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  (3)昭和金融恐慌による粉飾資本主義の崩壊

 大正15年の年の暮れに大正天皇が崩御され、昭和元(1926)年に改元されたのは12月25日のことであった。そのため昭和の事実上の始まりは、昭和2年からになる。その春の3月14日、帝国議会の予算委員会では、大蔵大臣・片岡直温が関東大震災で振り出された震災手形をめぐり、銀行が保有するその実態を明らかにせよ、と野党から攻め立てられていた。

 それは、丁度、70年後の平成不況の国会において、政府が銀行の不良債権の実態を明らかにせよと野党に迫られている情景に似ていた。それを見ると、日本の政治が、いかに進歩していないかを今更に痛感させられる

 後述するが、当時、震災手形を最も多く抱えている銀行は台湾銀行であった。それを振り出したのは神戸の鈴木商店である。共に関東大震災とは、地理的にほとんど無縁の企業であることが、震災手形の性格を如実に物語っていた。

 つまり震災手形は、第一次大戦の戦後恐慌の不良債務が、形を変えて引き継がれてきたものである。平成国会の不良債権に対する政府答弁と同様に、片岡蔵相は震災手形の保有状況は銀行の信用に関係するとして、その内容を明らかにせず頑として答弁を拒んでいた。

 そのとき田大蔵次官が、渡した紙片を見て、大臣は、突然、「貴方がたがいろいろ言うものだから、東京渡辺銀行が本日正午、支払いを停止しました」といった。 
 渡辺銀行はピンチな状態にはあるものの、この段階では、まだ営業を継続していた。しかしこの蔵相の誤った発言が恐慌の引き金になったことから、「昭和恐慌」は、一名「失言恐慌」といわれるようになったほどの有名な事件である。

 しかし、これは話しとして面白いが、明らかにいいがかりである。昭和大恐慌は、その段階でどのような事をきっかけにしても、十分に起こりうる状態になっていた。
 この渡辺銀行から始まる昭和金融恐慌の第一波の推移を簡単に述べる。

●昭和金融恐慌の第1波(昭和2年3月14日〜3月23日)
 3月14日の片岡蔵相の予算委員会における渡辺銀行の休業発言をきっかけにして、その子会社であるあかぢ貯蓄銀行が取り付けにあって休業した。
 不安にかられた預金者たちは、その他の銀行でも預金を引き出し始めた。
 4日後の3月19日、東京の中井銀行が取り付けにあって休業した。翌20,21日は祭日で銀行は休みになったので、休み明けの3月22日は、二,三流銀行において早朝から預金者の行列ができて取り付けが始まった。

 3月22日には日銀や有力市中銀行の救援はあったものの、この取り付けにより、八十四、中沢、村井(以上、東京)、左右田(横浜)の諸銀行が休業した。二流銀行とはいえ左右田、村井、八十四、中井、渡辺銀行は交換所加盟銀行であり、その休業発表は衝撃であり、更に預金者たちの警戒心を煽る結果となった。

 その結果、東京近県の銀行から関西の銀行まで飛び火して、いくつかの銀行が取り付けにあい休業に追い込まれた。たとえば久喜(埼玉)、山城、桑船(京都)、浅沼(岐阜)銀行などである。

 政府は3月21,22日にやつぎばやの蔵相声明を出して、事態の沈静化に努めた。日銀も緊急貸し出しを行い、その額は3月14日に2.2億円、23日には6.3億円に上り、発券高も急増した。
 
 この第1波の段階では、取り付けにあった銀行も二,三流であり、範囲も局地的であった。更にこの段階では、恐慌が銀行業の範囲にとどまり、産業界一般にまで波及しなかったのも特徴であった。
 しかし4月に入るとより大きい第二波がやってきた
 
 この第二波の金融恐慌を見る前に、これに深く関わる「震災手形」「台湾銀行」そして「鈴木商店」について簡単に解説する。

●震災手形とは何か?
 震災手形とは、本来は関東大震災によって支払いが出来なくなった手形のことである。具体的にいうと、@震災地を支払い地とする手形、A震災地に当時営業所を有したものの振り出した手形、Bまたはこれを支払人とする手形のことである。
 
 これらの手形に対して、震災が発生した大正12年9月1日以前に銀行が割引していた手形を日銀が再割引に応じ、その取立てには2年間の猶予を与えられた。
 更に、日銀の損失に対しては政府が1億円まで保証するという措置が、9月27日公布の「震災手形割引損失補償令」によって取られた。

