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彷徨える国と人々
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  (3)「新左翼」の武装化(その2)

●大菩薩峠における赤軍派中央軍の壊滅
 ▲赤軍派の誕生
 共産同ブントの「関西派」が、「関東派」から分裂してそこから「赤軍派」が誕生した。そしてその中核組織体として「中央軍」が誕生した。
 赤軍派の軍事委員会における総指揮官として中央軍を担当したのは、のちに「よど号」ハイジャック事件の主犯となる田宮高麿である。
 田宮は、東北地方まで足を伸ばして赤軍兵士の獲得につとめ、わずか1ヶ月の間に高校生29人を含む百数十人のコマンドの「徴兵」に成功した。そのため赤軍派の組織の規模は、塩見孝也議長以下、336人という大軍団になった。
 それは田宮が考える「十個連隊1万人の師団編成をもった中央軍」にはほど遠いものではあったが、その短い時間を考えると急速なピッチの拡大であった。

 昭和44(1969)年9月4日午後6時、赤軍派の高原浩之の愛人であった重信房子が借りた葛飾公会堂において「赤軍派」の旗揚げ総会が開催され、ここに初めて赤ヘルメットに「赤軍」と白地で染め抜いた赤軍の兵士たちが登場した。
 公会堂の回りは、250人の兵士たちで埋め尽くされ、そのうちの50人は「赤軍戦闘団」と書かれたカシの棒を持って入口をかためていた。

 1階ホールの窓はすべてカーテンでふさがれ、そこに女性用の黒ストッキングで覆面をした兵士たちが観客席に陣取る姿は、それまでの新左翼の集会にはない物々しい状況であったといわれる。
 その大会には逮捕を恐れて塩見、高原、田宮という最高幹部は出席せず、大会の司会は中大生の佐々木泰弘がつとめた。また「基調報告」は政治局員の八木健彦が行なったが、参加者はそれが塩見高也であると思っていた。
 この大会において「戦争宣言」が採択され、ここから赤軍派は公然と武闘路線を走り始めた。

 ▲赤軍派の前段階 ―武装蜂起の失敗
 赤軍派の「前段階武装蜂起」は、大阪戦争と東京戦争の2段階で構成されていた。
 まずその第1段は、大阪において警察署、交番を襲撃して、武器を奪う「大阪戦争」から始まる。そして第2段としてその武器をもって首都東京に攻め入り、首相官邸、国会議事堂周辺の政府機関、警視庁を襲撃する「東京戦争」にいたるというものであった。
 この第2段において東京中央を襲い、政府高官を射殺すれば、大衆は革命に向って走り出すであろうという、まさに明治の自由民権時代に匹敵するほどの、大時代的、かつメルヘン的な構想である
 
 田宮は本気で桃山学院大学の生協事務所に軍事委員会の幹部4人を集めて、大阪戦争の計画を作成し、軍事委員会は直ちに布令を発して兵士を大阪に招集した。
 大阪における襲撃隊長の関西大学・福岡信孝に率いられた20名の兵士たちは、9月17日に大阪市東淀川区下新庄の明教寺に集まり、交番を襲撃することになった。
 ところが福岡が襲撃後の逃走資金として5千円を各人に渡そうとしたら、怖気づいた7人が集団脱落し、そのため17日の決行は不可能になった。

 福岡はあくまでも交番襲撃をあきらめず、翌18日には残る13人を堺市北署の安井町派出所近くの喫茶店に集めた。ところがこの派出所はマンモス交番であり、とても13人くらいでは歯の立たないことがわかった。
 そのため今度は2日後、福岡たちは枚方市の枚方署阪派出所を狙い、午後6時頃、近くの公園に集合した。しかし警官が何時までたっても現れない。
 実は、その日は京大全共闘の学生が大阪周辺で解放区闘争を行っており、大阪から京都に向う道路はすべて封鎖されていた。そのため警官たちはすべてそちらに動員されており、結局、10時まで待っても警官が現れないため襲撃中止になった。

 これにこりず、福岡たちは、9月22日午後6時半、大阪市内の阿倍野署・金塚交番を襲撃した。襲撃隊は、福岡以下20人であった。
 その日、交番の中には5人の警官がいた。その1人が、本署に連絡しようと真向いの果物店に飛び込んだのを見て、この警官から拳銃を奪おうとその果物店に火炎ビンを投げた。
 ところがこれが不発であり、これを見た群集が怒って赤軍派の兵士を半殺しにしてしまい、この襲撃は失敗した。

 民衆は、赤軍派の攻撃を見ても蜂起しなかったのである!これらの話は、まるで現代から遠くはなれて、明治時代の自由民権運動における話を聞くようにメルヘン的である。
 つまり日本の「赤軍派」の思想や行動は、日本の社会的現実からあまりにも遊離しており、そのことがメルヘンといえない悲劇的な事件に自らを追い込んでいった。

 「大阪戦争」に失敗した田宮は、舞台を東京に移すことにした。そこで大阪戦争の失敗に怒った重信房子など東京組は、9月30日夜、東大龍岡門近くの本富士警察署と大崎署の西五反田派出所を襲撃する計画をたてた。
 本富士署襲撃隊の隊長は明治大学の田中義三(=後によど号事件に参加)、隊員28人で高校生も混じっていた。ところが襲撃は、所長室に火炎ビンを投げ込んだものの、拳銃を奪う事は出来なかった。

