に回されていて、満州は殆ど何の抵抗もなくソ連軍に占領された

 7月に日本軍が南方に進出したことに対するアメリカに反応は極めて早かった。同月、直に在米の日本資産は凍結され、翌月には対日石油の輸出は全て禁止された。
 既に前年には屑鉄の日本への輸出は禁止されており、日本は戦争のための鉄と油の調達が全く出来なくなった。

 「対英米戦」に絞った作戦が御前会議にかけられたのは、なんと開戦3ヶ月前の9月6日の第6回御前会議であった。ここでは「帝国国策遂行要領」が議題となり、(1)対英、米、蘭との戦争に対して、10月下旬を目途に準備すること、(2)戦争準備に併行して外交により、わが国の要求貫徹に努めること、(3)10月上旬までに外交交渉による解決が出来なかった場合には、ただちに開戦の決意すること、が決まった。ここまでが近衛内閣により進められた。

 10月18日に東条英機・陸軍大臣が、現役のまま総理大臣として内閣を組織する「東条内閣」が成立した。しかも東条首相は、陸軍大臣、内務大臣の3役を兼任するという異例の組閣であった。
 11月5日の御前会議では対米交渉の甲・乙案の検討が行われたが、もはやこの時期には誰が見ても日米開戦以外の道がない状態に追い込まれていた。

 この過程をみると、日本が対米戦争に戦略を絞って検討した期間は、驚くべきことに7月から12月までの半年に過ぎないことが分かる
 孫子は、「兵は国の大事にして、死生の地、存亡の道なり」、つまり、戦争は、国が生きるか、死ぬかを決める大変なことだ!と述べているのに、その当たり前なことが、日本では「無敵皇軍」という独善的な信仰に支えられて、成り行きのまま第二次世界大戦という大戦争に突入していった。

 更に驚くべきことには、昭和20年の敗戦の段階になっても、「必勝の信念」は殆ど変わっていなかったので、昭和20(1945)年8月14日の鈴木内閣による「ポツダム宣言受諾」の「御前最高指導会議」による決定がなかったとしたら、確実に「本土決戦」という名の泥沼の大殺戮戦争に突入していったと思われるのである。

●アメリカの対日戦略―オレンジ・プラン
 アメリカのオレンジ・プランの構想は、有力なアメリカ太平洋艦隊主力による渡洋進攻作戦である。それは前進根拠地のフィリピン到達前に迎撃してくる日本艦隊との決戦により一挙に勝敗を決する形で作られていた。
 つまりアメリカの対日戦略は、強力な日本の陸軍と、強力なアメリカの海軍と空軍が戦う形で考えられており、現実にもそのとおりになった

 オレンジ戦略における戦闘は、3つの段階に分けられる。
 第一段階は、日本が守りの手薄なアメリカの前哨基地を攻略して、アジア南部と西部の石油・重工業の原料を確保するが、東太平洋のアメリカの安全は概ね確保される。個別作戦では、この段階では、フィリピンに孤立した米軍がマニラ湾口の要塞で犠牲的な作戦を展開するが、ハワイの太平洋艦隊が日本の攻撃を受けることは考えていなかった。

 第二段階は、開戦から6ヵ月後にアメリカが優秀な海上・航空戦力を先頭にたてて、全力で西進する対日総反撃が行われる。
 米軍は、激しい局地戦を経て、日本支配下の中部太平洋のミクロネシア、マーシャル群島を初めとする島々を攻略し、フィリピン南部、マリアナ諸島をはじめとする島々に海・空の前進基地を建設して補給路を確保する。
 日本は損失を覚悟で部隊を繰り出し米軍に時間の浪費と艦隊の疲弊を余儀なくさせつつ後退する。そして2,3年後にアメリカはフィリピンの基地を奪回し、海上封鎖を強めて日本の海上補給路を遮断する。
 日米の艦隊同士の壮絶な海上決戦が行われて、アメリカが勝利する。
 