 この再割引額は、大正13年3月末までに4億3千万円という巨額なものになっていた。この損失補償は、震災手形の救済とはいうものの、実は第一次世界大戦後の恐慌によって銀行が抱え込んでいた不良手形が、一括してその中に組み込まれることを許容していた。
 つまり日銀は、震災手形の適用範囲外の不良手形に対しても救済措置を講じたわけである。その理由は、不良手形の原因はともあれ、そこからの破綻が日本経済全体に及ぶことを恐れていたためである

 このような放漫な経済政策のもと、第一次大戦後の無計画な粉飾的事業拡大は、整理されるどころか、震災復興の需要拡大によって見かけ需要は更に拡大した。
 震災の影響により輸出が大幅に減少する中、輸入は増加して、貿易赤字は大正12年には6.2億円、翌13年7.2億円という空前の数値を記録した。
 これにより大戦中の在外正貨の蓄積はたちまち食い潰され、国内の正貨の現送輸出さえ必要とされるに到った。

 このため円の為替レートは、大正13年末には38ドルまで下落した。この状況の中で、2年たっても震災手形の整理はできず、決済期限は2度にわたって延期されて、昭和2(1927)年9月末がぎりぎりの決済期限となっていた。
 この段階で不良手形は2億680万円が残されていた。そしてこの不良手形を最も多く所有していたのが台湾銀行と鈴木商店であった。
 共に、関東大震災とは地理的に全く関係ない企業であることが、震災手形と昭和恐慌の性格を物語っている。

●鈴木商店と台湾銀行
 鈴木商店は明治10年頃、鈴木岩次郎により砂糖、樟脳などを扱う店として神戸で創業した商社である。明治25年に個人経営から資本金50万円の合名会社になり、明治27年に岩次郎の死去した後、未亡人ヨネと番頭・金子直吉が采配を揮って、台湾から内地、海外に勢力を拡張し、大商社に成長した。
 
 特に第一次世界大戦では、世界的な貿易商社に成長し、その取引額は大正6年には15億円を越えた。番頭・金子直吉の大拡大政策により、昭和初年には鈴木系統の事業は60有余、資本金総額は5億5,6千万円といわれ、三井・三菱を凌ぐ日本一の商社にのし上がっていた。

 鈴木商店は政商的性格が強い企業であり、事業の本拠は台湾にあった。その発端は、台湾の民政長官になった後藤新平が、明治32年に樟脳を台湾総督府の専売事業としようとしたとき、全ての業者が反対したのに、金子直吉1人が賛成し、喜んだ後藤は、官営樟脳の6割5分の販売権を鈴木商店に与えたことから始まったといわれる。

 この後藤の力をえて、鈴木商店は台湾銀行と深いつながりを持つようになった。明治28(1895)年5月、日清戦争で清国から台湾と澎湖島の割譲を受けた日本は、台湾総督として海軍大将・樺山資紀を派遣し、台湾の植民地経営に乗り出した。
 総督は「台湾皇帝」と呼ばれるほどの軍事・警察支配権を持って植民地支配に乗り出した。総督政治の内政として、産業開発、貨幣の統一、社会制度の整備などが進められた。その中で、台湾における幣制の整理、産業資金の供給、中国・南洋貿易に対する金融を目的として、明治32(1899)年に国立の植民地銀行として設立されたのが台湾銀行であり、銀行券発行の特権が付与された

 この台湾銀行の震災手形の未決済額が、大正13年11月から昭和2年11月の段階においてダントツのトップを占めていた。その額は1億円を超えており、主要銀行の未決済額の合計が2億円台であることから、台湾銀行の震災手形の保有量がいかに大きかったかが分かる。しかもその半分以上は鈴木商店のものであった。(高橋亀吉「昭和金融恐慌史」146-147頁)
 このことからも第一次世界大戦後の不良債権問題において、鈴木商店と台湾銀行が大きな位置を占めていたことがわかる。

●第2次金融恐慌(昭和2年3月26日―4月18日)
 台湾銀行と鈴木商店の関係は、大正末期には腐れ縁ともいうべき状態になっており、鈴木の経営の破綻は即、台銀の破綻につながる可能性があった。
 その中で台銀は、大正15(1926)年12月に鈴木に対する特殊金融の打ち切りの決意を表明したが、それは同時に台銀の自殺行為をも意味していた。