 また五反田派出所の襲撃の指揮は中央委員の松平直彦、兵士は13人で、襲撃しようと交番を覗くと、公安とおもわれる私服がいたので、攻撃を中止してしまった。
 あとからこの私服の人物は、道を聞いていたただの市民とわかった。
 この2つの襲撃が失敗した後、逮捕された高校生から襲撃隊全員の名前が分かり、36人全員が逮捕されてしまい、「東京戦争」も失敗した。

 これらの失敗により、赤軍は武装蜂起に必要な武器の調達ができず、塩見孝也をはじめとする中央の大幹部はすっかり困惑していた。
 このようなときに福島医大の学生運動のリーダーで、共産同の東北地方の活動家で「みちのく赤軍」を立ち上げていた梅内恒夫が、パイプ爆弾の開発に成功したという情報が入ってきた。
 10月16日、梅内恒夫は実験室にしていた福島医大の産婦人科教室において、「鉄パイプ爆弾」を開発し、4人の仲間と阿武隈川で爆発実験を行い成功した。

 この爆弾の開発・実験の成功に狂喜した塩見孝也は、10月29日、赤軍派の拡大中央委員会を招集した。会場の東京・赤羽台団地471号棟101号室には、上野勝輝、八木健彦、松平直彦、重信房子などの幹部を中心に24名がそろった。
 ここで塩見孝也が「首相官邸武装占拠計画」を披瀝している頃、東北では梅内恒夫が弘前大学の青砥幹夫、植垣康博をアシスタントとして、青森市浦町奥野21番地の一軒家を爆弾製造工場としてパイプ爆弾の量産体制の準備に入っていた。

 10月31日の午後11時すぎ、文京区小石川2丁目17番の「富阪セミナーハウス」で赤軍派の幹部会議が開かれ、「首相官邸を襲撃する前に、兵士に武器の使い方を教えるため、11月3日から5日まで、山梨県の大菩薩峠で軍事訓練を行なう」計画を決定した
 幹部会議の3日前の10月28日、大菩薩峠の中腹にある「福ちゃん荘」という山小屋を赤軍派の木村和夫(東大)と松平直彦(早大)の2名が訪れ、ワンダーフォーゲルの合宿として、11月3日から3晩、70人の宿泊を申し込んでいた。

 首相官邸の襲撃方法は、攻撃隊、突入占拠隊、道路防護隊など、大菩薩峠での軍事訓練を終了した精鋭部隊により、11月6日午前6時を期して行い、官邸を占拠する。占拠は3日間持てば成功であり、その間に佐藤首相を人質として政治犯の釈放を要求するとし、襲撃後の組織再建の責任者まで決めた。
 ところが、11月2日になり、11月6日には全国全共闘のデモが首相官邸をとおり、そのために警戒が厳重になることから、実行日を11月7日に延ばすことになった。この24時間の遅れが、赤軍派には致命的なものになった。

 幹部会の決定は直ちに東北、関西に伝えられ、全国から大菩薩峠を目指して赤軍派が集合した。11月3日午後6時30分、「福ちゃん荘」の2階の2部屋をぶち抜いた大広間において作戦会議が開かれ、作戦行動計画の詳細が発表された。
 ところが50数名の赤軍兵士のうち、大菩薩峠における軍事訓練の真の目的を知っていたのは10名たらずに過ぎなかった。
 あとの兵士たちは殆どその計画を知らず、死ぬかもしれないという重苦しい空気が会場を支配したという。そして作戦会議の後で、肉親などへの「遺書」を書き始めた。

 一方、その頃、下界では他のメンバーが、攻撃用のトラックを盗んだり、千葉県内に「武器庫」や「兵舎」を設営する必死の準備をすすめていた。
 「赤軍派が不気味な動きをしている」という情報はかなり早くから警察の耳に入っていた。そして殆ど信じられないことではあるが、その頃、東京都心の道路や陸橋には、大菩薩峠で軍事訓練を行なう赤軍への参加を誘うビラが張り出されていたことを、私は記憶している。
 そこにはさすがに首相官邸を襲撃するとは書いてないものの、反政府的な軍事行動が大菩薩峠で行なわれることは、東京都民にも知られるほどの大らかなものであった。それはまさに明治時代の「自由民権運動」の現代版ともいえる大時代的なものであった!

 全国の公安は、既にそれまでの学生たちの動きを厳しく観察していた。
 西千葉駅西側のアパートの2階十号室に、11月3日午前2時頃、10人余りの赤軍派のメンバーが入るのを千葉県警の特別捜査班の刑事が見つけ、尾行を開始した。
 午前9時ごろアパートを出た高校生兵士と思われる2人組みの少年は、午前11時半の松本行きの急行に乗り、塩山駅で降りた。
 駅前から裂石行きのバスに乗り、終点で降りた。これを警視庁の刑事4人がタクシーで追い、福ちゃん荘に入るのを見た。

 その夜の内に、東京、大阪、京都、神奈川、千葉、茨城など関係都府県の公安刑事に非常呼集がかけられた。11月4日には塩山署に警察本部合同の「公安捜査隊」(100人)が編成され、更に280人の武装警官隊が組織されて、大菩薩峠には厳重な警戒網が張られた。
 総攻撃は11月5日午前6時に開始され、400名近い大部隊が小屋に突入した。
 そして「福ちゃん荘」に宿泊していた53名は、1時間足らずで全員逮捕された。
 7人の政治局員のうち4人が逮捕され、塩見、田宮、高原の3人を残すのみになった。塩見、田宮にも逮捕状が出されて、残存部隊に対する警察の追及が厳しくなり、赤軍派中央軍は殆ど壊滅的な打撃を受けた。






 
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