 第三段階は、米軍がアジア大陸の海岸線に平行して走る島々を攻略しながら北進し、経済戦争に向けて新基地を建設し、日本の輸送路を完全に遮断する。
 沖縄を占領して、日本を孤立させる。以後、アメリカは空爆により、日本本土の生産施設と都市を破壊し、日本が講和を求めてくるのを待つ。

 上記の作戦遂行のために、アメリカの豊富な物量作戦の計画が、既に1929年に3年間の全面戦争のシナリオとして作成されていた。
 それによると、アメリカは、年間1万8千機という圧倒的な航空機の生産能力を発揮し、開戦1年以内に潜水艦・駆逐艦隊を倍に増やし、1千隻の輸送船が配備可能になるとされており、現実にもほぼこの通りになった。
 3年間の戦争中に、戦艦12隻からなる新艦隊を建造するという予測も正しかったし、大型航空母艦の建造は予想の4倍に達した。
 地上兵力は、戦闘に投入する30万と予備兵力が100万と見積もられたが、現実にはそれ以上の兵力が太平洋戦争に投入された。

 日米開戦の35年も前から、「日本を貧窮と病弊に追い込む」対日戦争の戦略が、アメリカでは作られており、それらが現実に行われた戦争と殆ど一致していることに驚かされる。その詳細な内容は、エドワード・ミラー「オレンジ計画―アメリカの対日侵攻50年戦略」(新潮社)に述べられている。
 更にこの計画にはなかった国際法を無視した破壊的な都市への無差別爆撃や原爆投下などの戦略が第二次世界大戦の過程で追加された。

●無差別爆撃の戦略
 対日戦略の大きな特徴の一つは、一般市民を対象にした「無差別爆撃」の戦略がとられたことにある。それは10万人の市民を殺した1945年3月10日の東京大空襲から始まり、更に広島、長崎では、一瞬にして原爆により10万人以上の一般市民を殺す米空軍による大殺戮戦略にまで発展した。

 私は、B-29による絨毯爆撃の下を逃げまどった少年の頃の経験から、無差別爆撃は、太平洋戦争における米軍による日本空襲から始まったと思っていた。
 しかし前田哲男「戦略爆撃の思想」(朝日新聞社)を読むと、史上最初の無差別爆撃は、昭和12(1937)年4月26日のドイツ空軍のコンドル軍団によるスペイン・バスク地方の聖なる町・ゲルニカへの恐怖爆撃から始まったといわれる。
 このゲルニカの惨劇は、ピカソの名作「ゲルニカ」で世界中に知られるようになった。

 ところが、その翌昭和13(1938)年の5月3、4日には、日本海軍が重慶に対する「戦政略爆撃」と称する本格的な無差別都市爆撃を開始した。以後2年半に渡って重慶に対する連続無差別空襲が行われていたことが前田氏の著書に述べられている。
 最初の重慶に対する空襲は、下半城と呼ばれる重慶の下町地区に対して行われ、2日間の死傷者数は6,278人、家屋損壊4,889棟に上ったといわれる。
 この重慶爆撃が世界戦史上、最初の意図的・組織的・継続的な無差別都市攻撃であり、戦略爆撃の開祖といわれるものである。
 
 この重慶に対する日本海軍の「百一号作戦」と呼ばれる無差別爆撃の戦略は、良識派と思われている当時のシナ方面艦隊参謀長・井上成美・海軍中将が、日露戦争における日本海海戦に匹敵すると称して立案し、その下で大西滝治郎・海軍少将が航空隊の指揮を執り、九六式陸攻を使って発進基地・武漢から行われた。

 「日本海海戦」は、日露両国の艦隊による正規の戦争であるが、重慶爆撃は非戦闘員を含む市民に対する無差別攻撃であり、明らかに国際法を犯す新しい戦略である。これを国際法の遵守に気を使う「日本海軍」の、しかも「良識派」と思われる将軍により立案されたことは理解に苦しむ。

 なおその下の実行部隊を指揮した大西滝治郎・海軍少将は、その後に「特攻隊生みの親」となった人物である。これを見ると、シナ事変から太平洋戦争にかけて陸軍が暴走し、海軍は良識派であったとする見方もかなり怪しくなってくる。