 台銀と鈴木を切り離す試みは、昭和2年2月の金融恐慌の中で、台銀、日銀そして政府の側から始まった。鈴木商店は倒れても、台湾銀行は生かそうということである。2月中旬、台湾銀行は鈴木商店に対して今後、無担保融資はしない、当座貸し越しもしない旨を通告し、3月26日には新規貸し出しの停止を通告した。

 そして4月1日にこれらのことが新聞にスッパ抜かれて、台銀の鈴木絶縁が公表されることになった。そのことにより鈴木倒産という事態の重要性から、財界の不安は高まり、鈴木系の手形を多く保有する銀行の信用は急落した。

 台湾銀行に対する疑念も高まり、預金、コールの引き上げが進んだ。このような中で日銀の台銀に対する貸し出しは膨張し、3月12日には1億円強であった融資残は、4月のはじめには3億円弱にまで激増した。この日銀融資は政府の要請により、無担保で実施された。

 こうした中、鈴木の経営する神戸第六十五銀行が取り付けにあい4月8日に休業した。ここから神戸を中心に関西一円の銀行で取り付けが始まり、日銀大阪支店の貸し出しは急増した。4月13日、日銀は台銀に対するこれ以上の融資を拒否するや、不安は頂点に達した。そこで政府は、日銀による救済を緊急勅令により続ける決心をかためた。

 第52議会の貴族院においては、「今後台銀の根本的整理を行い、その基礎を鞏固にすべし」という付帯決議を行なったのに対して、政府は4月5日に台湾銀行調査会官制の勅令を公布した
 この期に及んで、政府は台銀を調査・研究しようというわけである。いつの時代でも、政府の行動の遅さには驚かされる。この調査会が開かれているうちに、台銀の危機はどうしようもない状態になっていった。

 4月14日、政府は2億円を限度として台銀の損失補償のための貸し出しを行う緊急勅令案を作り、枢密院に送ることにした。第52議会において、台銀、鈴木商店について散々論議をしておいて、また新たに2億円の救済資金を出すことについて世論は沸騰した。
 政友会院外団は、この勅令案を「憲法を蹂躙し議会制度を否定する亡国的罪悪」と糾弾した。その結果、枢密院は4月17日に、この政府案を否決した
 
 勅令が否決された17日夜、政府、日銀および市銀の首脳部は善後策を協議した。
 蔵相はこの席で日銀、市銀に対してシンジケートを結成して台銀救済にあたることを要請した。また市銀は日銀に対してコールの引き上げをしばらく見合わせるから、日銀がもう少し資金を台銀に融通することを要請したといわれる。(高橋亀吉「昭和金融恐慌史」講談社学術文庫版、174頁)
 
 それほど台銀の休業がわが国経済へ及ぼす影響は懸念されていた。しかしこれに対して、新規貸し出しを断固として拒否したため、台銀の倒産が確定した。

 同日、関西の大手銀行である近江銀行が休業を発表、翌19日、若槻内閣は倒れ、第3次金融恐慌が始まった。

●第3次金融恐慌(昭和2年4月18日―5月13日)
 台湾銀行は4月18日に期限がくる債務約2千5百万円の資金の調達不能に落ちいって、休業を余儀なくされた。
 同日、関西の大手銀行であった近江銀行が休業を発表した。これも予想されていたことであり、同行は第一次大戦後の放漫経営でしばしば窮地に陥り、日銀の救済融資によりかろうじて営業を続けていたに過ぎなかった。
 日銀からの借入残高は、昭和2年には4千万円となり、休業前には5千3百万円に達していた。日銀はこの銀行に頭取、副頭取を派遣していたが、この時点で新規貸出しの停止に踏み切り、休業を余儀なくされた。

 台湾銀行、近江銀行の休業を契機として全国的な信用恐慌に突入した。この代表的なものが十五銀行の破綻であった。
 十五銀行は、大正3年から宮内省の金庫事務を扱い、当時、三井、三菱などの大銀行に比肩しうる信用絶大な有力銀行であった。しかし初期に頭取をしていた松方巌の機関銀行となり、松方系事業会社の乱脈経営による業績悪化から経営が行き詰まっていた。そのため3月時点では110円前後していた株価が、一挙に10円まで低落していた。

