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  (2)「攘夷」の思想
 明治維新は、維新の推進派の掲げる「尊王・攘夷」と、これに対する「佐幕派」の権力闘争として行われた。ここではこの維新の変革を、対外政策面での「攘夷」と国内政策としての「尊王」に単純化して考えてみる。

★攘夷の思想―「攘夷」は、突然「開国」と「征韓」に変質した
●岩倉具視は、欧米との和親に転換して朝臣を驚かせた。
 勤皇派と攘夷派との激しい権力闘争として戦われた明治維新において、勤皇派が「尊王」・「攘夷」という言葉をセットとして利用したことは誰でも知っている。

 本来、尊王と攘夷は全く関係のない概念であるが、それが江戸時代の末期において、「攘夷」が「尊皇派」の重要な政策として主張された。
 しかし明治維新が勤皇派の勝利で終わり、新政府ができた途端に、不思議なことに「攘夷」を主張してきた新政府のスタッフは、一転して江戸幕府の外交関係をベースにして、「開国・文明開化」の政策を進め始めた。

 行き掛かりからいえば、明治政府はその成立後、直にこれらの外国と幕府が締結した条約を解消し、「攘夷」に踏み切るべきものであった筈である。ところが、逆に明治政府は積極的な「開国・文明開化」による近代化の道を歩み始めた

 開国による近代化路線は、もともと幕府がペリー来航以来、朝廷の反対を押し切って進めていた政策である。つまり旧勢力の幕府は、幕末において既に鎖国政策を放棄して開国を目指していた。そして新勢力の勤皇派が、旧来の「鎖国政策」を守って「攘夷」を唱えるという不思議な関係にあったのである。

 この勤皇派が主張していた「攘夷」は、明治政府になってから一体どこへ行ってしまったのか?

 文部省が戦前に発行した明治維新の正史を要約した「概観維新史」(昭和15)を見ると、問題の箇所には次のように書かれている。
 「初め王政復古大号令が煥発せられるや、参与岩倉具視は、朝議において欧米諸国と和親交際すべしとの論を唱え、従来鎖港攘夷に慣れてきた朝臣の多数を一驚せしめたが、ついに廟議は勅使を外国公使の許に派遣して、大政帰一の顛末を通告することに決し、宸裁を經るに至った。」(851頁)

 昨日まで攘夷一辺倒であった勤皇派の中心人物が、政権を取った途端に「欧米諸国との和親交際」に転換したわけであり、「朝臣の多数」ならずとも驚くのが当然であろう。結果から見ると、「攘夷」というスローガンは、「征夷大将軍」である将軍を権力の座から追い落とす手段に過ぎなかった。
 従って、権力が朝廷に移ればもはや「攘夷」という政策は不要であり、明治政府は積極的に開国への道をとることになった。その転換の舵取りをした中心人物は、明治維新の立役者・岩倉具視であったことが分かる。

 この政策転換を受けて、明治元年1月15日、参与外国事務掛の東久世通禧が勅使として神戸に赴き、イギリス、フランス、イタリア、プロシア、オランダ、アメリカなどの公使に政権が将軍から天皇に移った旨の国書を交付した。

 勤皇派は、「攘夷」思想を日本人のナショナリズムの高揚に利用することにより、それを倒幕の運動に結びつけた。その意味では、幕府は常に悪役の立場を演じさせられたわけである。その中を江戸幕府は、ペリー来航以来、欧米各国との困難な外交交渉をこなし、条約を成立させて、日本を欧米の植民地化の危機から救う努力を進めてきた。

 その間、朝廷からは常に実行不可能な「攘夷」を命令され、その為にどれほど多くの犠牲者がでたかしれない。この政策が明治維新が成功した途端に、岩倉の一言で簡単にひっくり返り、幕府による外交交渉の成果は、明治政府にそっくり利用されることになった。
 つまり、西欧諸国との交易路線は、見かけと大きく異なり、実質的には幕府から明治政府に連綿として繋がっていた。

 この維新における「攘夷」の大転換は、1945年の敗戦の時に見事に再現された。私はその時、旧制中学の1年生として「鬼畜米英」の本土上陸にそなえて、敵の戦車に突入して自爆するテロ訓練を毎日していた。8月15日が過ぎたら、突然、鬼畜米英を殺せ!といっていた軍事教官が、アメリカの青年のデモクラシーを見習へ!といいだして、我々純真な中学生を「一驚せしめた」。

 カタストロフに際して、このような大転換は日本人の得意中の得意と思われる。
 おそらく間もなく我々が体験するカタストロフにおいても、経験することになるであろう。津田左右吉は、明治6(1873)年の生まれであるが、幼時、実際に体験し見聞した明治維新が歴史の教科書と余りに違うことに驚き、日本書紀や古事記など日本の古代史の全面的な再検討を始める動機になったほどである。

●「攘夷」行動は、薩英戦争・馬関戦争で終了した!
 「攘夷」は、文久3-元治1(1863-64)年にそのピークを迎えていた。孝明天皇は、文久3年2月9日に徳川慶喜に勅して攘夷の期限を奏上させ、続いて3月11日に賀茂神社、4月11日に石清水神社に行幸し攘夷を祈った。
 追い詰められた幕府は、5月10日をもって攘夷を実行することを奏上した。そして長州藩は予定どおり、5月10日に下関を通航していたアメリカ船を砲撃し、26日にはオランダの軍艦を砲撃した。