 日本の無差別爆撃の戦略を更に大規模化し、組織化したのがアメリカの空軍である。そのアメリカにおける戦略爆撃理論の開祖は、陸軍航空隊の中枢で対日戦略爆撃の指揮をとったビリー・ミッチェル准将である。

 第一次世界大戦に飛行士として参加したミッチェルは、その後に陸軍航空隊副司令官に就任して、熱烈な航空絶対論者として知られるようになった。彼は、将来の航空戦の目的は、空中戦だけではなく、「戦争の開始と同時に敵の神経中枢を攻撃し、・・敵の神経を麻痺させることにある」と考えた。そしてこの場合の敵国は、軍隊だけではなく「国民全体が戦闘部隊であるとみなす」という、全く新しい戦争の様相を予言して、航空戦力の独立性を主張したといわれる

 ミッチェルの予言の一つが、「日本に対するいかなる攻撃も、わが空軍の援護の下に行われなければならない」という対日戦を予告したものである。太平洋戦争の総司令官・マッカーサーは、「ミッチェルの翼」に乗って東京への道を進んだ、といわれている。マッカーサーの空軍指揮官の一人が、日本の都市に対する絨毯爆撃を指揮したカーチス・ルメーである。ルメーは、1944年に日本軍の空爆下の重慶のアメリカ空軍司令部に現れて、そこからB29長距離爆撃機による初期の対日爆撃に参加した。

 今一人、ミッチェル将軍の門下生で、ルメーの上司であったのがヘンリー・アーノルド大将(のち初めての空軍元帥)である。彼は第二次世界大戦全期間を通じて、全戦闘領域で陸軍航空の指揮をとった人物であるが、その配下の第305爆撃航空群指令に任命されたのが、カーチス・ルメー大佐(のち大将)である。
 
 ルメーは、密集編隊の維持こそが優れた防御力と爆撃集中力を同時に実現できることを実戦経験から発見して、「コンバット・ボックス」という編隊戦闘隊形を編み出した。
 この方法は、戦闘機の護衛なしに敵の上空に侵入することを原則としたアメリカの戦略爆撃計画に大きな影響を与え、長距離を飛ぶ日本本土空襲は全面的に彼の爆撃計画が採用された。

 ちなみに太平洋戦争下にB29による爆撃を経験した日本人にとって、カーチス・ルメーの名を知らない人はいないと思われるほど有名な人物である。彼の指揮の下で行われた無差別爆撃で殺された日本人の数は数十万人を下ることはない。
 この人物に日本政府は、戦争の終了後、日本国の勲章を授与した。この日本政府の無神経さは、我々の正常な理解をはるかに超えたものである。

●原爆投下計画
 航空参謀総長・ヘンリー・アーノルドは、既に1944年の春に原爆の開発に関する「マンハッタン計画」の軍側の最高責任者であるレスリー・グローブス陸軍少将から原爆に関する詳細な説明を受けていた。
 そして原子爆弾を運ぶ航空機はB29の改造型とすること、高度な能力を持った独立部隊を編成すること、目標に間違いなく投下できるように訓練を行うこと、などの打ち合わせを既に終わっていた。

 陸軍航空の最後の司令官であり、かつ米軍最初の空軍元帥となる空軍一筋のアーノルドにとって、たった一発の爆弾で大都市を破壊できる原子爆弾は、まさに「夢の新兵器」であった。これによって「アーノルドの空軍」は、マッカーサーの陸軍、ニミッツの海軍と並んで、日本降伏への決定的な条件を作り出すことになった。
 B29十五機を原爆搭載用に改修する命令が出され、将校225名、下士官兵1542名からなる原爆投下部隊は、グアム島のカーチス・ルメー指揮下の第509混成部隊に編成された。

 投下部隊の指揮官には、ヨーロッパ戦域における第97爆撃航空群の作戦参謀を務めたポール・チベッツ大佐が就任した。ちなみに広島に原爆を投下したB29の「エノラ・ゲイ」という名称は、チベッツ大佐の母親の名前である。
 原爆の投下先としては、京都、小倉、新潟などが当初はあげられており、その後に、広島、長崎が追加されて、それらの都市は通常兵器による爆撃の対象からはずされた。京都は原爆の候補地として無差別爆撃の対象からはずされていたのである。