 4月18日の近江銀行の休業は、大阪の商人に大きな衝撃を与えた。綿糸布の取引は休止状態となり、これが機業地の資金繰りを逼迫させた。取り付け騒ぎも京阪神から関西方面で広がりを見せ、4月19日には泉陽(大阪)、蒲生(滋賀)、芦品(広島)、20日には西江原(岡山)、広島産業(広島)、門司(山口)の各銀行が支払い停止を余儀なくされた。京都の三井銀行支店も激しい預金引き出しに当面し、全くの恐慌状態に陥った。

 この間、東京は比較的冷静を保っており、大口の資金は関西に移動した。しかし21日に十五銀行が休業を発表すると、関東の銀行でも取り付けが殺到した。
 更に、それを契機に全国的な取付け騒ぎと金融恐慌に発展した。そして泰昌(東京)、武田割引(東京)、明石商工(兵庫)、鹿児島商業(鹿児島)の各銀行が店を閉じた。ほとんどすべての銀行の店頭には預金者が長蛇の列をつくり、預金を引き出した。21日だけで日銀の貸出額は6億百万円も激増したと言われる。(高橋「昭和金融恐慌史」、180頁)

 この状態で日銀は、もはや物理的に日銀券の需要に応じきれない状況になり、日本の金融制度は、崩壊寸前まできていた。
 裏面が印刷されていない日銀券が発行されたのがこの時のことである。

 銀行は22と23日に一斉休業に入り、政府は4月22日に緊急勅令による「モラトリアム」(支払猶予令;法令で一定期間、債務の返済を停止または延期すること)を実施した。これによって金銭債務の支払いは、1日500円以下の支払いを除き、3週間(5月12日まで)延期することが可能になった。

 このモラトリアムの効果は大きく、銀行の取り付け騒ぎは静まり、若干の銀行が休業したものの、モラトリアムが明けた5月13日からは騒ぎは起こらず、事態は沈静化した。
 このモラトリアムにより銀行の信用危機は回避され、銀行制度の崩壊は免れたが、経済取引が阻害された損失は大きく、片岡直温の推計では、その損失額は20億円を超えた。それは丁度その年の国家予算の総額に等しいほどの大きな損失になった

 このモラトリアムにより財界の危機を救ったのは高橋是清・蔵相であった。全国的に金融動乱が起こった4月21日、首相官邸では午前10時から夜中まで閣議がぶっつづけて行われていた。高橋蔵相は各方面からの情報を集め、考慮した結果、緊急勅令によって21日間の支払い猶予令を全国に布しくこと、同時に臨時国会を召集して、台銀救済及び財界安全の方策を立てること、という結論を得てこれを閣議にはかり決定した。

 更に応急措置として翌日から2日間の銀行の一斉休業を行うことを銀行側に伝えた。高橋蔵相が、夜、床に入ったのは午前2時であったが、翌朝8時には官邸へ出て、病気の田中首相に代わりモラトリアムの勅令案の裁可を戴き、即日実施した。

 更に、高橋蔵相は臨時議会において、日銀による5億円の特別融通及び損失補償法と台銀救済法案を通して金融動乱を鎮めた。高橋蔵相は、金融動乱の沈静化を見届けるや、後任に三土忠造を推して、6月2日に大蔵大臣を辞任した。その在任は、わずか42日であった。
 
●昭和金融恐慌の結末
 昭和2年の金融恐慌の結果、数多くの銀行が破綻した。この年の3月から7月までに休業した銀行の総数は36行、公称資本金の総額は1億6千万円、昭和元年末での預金総額は7億3百万円、預金の口数は百万件を越えていた。
 
 これらの休業銀行の整理を行うために資本金5千万円の昭和銀行が作られた。この銀行は、ただ休業銀行の後始末を行うだけではなく、営業を続けている銀行でも申し込みにより合併し、銀行の合同整理も目的としており、いくつかの銀行が合併された。

 金融恐慌の結果、二,三流銀行の預金が減少する半面で、三菱、三井、住友、第一、安田の5大銀行への預金の集中化が進んだ。これらの銀行の預金残高は2年の間に約5億円が増加し、預金総額の中で50%以上が集中するようになった。
 また銀行の預金は郵便貯金や信託預金へ移行した。

 一流銀行への預金の集中が進んだため、大銀行では資金の運用に困り、百万円以上の通知預金や当座預金には利子をつけない銀行や、遊資の運用に海外市場で外貨邦債を買い入れる銀行も出て、その額は1億円以上の巨額に上ったといわれる。