 この長州の砲撃に対する報復として、6月にアメリカとフランスの軍艦が下関を砲撃、7月2日には、その前年の生麦事件の報復としてイギリスの艦隊が鹿児島を攻撃した。更に、翌元治元年8月5日には、英仏米蘭4カ国17隻の連合艦隊が下関に砲撃を加えた。いわゆる「馬関戦争」である。この四国連合艦隊の攻撃により長州側の砲台はたちまち破壊され、攘夷の非現実性が明らかになった。

 これら外国軍艦との戦闘を通じて「攘夷」の急先鋒であった薩摩と長州にも、攘夷の不可能なことが分かり始めた。しかし攘夷は倒幕のためのナショナリズムの源泉であり、攘夷党による跳梁はその後も続く。
 水戸の勤皇派・武田耕雲斎に率いられた「天狗党」の大集団が、徳川慶喜を通して「尊王攘夷」を朝廷に訴えるために京に向かって出発したのは、元治元年11月1日のことである。これも12月には降伏し、352人が死刑になるという悲劇的な結末を迎えた。
 これらのことから事実上の攘夷運動の終わりは元治元(1864)年といえる。

 朝廷も翌慶応元(1865)年10月5日に、懸案であった外国との条約に勅許を出すことになった。この時点で安政元(1854)年に幕府がペリーとの間に締結した「神奈川条約」以来、懸案になっていた日本と外国との間の条約が、すべて朝廷により承認されることになった。

●「攘夷論」は、「征韓論」に鞍替えした!
 「攘夷」は、倒幕運動のエネルギーを生み出す有効な手段であった。つまり「勤皇」と「佐幕」のイデオロギー対立のみで明治維新を成功させることは困難であった。
 そこで「尊皇」に「攘夷」が結びつくことにより、危機意識が日本人のナショナリズムを呼びさまし、それが倒幕のエネルギーに利用されたといえる。
 つまり明治維新は、基本的には朝廷を取り込んだ薩摩・長州と幕府との権力闘争であった。

 「攘夷」は、国民のナショナリズムを生み出すための非常に有効な手段である。そこで、明治政府になってから、「攘夷」に代わって登場したのが「征韓論」であると考えられる。西欧を相手に競争をした場合、軍事的にも経済的にも、明治初期の段階では余りにも彼我のレベルが違いすぎた。
 そこで代わりに登場した相手が日本と同様に「鎖国」していた隣国・朝鮮である。

 江戸時代、日本の「幕府」と朝鮮の「李朝」は共に外国に対して交渉を絶ち「鎖国」していた。しかし日本と朝鮮との間には、「通信使」という使節の往来があった。
 それは1607(慶長12)年から1811(文化8)年まで約200年続き、その間に12回の使節が日本に来ている。この使節による交渉は、12回の内の3回は秀吉の朝鮮侵略の際に日本に拉致されてきた人々の送還に関するものであり、あとの9回は将軍の代替わりや世継ぎ誕生のお祝いの賀使であった。
 
 この間、李朝の即位礼に対して、日本側から賀使が朝鮮に送られた事実はない。そのことから、その使節往来は、大変一方的な関係であったことが分かる。

 この通信使の来日は、幕府や諸藩の財政逼迫のためその往来を忌避する機運が高まり、相手方の李氏朝鮮も内部の派閥闘争で疲弊して、文化8年を最後に江戸参向が廃止された。その後は対馬まで幕府の使者が出向いて双方の応接をすることになったが、やがてそれも途絶えていた。   (吉留路樹「史話 日本と朝鮮」)

 明治政府は、文化8年以来絶えている通信使の復活を、明治元(1868)年12月に対馬藩を通じて王政復古の通告とともに朝鮮に申し入れた。しかし当時、朝鮮国王は、まだ若年で実父大院君が排外鎖国主義の政治をとっていたため、日本との修好は拒否された。そして、このことが後に征韓論が起こる原因になった。

 この大院君による交渉拒否の裏には別の話しがある。1867年に八戸順叔(アメリカ・ヒコ?)という日本人が、中国の広東で発行されていた「中外新聞」に、日本が現在、80余隻の「火輪船」を建造しており、来年の春にはフランスと日本が朝鮮に進兵侵攻するであろう、という記事を投稿していた。これを見た大院君政府は、日本を警戒して交渉の文書の受け取りを拒否したといわれる。(李?根「民族の閃光―韓末秘史」、8頁)

 明治維新で特権を剥奪された武士階級の不満が、「征韓論」に結びついて新政府に迫ったとも言われている。しかし実際には、征韓論の源流はそれより古い。たとえば攘夷論者の吉田松陰は既に10年以前に征韓論を唱えており、その根はかなり深い。松陰は、安政2(1855)年に野山獄から実兄杉梅太郎に出した手紙の中で、「取り易き朝鮮満州支那を切り隋へ、交易にて魯墨に失うところはまた土地にて鮮満にて償うべし・・」と書いている。

 この吉田松陰の提言は、日本政府の中心を占めてきた松陰門下の長州閥により、明治から昭和にかけて、まさにこの通り朝鮮・中国に対して実行された。 
 つまり攘夷派の先頭をきってきた長州による「攘夷」は、明治の「征韓論」に形を変えて継続したと考えられる。
 
 ところが不思議なことに、西郷隆盛が言い出した明治6年の征韓論の政変には、長州の政治家達が全く登場してこない。西郷は征韓論による政変に破れ、西南の役で滅びるが、長州の人々は見事に西郷を中心とした維新勢力を排除し、その上、長州の伊藤博文は見事に?征韓に成功し、「日韓併合」まで実現した。
 つまり征韓論を利用して、長州は薩摩の西郷隆盛の一派を失脚させ、明治以降の日本の軍事・政治の主流にのし上がったように見える。




 
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