 広島を標的にして、気象偵察機として護衛機もつけず一機だけで攻撃する計画を立ててチベッツを驚かせたのは、カーチス・ルメーであったと言われる。8月6日午前1時37分、ポール・チベッツ自身が機長を勤めるエノラ・ゲイは、テニアン島の北飛行場を離陸した。全員が青酸カリのカプセルを用意して、日本の上空でもしもの時は、全員がこれで服毒自殺をする予定になっていた。
  
 午前7時9分、B29が進入してくるのを発見した広島放送局は「警戒警報」を発令したが、ただ1機の偵察飛行に過ぎないと判断して、7時31分にその警報を解除した。広島市内では、中学生の1年生たちが防火帯を作るために家屋の取り壊し作業にとりかかり、広島城内では兵士たちが朝の体操をしていた。

 8時14分、3機のB29が西条を北進しているのを発見した広島放送局は空襲警報を発令した。その1分17秒後、原爆は広島に投下された。これによって、軍隊同士が戦い合う古い戦争は終わり、敵国の国民は非戦闘員を含め女・子供に到るまで、皆殺しにする新しい戦争の時代が始まった。
 しかもエノラ・ゲイは、一度、広島へ侵入した後に広島から離脱して、人々が安心して壕から出た頃を見計らって、再び広島へ再侵入して原爆を投下している。
 それは意識的に人的被害の最大化を狙った行動といわれても仕方ない不可思議な投下方法である。

 翌朝の日本の新聞は、アメリカの新型爆弾がパラシュートをつけて広島に投下されたことを伝えた。当時、旧制中学の1年生であった私には、それが「原子爆弾」であることがすぐ分かった。その頃、私たちの周りでは、毎日、どこの国が最初に原爆製造に成功するかを話題にしていたからである。
 その最終兵器の成功が、この大戦争の終わりを意味すると我々は考えていた
 
 8月7日、昭和天皇のところには、広島原爆による「死傷13万余」という前例のない被害が報告された。天皇はその翌日、東郷外相に「このような新兵器が使われるようになってはもうこれ以上、戦争を続けることはできない。なるべく速やかに戦争を終結するよう努力せよ」と指示をされた。
 更に9日、その前日にソ連がわが国に宣戦布告したことから、木戸内大臣に対して、「戦局の収拾につき研究、決定の必要」を首相と懇談するよう指示があった。
 更に、8月9日の長崎に原爆の第2号が投下された当日、皇居の防空壕で御前会議が開催され、ポツダム宣言の受諾は決まった。

●本土決戦計画
 昭和20(1945)年5月25日、沖縄戦のさなかにワシントンのアメリカ統合参謀本部は「日本列島所作戦のための戦略計画」の前哨戦ともいうべき「滅亡作戦(ダウン・ホール)」を示達した。この作戦は、「オリンピック作戦」「コロネット作戦」という2つの上陸作戦により日本本土の直接攻略を目的にしたものであった。
 
 当時、日本側も大陸指2438号に基づく「決号作戦準備要綱」と称する本土作戦計画を、4月8日の総軍司令部設置に際して正式に関係総軍司令官と方面軍司令官に示達していた
 この「決号作戦準備要綱」は、作戦、兵力運用、国内抗戦および警備、情報、築城、訓練、交通、通信、兵站の諸計画からなり、更に「本土決戦に関する陸海軍中央協定」も付けられていた。

 作戦の区分は、北海道、樺太及び千島列島方面を「決1号」とし、以下、東北、関東、東海、近畿―中国―四国、九州、朝鮮各方面の「決7号」まで7区分して構成されており、新設された第1,2総軍司令部の管轄下に置かれることになった。

 第一総軍は杉山元元帥を司令官として、その司令部は新設された航空総軍司令部と共に東京の市が谷台に置かれて、東北、関東、東海方面軍を統率して東日本の作戦を担当することになった。
 また第二総軍は、畑俊六元帥を司令官として、その司令部は広島の騎兵隊兵営跡に置かれて、近畿、中国、四国、九州方面軍を統率して、西日本の作戦を担当することが決まった。
 かくて日本中の戦力が動員され、夜に日をついで本土決戦の準備が進められた。