 またこの恐慌の結果、二,三流銀行に対する日銀の固定貸し出しが増大して、その額は5億円を超えた。これら銀行の月間の出入りはわずかに2,3千万円となり伸縮性が失われた。しかも固定貸出しの内、3億円は台銀、震災手形であった。

 資金の大銀行偏在の傾向をうけて、中小企業の金融難が増加した。また地方小銀行の大銀行への合同により、地方の中小企業から金融の手段を奪い去った。

★明治・大正のカタストロフとしての昭和恐慌
 明治から昭和にいたる歴史を見ると、政界・官僚組織・財界など日本の支配層は総ぐるみで国家の危機的問題を常に先送りしてきたようにみえる。その状況は、平成大不況の中で昭和時代からの不良債権問題を先送りし問題を深刻化させ、更に公的機関の不良債務問題を未だに先送りしている現代の日本に極めて似ている。

 明治末年、日本の財政は国家破産の危機に直面していた。この危機から日本を救ったのは、国を挙げての自助努力ではなく、ヨーロッパで起こった第一次世界大戦であった。戦場がヨーロッパを中心に戦われたため、日本は被害をほとんど受けず利益だけ享受することができた。
 
 その戦争のおかげで常に輸入超過であった日本の国際収支は一挙に改善されて輸出超過になり、膨大な外貨を獲得することができた。しかし、それは輸入超過の原因になっていた経済体質を改善したわけではなく、戦争が終結した途端に深刻な経済危機が日本を襲った

 更にそれに追い討ちをかけた関東大震災により、日本経済は大正末年から昭和初年にかけて、再び国家レベルの深刻な経済危機に直面した。それが昭和恐慌である。
 昭和2年の昭和恐慌は、大蔵大臣・高橋是清のモラトリアムという緊急処置によって一応の終結をしたが、依然として日本経済の虚弱体質は残したままであった。 

 それが「金解禁問題」である。昭和恐慌からの小康を得て、日本経済が金本位制に復帰し、いよいよ世界の経済市場に進出しようとした昭和4(1929)年11月、日本はアメリカに端を発した世界大恐慌の大波に再び飲み込まれることになった。
 この段階で、「明治の日本」が終わり、「昭和の日本」が始まった。

●世界大恐慌から「日本ブロック」の立ち上げが始まった!
 この段階から日本の国家財政は大幅に公債に依存することになり、定常的に戦争を拡大していく時代に入った。昭和6(1931)年9月18日、満州事変開始、昭和12(1937)年7月7日、中日戦争開始、昭和16年12月8日、太平洋戦争開始と戦争は、はてしなく拡大していった。

 そして最終的には連合国を相手にした第二次世界大戦を戦い、日本は敗れた。世界戦争への道をとり始めたその発端は、昭和4年の世界大恐慌にあると私は考えている。その詳細は、次回の「昭和時代のカタストロフ −敗戦」の項で述べる。

 1930年代は、世界史の曲がり角にもなった。その契機になったのが1929年11月にアメリカから始まった「世界大恐慌」である。この経済混乱からの脱出を図るために、世界はいくつかの排他的な経済ブロックに分割されることになった。
 第一次世界大戦ではイギリスと同盟した日本も、第一次大戦により既に大国の仲間入りをしており、いまや日本はアジアで自分を中心とした経済ブロックを立ち上げるしかなかった。そこで台湾、朝鮮に続く日本の経済ブロックとして満州が標的になった。

 昭和6(1931)年9月18日、奉天郊外で南満州鉄道の線路を関東軍が自分で爆破し、それを契機に満州事変に突入し、あっという間に関東軍は全満洲を手中に収め、翌昭和7年3月1日に「満州国」の樹立が宣言された。元首に清朝最後の皇帝宣統帝(溥儀)を迎えて、見事に「日本ブロック」が出来上がった

●「日本ブロック」は歯止めを失った!
 この筋書きを書いたのは、関東軍参謀・石原莞爾である。彼の戦略は、戦争を満州事変までに止めて中国とは友好関係を樹立し、その後は「日本ブロック」としての満州経営に乗り出す予定であったようである。しかし満州事変に成功してから、日本の軍官僚や政府、財界は、もはや、中国侵略への歯止めを失っていた

 昭和8(1933)年3月27日、満州国が承認されなかったことから、日本は国際連盟を離脱した。経済的には、国内での赤字公債政策に踏み切り、中国侵略戦争を拡大した。ここでの日本国は、「明治の日本」とは、もはや明らかに質的に異なるものに転化していた。




 
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