 昭和20(1945)年4月7日、日本軍が挙げて本土決戦の準備を急ぐ中で、海軍大将・鈴木貫太郎を首班として、和平を目指すと思われる新内閣が発足した。その和平派には、外務大臣には駐独・駐ソ大使を務めた東郷茂徳、海軍大臣には3国同盟にも反対した米内光政(留任)が就任し、一方の本土決戦派には、阿南陸相、梅津陸軍参謀総長、豊田海軍軍令部総長が就任した。
 内閣は和平を目指すように見えながらも、最高戦争指導会議は本土決戦の強力な指導機関として依然として機能していた。

 昭和20(1945)年6月8日に開催された御前会議では、梅津参謀総長の代理として河辺参謀次長が本土決戦の決意を表明し、豊田軍令部総長は7,8月頃、米軍が九州、四国上陸・占領と初秋に関東攻撃の見通しを述べた上で、「全軍特攻の精神に徹して皇国を護持する作戦の準備」を行っていることを報告した。
 東郷外相はソ連が対日戦争に入る態勢をとり始めたことを報告したが、会議の最後には、鈴木総理大臣が、6月6日の最高戦争指導会議で決めた「あくまで戦争を完遂する」という方針を確認することにより御前会議を終わった

 7月16日から、トルーマン、チャーチル、スターリンがポツダムで会談し、7月26日夜にトルーマン大統領が、ベルリンから「ポツダム宣言」を発して、日本政府に対する公式の要求を明らかにした。
 これに対して鈴木総理大臣は、7月28日、記者団に対してポツダム宣言を黙殺して、戦争にまい進するという談話を発表した。

 この経過を見ていると、7月末になっても日本政府は裏ではソ連などを通じて和平工作を行いながらも、国家の最高首脳会議は、本土決戦の遂行を前提として事態が進行していたといえる。
 この間にもソ満国境には、ソ連軍兵力150万、戦車、自走砲5,500台、砲2万7千門、航空機5,000機が終結し終わっていた。この段階で、関東軍は既に南方戦線に精鋭部隊を奪われており、居留民を招集して急遽兵力の増員を行ったが、もはや有力なソ連軍を相手に互角で戦える状態ではなくなっていた。

 アメリカの「オリンピック作戦」は、昭和20(1945)年11月1日から九州南部の3箇所、西から串木野正面、南は有明湾、東が宮崎正面に上陸する計画になっていた。
 更に翌昭和21(1946)年3月1日には「コロネット作戦」として、東京を最終目標にした関東への上陸作戦が予定されていた。
 この米軍の日本上陸に対する日本の「決号作戦」は、米軍の計画が漏れていたかと思われるほど情報判断の符号が一致して作られていた。

 しかし、日本軍の連合艦隊をはじめとする戦力は恐ろしく衰退していた。連合艦隊は、いまや駆逐艦19隻、潜水艦38隻が動員できるに過ぎない状態にあった。戦艦は長門が残っているものの、油がなくて動けず、戦艦、空母、巡洋艦を欠いた海軍の反撃戦力は、各種特攻舟艇3,300隻を主体にした特攻攻撃しか残されていなかった
 一方の軍令部が想定したアメリカ艦隊の陣容は、戦艦24、空母100、巡洋艦36、駆逐艦254、に加えて、イギリス太平洋艦隊の戦艦6、空母12を含む圧倒的に多数の艦船が参加する予定になっていた。

 日本軍は本土決戦に投入する航空機の数が10,000機あり、空軍力の数では対抗出来ると考えていた。しかしそれらの内容は、旧式の機種や練習機まで動員したものであり、しかも優秀な搭乗員の殆どは既に戦死していた。更に新しい搭乗員の訓練飛行も油がなく出来ないため、空軍もすべて特攻攻撃が主体になると考えられていた。そのため上記の10,000機という飛行機も、その実体は木製、布張りの張りぼてであり、空を飛ぶこともやっとという模型飛行機のような代物であった。

 これに対して、米軍の航空兵力は、地上機6,000、艦載機2,600、すべて最新鋭機であり、搭乗員も十分に訓練されており、更にこれに英空軍も参加が予定されていた。

 この段階における日本陸軍の地上兵力は600万、そのうちの半数が朝鮮、中国、満州を含む海外にあり本土防衛に当たる兵力240万人、これに加えて2,800万人の国民義勇戦闘隊が存在しており、それらが第一、第二総軍に分けられていた。
 このうち九州防衛に当たる第16方面軍の兵力は、決戦時には海軍、国民義勇戦闘隊を除いても100万人に達することが予定されていた。九州防衛の第16方面軍参謀長は稲田正純中将であり、日本陸軍は南九州上陸を目指す65万の米軍の地上兵力を撃破する自信をもっていた。

 九州の地上戦では、日本軍は100万の正規軍に、数百万の国民義勇戦闘隊の全員が特攻攻撃に参加するわけである。私は当時12歳の旧制中学1年生であったが、私がいた名古屋の学校でも、その頃、フトン爆雷を背負って戦車に突入する「戦車肉攻」と呼ぶ特攻攻撃の練習を毎日繰り返していた。

 8月15日の午前中には学校にある38式歩兵銃を油掃除して本土決戦に使うために名古屋師団司令部に返却に行った。昼には天皇の「玉音放送」があったが、激しい妨害電波と思われるものに遮られて、その内容は殆ど聞き取れなかった。
 整列して全員がこの放送を聴いたが、最近のTV映画の終戦シーンのように、この放送を聞いて戦争が終わったことが分かった者は誰もいなかった。
 そのため放送後に、全員が、これでいよいよ本当に本土決戦に突入するのだ!と思っていた。その証拠に、午前中には本土決戦のために歩兵銃を司令部まで持っていったほとである。

 既に述べたように天皇の前で開かれた6月6日の最高戦争指導会議では、明確に本土決戦の方針を確認していた。7月10日の最高戦争指導会議では、近衛文麿をソ連に終戦仲介のために派遣することを決定し、ソ連に申し入れたが拒否された。
 退路を絶たれた日本は、7月28日に鈴木首相の声明として、ポツダム宣言を黙殺して、戦争にまい進すると発表した。

 そこへ原爆投下(8月6日)、ソ連の対日宣戦布告(8月8日)という衝撃的な事件が日本を襲った。この2つの事件が、日本という国家意思の転換の極度に難しい国家に終戦を決意させたと考えざるをえない。

 この段階で、日本もアメリカも、既に詳細な本土決戦の計画を作成していた。
 この11月1日から始まる南九州上陸に始まる本土決戦の状況が、ウエストハイマー「本土決戦」(ハヤカワ・ノーベルス)に詳細に書かれている。
 原爆が投下されなかったという状況を設定したフィクションであるが、日米双方の現実の作戦計画と当事者たちからの詳細な聞き取りに基づいたものであり、沖縄戦を上回る本土決戦の状況が迫真の筆致でかかれている。
 
 日本の本土決戦は、陸・海・空の全軍を挙げて、すべて特攻攻撃を中心にして行われたと思われる。その結果は、世界戦史に類を見ない悲惨な戦争が展開されたであろう。その戦争は、多分、その後に起こった「朝鮮戦争」、「ベトナム戦争」、そして「中東戦争」の内容まで大きく変貌させるほどの影響を与えたと考えられる。

 つまり日本の本土決戦において、全国民が爆弾を抱えて米軍の航空機、軍艦、戦車に突入するという思想は、現在のイラク戦争やイスラエルの「自爆テロ」を大規模化・組織化することに大きく貢献したと思われるし、一方の米軍の攻撃も一般市民に対する無差別殺戮に発展せざるをえなかったであろう。
 日本の場合には、この本土決戦の悲惨な皆殺し戦争の実例は、殆ど語られないままに残されてきている明治の「戊辰戦争」の中に見ることが出来るように思われる。




 
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